第六章 第九節【博士の見解】
カルザスがターナと宮廷で会った四日後の夕刻、空を覆っていた分厚い雲がようやく割れ、西から陽が差し込み始めていた。セオドアの書店に積み上げられた大量の古本が、それぞれ長い影を落としている。埃っぽい部屋の奥に座る店主は、本の山に隠れて戸口から見ることはできない。
カルザスが古書店の扉を開けると、軋む音と古木の香りが放たれる。奥からは悪態混じりの声が店内に響く。
「もうすぐ閉店だぞ。五分で済まないなら、明日出直して来な」
呆れた様子でカルザスは返す。
「無愛想にも程があるな。勤務態度、見直したほうがいいぞ」
声の主がわかった途端、セオドアの口調はさらにぞんざいになる。
「何だ、てめえか。アメリア・ダイスはまだ入荷してねえぞ。一昨日来やがれ!」
「まあ待てよ。今日は客を連れてきた。ちょっと顔を出してくれないか」
「……客だと? 冗談じゃねえ。この間のガスパルで懲りたわ」
「あれは、俺が連れてきた客じゃないだろう」
「おめえが疫病神だってことだよ」
ぶつぶつ言いながらも、セオドアは奥から顔を出した。薄い浅葱色のチュニック、ベージュのチノパンにダークブラウンのサスペンダー姿はいつもどおりだ。
カルザスの隣には、二人の男女が並んでいた。女は、たおやかな笑顔を見せて静かに話し始めた。
「お初にお目にかかります、セオドア・ゴルソン博士。突然の訪問、失礼申し上げます。私は、メスカ王国マイヤー家領主、ターナ・マイヤーにございます。こちらは、宮廷医を務めておりますバイロン・ダイ子爵です。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
深々と頭を下げる二人に、セオドアは目を丸くして硬直している。言葉が出てこない。
「博士の研究の成果、すべて拝読しております。クリアターコイズに関する客観的事実の積み重ねと示唆に富んだ考察、まさに研究者の鑑と存じます。謹んで敬意を表します」
ターナは、ダークモスのワンピースにチャコールグレイのヒールを身にまとっていた。肩までかかる髪を下ろし、ブラックオニキスのピアスが煌めく。背筋をぴんと伸ばし、両手を前で軽く合わせた姿は、目を見張る美しさだ。
バイロンもまた、手入れの行き届いたダークグレイのスーツに身を包み、洗練された雰囲気を醸していた。
ターナは柔らかい口調で続ける。
「本日は、博士にぜひお願いがあって参りました。ご迷惑でなければ、お話を聞いていただけますか?」
それでもセオドアは固まったままだ。ターナはカルザスのほうを振り返る。
「悪いけれど、博士に椅子を」
カルザスは部屋の隅の椅子を持ち出し、この老人を座らせた。その目は、まだ大きく見開いたままだ。
続けて、ターナとバイロンの席も手際よく用意した。
「失礼ですが、私たちも座らせていただきますね」
ターナは軽く膝を折って腰かけると、シトラスの香りが古びた店内にふわりと漂った。凛とした佇まいで、所作には一切の隙がない。
「まずは、マイヤー家領主として、博士にお詫びを申し上げなければなりません」
ターナは静かに口を開いた。
「先々代マルス、先代ユージンの国王在任時、クリアターコイズの調査のため、博士が幾度となく宮廷を訪問されたと聞いております。しかし、宮廷はそのすべてをお断りしました。クリアターコイズにまつわる事実が公になれば、様々な混乱を招くことが予想されるため、ご希望にお応えすることが極めて困難でした。その結果、博士の研究の進展が著しく妨げられたことは否定できません。誠に申し訳ありませんでした」
深く一礼する。
「その上でなお、私から博士にお願いを申し上げるなど筋が通らないものと、重々承知しております。ただ、クリアターコイズをめぐる悪い兆候が、徐々に顕在化しています。これを放置しては、東大陸の混乱は避けられません。そこで、これを沈静化するためにも、博士のお知恵をお借りしたいと決断した次第です」
慈愛を湛えたターナの声が、倍音豊かな響きとなって店内を隅々まで満たす。
「私ばかりが喋ってしまいましたね。博士のお声も聞きたいですわ」と口元を緩めて続ける。「過去の宮廷の対応には、ご不満もあろうかと思いますし……。マイヤー家の不始末は、領主たる私の責任ですから」
その言葉に背中を押されるように、セオドアが静かに応じた。
「かつて国王陛下に調査を願い出ましたが、徒労に終わったのは事実です。確かに、若い頃は腹も立ちました。しかし、クリアターコイズの本質が垣間見えるにつれ、やむを得ぬことだったと納得するに至ったのです。集められる情報に限界はありましたが、その範囲で私は研究をまとめ、二十年前に学界から身を引きました。ですから、ターナ様に対して何一つ不満などありません。それどころか、今まさに身に余る評価をしていただいたことに、恐縮するばかりです」
普段の毒舌とはかけ離れた沈着な語り口に、カルザスはいささか面食らっていた。
振り返れば、文芸や評論を語る際のセオドアは、口調こそ刺々しいものの、その内容は理路整然としていた。かつての失望や孤独が、この老学者の誇り高き知性を封じ込めていただけなのだろう。カルザスはそんな思いを巡らしていた。
少しだけ間を空けた後、セオドアは本題を切り出した。
「ところで、こうしてわざわざ私のところにお越しになったのは、ご尊父が客死された件がその理由ですね」
ターナは視線を落とすが、再びセオドアを真っ直ぐに見据える。
「父は歳相応の不具合こそあれ、概ね健康でした。それが、黒十字解放戦線との会談中に突如苦しみだし、倒れた後に……精神を崩壊しました。血のように赤い目をした者が、父を睨みつけていたと聞いています。物理的接触は一切なかったそうですが」
セオドアは言葉を選ぶように口を閉ざす。そして、やや声量を落として呟いた。
「『同化者』の間で、意識の『接触』があった……ということでしょうか?」
ターナの顔が強張った。左目がわずかに痙攣している。
「博士、それは……」
「あくまで仮説です」と一旦制する。「汎大陸の各地に、クリアターコイズに関する伝承が存在します。暗喩に満ちた表現や、虚構の混在する記録も含まれるので、その信憑性には幅があります。ただ、石の特性に焦点を当てて伝承の記述を整理すると、辻褄の合う描像がいくつか浮かびます。『同化者』間の意識の『接触』は、その一つです」
セオドアの述懐に衝撃を受けるターナは、辛うじて言葉を紡ぐ。
「でも、博士の論文集には……」
「そこまで踏み込んだ考察はしていません。推論の上に推論を重ねるようなもので、論文に書くのは躊躇われました。ただ、そう考えれば、マイヤー家の公開文献に散見される『奇妙な記述』にも、ようやく説明がつきます」
「奇妙な……ですか?」
「一般には、レトリックとして片づけられていますが、意識の『接触』を匂わせていると解釈したほうが、むしろ整合的な場合があります」
セオドアは、鋭い眼差しを向ける。ターナは目線を下に落として思索する。
「想像を超えていますね。私自身は、父との間でそうした『接触』をした経験はありませんが……」
「具体的な言語やイメージではなく、存在そのものを相手に触れさせると言いましょうか。しっくりする表現がないので、私はやむを得ず『接触』と呼称しています」と苦々しげに見解を述べた。「黒十字の『同化者』は、ユージン様の意識に向けて、何らかの手段で憎悪を直接ぶつけたのかと……」
セオドアはカルザスの顔を一瞥したが、すぐにターナに向き直る。そして、学者としての良識を付け加える。
「ただし、これは合理的な検証を経ていない仮説です。別の説明もありうるかもしれません」
「私は、キーダイでの会談に同席していました。陛下の乱れぶりは、尋常ではありませんでした」とバイロンは無念そうに吐露した。「その後、私は宮廷医として、クリアターコイズの摘出に立ち会いました。その石の中には、大小の黒い渦が幾重にも刻み込まれていました。禍々しく、深い憎悪が伝わってくるかのようでした」
「黒い渦……」とセオドアは記憶を手繰るように呟いた。「『漆黒に染まった石』というアイリス王子の逸話がありましたな。『同化』に失敗し、自ら狂気の道を突き進んで死に至った。摘出後の石は、二度と透明には戻らなかったと……。当時私も興味を抱きましたが、信用性の高い文献には最後まで辿り着けませんでした」
「宮廷が、記録を隠蔽したからですね」とターナは悲しそうに視線を落とした。「アイリス王子の件は、私も詳細には存じ上げません。記録自体は封印されていると思われます。宮廷としてもアイリス王子の件は『無かったこと』とみなしています」
「となると、その記録を探れば、新たな手がかりが見つかるかもしれませんね」とバイロンが添える。
「可能性はあるでしょう」とセオドアは顔色を変えずに頷いた。「どちらの場合も、精神の崩壊、死亡、石の変化と共通点が多い。ユージン陛下の石も、もはや透明には戻らないかもしれませんね」
父の石に刻まれた黒い憎悪の刻印。ターナはこれを思い返して、胸が締めつけられた。
「アイリス王子の石は宮廷から失われたと思われます。それを除けば、マイヤー家は三つのクリアターコイズを、代々保有しています。祖父マルスの石は、摘出の直後は、気品溢れるターコイズと見紛うほどの美しさだったと聞いております。その後二十年以上が経過し、透過度をかなり取り戻しています。父ユージンの石は、先ほど申し上げたとおり。そして、私の石。論文集に明確な記述はありませんでしたが、博士はクリアターコイズが世界にいくつあるとお考えですか?」
「私にも正確な数はわかりません。ただ、マイヤー家所有のものを含めて、少なくとも七個は存在するかと」とセオドアは淡々と答える。「八個目が存在するかはわかりません。それは悪魔の証明です」
「七……」
張り詰めた空気の中、ターナとバイロンが固唾を呑む。
「マイヤー家の三つ。消えたアイリス王子の石。さらに三つ、別系統の由来を持つ石があります。そのうちの一つが、ガスパル・オルティスを経て、黒十字に渡ったと考えるのが自然でしょう」
「うーん」とバイロンが呟く。「他にもまだ二個あるということか。その行方も気になるな」
「戦闘能力を上げる『魔法の石』だと信じ、草の根を分けてクリアターコイズを探し出そうとする愚か者は、古来より後を絶ちません。件のガスパル・オルティスも、石の物理的効果だけにこだわっていますが、まったく本質から離れた愚論です」
セオドアの口調が一段と鋭くなった。
「石は、単にリミッターを外して肉体の潜在能力を解放するだけです。通常は身体の組織が耐え切れません。靭帯や腱はズタズタに切断され、関節や骨は破壊され、筋肉は抉られるでしょう」
ターナとバイロンは、セオドアの知識人としての迫力を体感していた。引退しても色褪せることのない研究者の強い自負が、彼の言葉を支える。
「『干渉』を通して『同化者』の言動を是正するのが、クリアターコイズの本来的な役割です。肉体への影響は、『同化者』を守ることで石が自らを維持するための副次的な作用に過ぎません。その点を理解せず、いたずらに『同化』するのは余りに危険なのです」




