第六章 第八節【労いと薬箱】
涙のターナを労ったカルザスは、その一時間後、宮廷本殿を出て門衛所に戻った。そのとき、奥の詰所からバイロンの声が響いた。
「済まなかったな。ターナが長く引き止めてしまったようだね」
思わぬ待ち人に驚く。
「もう少しだけ付き合ってくれないか。コーヒーはいかがかな? ちょっと冷めかけているが」
「あ、ありがとうございます」
戸惑うカルザスは、中央のテーブルの椅子に腰を下ろす。バイロンはマグカップを二つ置き、向かいの椅子に座った。
カルザスがコーヒーに口をつけると、微妙な沈黙が流れる。
「あの、バイロン先生……」
口火を切ったカルザスに、バイロンは少し笑って応じた。
「『先生』は要らないよ。ざっくばらんに話そうじゃないか。君とは近い年代だと思うよ」
「えっと……うん、そうだね」と緊張を和らげる。「バイロンは、クリアターコイズのことに詳しいんだよね」
「立場上、多少はね」とあまり自信はなさそうだ。「宮廷医の最大の任務は、『同化』した国王嫡流の健康管理だ。『干渉』に振り回されたときのケアも含まれる。あと、国王が崩御した際の石の摘出も、我々の仕事だ」
「うん、さっきターナから聞いた。ユージン陛下のときは、大変だったって」
「陛下のクリアターコイズには、明らかに異変が生じていた。だが結局のところ、何が起きているのか、皆目見当がつかない。ターナも白旗を上げていた」とバイロンは自嘲気味に肩をすくめる。「彼女はそもそも『同化者』としての体験も扱いかねている。はっきりとした映像を見たり、誰かの声を聞くわけではないからね」
その表情に釣られ、カルザスも難しい顔になった。石の真実には、まだまだ手が届かないのだと改めて認識する。
バイロンは残ったコーヒーをぐっと飲み干した。そして窓の外に顔を向けて呟く。
「まあ、石のことはさておき、今日は君に来てもらって本当によかったと思っている」
怪訝そうに佇むカルザスに、バイロンは再び視線を合わせる。
「陛下が崩御されて十日あまり。国葬の指揮、弔問客の対応……。腰を落ち着ける暇もない中、あの子はその役割を完璧に果たした。しかも、知る限り、人前で一度も泣いていない。私はいつも彼女の傍にいたから、確信を持って言える」
カルザスは言葉を返せない。
「でも、君の前では堪え切れずに泣いた。溜め込んでいた感情を、あらん限り放出したんだろう。それは、私たち家臣の前ではできなかったことなんだ」
「ちょっと待って。俺は何もしていない。ただ隣にいただけだし。感謝されるようなことは……」
「君は、ターナの横に存在するだけで、十分価値があるんだよ」
カルザスは面食らう。
「ターナにとって、弱音を吐ける相手が、宮廷にはいないんだろう。最高位の王族として、一分の隙もなく振る舞うしかない。でも、君の前では素直になれた。ただの一人の人間としてね。それは、彼女にとって計り知れないほど重要なことなんだろう」
宮廷で王女として示すべき威厳と、カルザスの知る屈託のない笑顔。そんな深い隔絶を抱えて生きる困難さは、庶民の物差しでは到底測れない。
「ターナって、宮廷で窮屈そうにしてるの? 自然体で振る舞えなくて、実は苛々してるとか」
「いや、生まれたときから王女だし、四六時中歯を食いしばってるわけじゃないよ。近しい側近に対しては感情を露わにすることもあるしね。あれでいて、頭に血が上ると誰も止められなくなる」とバイロンは愉快げに続ける。「ただ、本音では息苦しいんだろうな。隙あらば宮廷から逃げ出そうとするしね」
「そんなに?」とカルザスの頬が緩む。
「しょっちゅうだよ。しかも、あの子が宮廷を抜け出す度に、後から追いかけて護衛するのは、私の役目の一つなんだ。迷惑なこと、この上ない」
「ターナがプランタを壊したとき、バイロンは尾行してなかったの?」
「あのときは完全に撒かれたんだ。私に気取られずに脱走が成功する確率は約三割。逆に言えば、七割はじゃじゃ馬のボディガードだよ。任務外手当を頂きたいものだ」
カルザスは堪え切れずに吹き出した。
「でも、今日のあの子を見ると、王女の鎧を脱ぐ時間が必要なんだと実感するよ。日々の期待にはきちんと応えてるからね。脱走もあまり目くじらを立てないほうがいいのかもしれない」
バイロンは噛みしめるようにそう語った。
門衛所の窓の外から、西日が差し込んでいた。白を基調とした詰所の壁が、夕暮れに染まり始める。
「そうだ。土産ってほどのものじゃないけど、よかったら使ってくれないか。いや、使わずに済むほうがいいかな」
バイロンは、掌ほどのサイズの薄い箱を差し出した。中には薬包紙、丸薬、貼り薬などが丁寧に詰められていた。
「薬箱だね」とカルザスは興味深げだ。
「まあ、医者だからな。こんな色気のない物で済まないが」とバイロンは肩をすくめる。「これが鎮痛剤。よく効くけど一日一包まで。それが胃腸薬。こっちは止血用のシート」
「ありがとう。根無し草の船乗りだから、こういうのはすごくありがたい」
「そう言ってもらえると嬉しい」とバイロンは照れ笑いを浮かべる。「これ以上引き止めても悪いから。どうしても、礼を言っておきたくて」
「こっちこそ、忙しいのに時間を割いてもらって」
カルザスは立ち上がり、出口へ向かう。だが、扉に手をかけたところで足を止め、一拍おいて振り返った。
「バイロン、やっぱり一つ相談があるんだ。もうちょっとだけ聞いてもらえる?」




