第六章 第六節【埋没する石】
「それで終わりってわけにもいかないから、黒十字の女のことをセオ爺に話そうとしたんだ。そうしたらあの爺さん、突然逆ギレして『今日はもう誰とも話さん。帰れ、帰れ!』って。結局、店を追い出された。さっきまで『赤い眼』の話題に食いついてたのに、掌返しだよ」
軽口を交えるカルザスは、ターナに対して努めて明るく接する。
「揚げ句の果ては『ワシの話を聞きたいなら、こいつを隅々まで読んでから出直してこい!』って具合に、この本を投げつける始末。もう訳がわからない」
カルザスがテーブルに置いたのは『文明社会と鉱物の地方伝承論考』。ターナが前々日に自室で手に取った本と同じものだった。二十枚以上のしおりや付箋が挟み込まれている。
「頭に来たから、さっさと読破しようと取りかかったんだ。だけど、学術論文なんて初めてでさ……。最初の頃は、一頁読むだけで息切れして、途方に暮れた。貿易の仕事も再開してたから、本を開いてると船長がどうでもいい用事を言いつけてくるんだよね。顧客ファイル取ってこいとか、靴下洗えとか。自分でやれよな!」
ターナは思わずくすくす笑った。
「でも、黒十字との会談中に国王陛下が亡くなったと聞いて、胸がざわついたんだ。黒十字がクリアターコイズを利用しているとしたら、今後ターナは難しい対応を迫られるんじゃないかって、心配になった。すぐにでもいろいろ聞きたかったけど、石のことを理解しないと何も始まらないと思ってさ。腹を括れば不思議なもので、気合いで何とかこの論文集を全部読み終えた。穴だらけだろうけど、我ながらなかなかやるじゃんって思ったよ」
ターナは声を上げて笑った。久しぶりの感覚だった。
「すごい! そんな短期間で読破するなんて、立派だと思うわ!」
カルザスがターナとの面会を約束した翌々日のこと。彼が宮廷を訪れるのは、タンデス脱出劇以来のことだった。さすがにワークウェア姿はまずいと思い、おかしな折り目のついたブルーストライプのワイシャツと、裾を無理やり折ったベージュのチノパンを引っ張り出した。いかにも着慣れていないちぐはぐな姿に、彼自身げんなりとしていた。
だが、そんなもやもやをターナの第一声が吹き飛ばした。
「似合ってるよ、カルザス! いい男で、見違えちゃった!」
お世辞もほどほどにと気恥ずかしくなる。構うことなくターナは畳みかける。
「ジャケットが一着あるとぱりっとするよね。知り合いの仕立屋さんのところに、今度一緒に行こうか。私が見立ててあげる」
ターナは、スレートグレイのカットソーに、足首が隠れそうな濃い色のフレアスカート姿だった。弔事から間もないため、明るい色は避けている。ただ、肌荒れは一時よりかなり落ち着き、ファンデーションを薄めに抑えることができた。こめかみの後れ毛を残し、ミディアムストレートの髪を緩やかに束ねていた。トップスの襟ぐりが広いため、うなじから肩にかけて肌が露わになる。久しぶりに、シトラスの香りも身にまとっていた。
この久しぶりの再会が和やかな雰囲気になるよう、ターナは気を配っていた。ずっと息苦しかった日々を忘れさせてくれる、大切なひとときにしたいと願う。カルザスに無用な気も遣わせたくない。
その一方で、ターナはバイロンにも事情を話して立ち会いを頼んだ。クリアターコイズの話題が避けられないためだ。カルザスも快くこれを了承した。
バイロンはカルザスと挨拶を交わすなり、ネルフィの市場でターナに本を渡した男だと気づいた。王女が貿易商に心を許す様子を、興味深げに眺めていた。
応接室の正方形のテーブルを囲み、ターナの右にカルザス、左にバイロンが座る。三人とも、セオドアの論文集を通読済みという前提だ。
カルザスは、古書店での出来事をひととおり語った後、いよいよ本題へと踏み込んだ。
「マイヤー家として話せないこともあると思う。だけど、ターナに最初に聞いておかなきゃならない」
「何かしら?」
「ターナは……クリアターコイズと『同化』しているの?」
「いきなり核心を突くのね」
そう言って一瞬だけ目を伏せたが、すぐに表情を整えた。ゆっくりと背筋を伸ばすと、応接室の空気がぴんと張り詰めた。
「ええ。マイヤー家八百年の慣行に従って、私はクリアターコイズと『同化』しています。様々な恩恵と、それに伴う制約を受けています。そして、無用な混乱を招かないよう、公式にはこの事実を認めていません」
いつもより低めの声色には、王家としての気高さが込められていた。カルザスはその威厳にいささか気圧される。
しかし、ターナはすぐに柔らかな調子へと切り替える。
「でも、実際のところ……あんまりいいことはないのよ。自分で制御できなくて、手を焼くことが多いの。言うことを聞いてくれない雑な彼氏を持ったら、こんな気分になるのかしら? ねえ、バイロン?」
「さあな。強いて言うなら、我が儘で雑な王女様のお守りをする宮廷医の心理に近いんじゃないか?」
「あら、ごめんなさい。まったくピンと来ないわ。だって、『我が儘で雑な王女』って、どんなものか私にはさっぱり想像がつかないもの!」
三人は揃って顔を綻ばせ、あっという間に雰囲気は和らいだ。
だが、ターナの告白の重みが消えるわけではない。
「……そうか。この本に書かれてることが、目の前で起こってるんだな」とカルザスは、虚実が溶け合う感覚に戸惑っていた。「小指の先くらいの石なんでしょ。ターナの身体に埋まっているんだよね……」
「確かめてみる?」と彼女は問い返し、左の肩甲骨の上部を左手で撫でる。「このあたりなの。左右を比べて触ると、すぐにわかるわ」
ターナはカットソーの襟ぐりを指で広げ、背中を向けた。透き通るような肌がカルザスの目を射る。垣間見えるキャミソールの肩紐が、扇情的に彼を惑わす。
「え、でも……」
カルザスは悪事を唆される気分で躊躇する。その様子を見て、ターナは煽る。
「合法的に乙女の柔肌を愛撫できるのよ。千載一遇のチャンスじゃない。ほら!」
「何だよ、愛撫って……」とその軽口に苦笑するが、毒気を抜かれて罪悪感がいくぶん和らいだ。
カルザスは後ろからその両肩にそっと触れる。ターナの背中がぴくりと動く。
「もう少し首の近くよ」
潤いと滑らかさが共存する感触に、心拍数が上がる。邪な意識を必死に打ち消しつつ両手を移動させると、左手が硬いものの感触を捉えた。
「これか! 左側だけ、何かが埋まってる」
左右を比べるように軽く押し込む。石は想像していたより小さかった。
ターナはすっと身体を離して、カットソーの襟元を整える。
「はい。サービスタイム、終了ね!」
鼻に皺を寄せ、小さく舌を出す。かすかに頬が赤らんでいる。
「それにしても、そんな小さな石が……」とカルザスは心を落ち着かせようと、話題を進めた。「セオ爺の論文には、クリアターコイズの作用が書かれているよね。『干渉』と『発動』。ターナもその影響を受けてるの?」
しばらく言葉を探すように沈黙した後、慎重に口を開いた。
「その理解で間違いないわね。クリアターコイズは、私の言動を誤りと判定すると、身体と心を圧迫するの。それが『干渉』」
バイロンが補足するように頷く。
「その『干渉』が強くなりすぎると、変調に本人は耐えられなくなる。クリアターコイズの望む言動に修正することで『干渉』は収まる。結果、石に矯正されているように外からは見える——ということだよな?」
「そのとおり」とターナが続ける。「でもね、私の思考まで乗っ取られるわけじゃないし、頭の中で何を考えるかは自由よ」
カルザスはまだ腑に落ちない。その悩ましげな様子に、ターナは助け船を出してみる。
「例えば、そうね……。カルザスには、生理的にだめなものってある? 視覚でも味覚でもいいわ。ぞわぞわと鳥肌が立つような感覚」
質問から脈絡を読み取れないが、思案の末、答える。
「そうだなあ。苦手なものといえば、シダの葉の裏。わかる?」
「ああ、赤くて丸いぶつぶつが規則正しく並んでるやつね。あの正体って何なの?」
「胞子の袋だな。子孫を残すための」とバイロンが解説する。
「うああ、想像するだけで蕁麻疹出そう……」とカルザスが顔をしかめる。
「そういう生理的に受け付けられない感覚が、『自分自身の言動』に対して起こるの。私の場合、強烈な吐き気を催して、立っているのも辛くなる」
「……自分の喋ったことがそんなふうに拒絶されるって、やるせないなあ」
「でもね、『干渉』の主張は、結果的に正しいの。八百年間、マイヤー家はそうやって選択と決断を重ねてきたのよ」とターナは言葉に重みを込めた。「一番いい例が『アルクマッハの解放』じゃないかしら」
「えっ? それもクリアターコイズの判断なの?」
「三百五十年前、ジブ帝国の前身アルクマッハ帝国とメスカ王国が紛争を繰り返していた。時のエルヴィン国王は、突然アルクマッハの捕虜全員を一方的に解放した。一般的な軍事外交としては常識外れだわ。でも、これに油断したアルクマッハの緩慢な攻撃を呼び込んで、兵站を分断して混乱を招いた末、あっという間に首都エルジオを武装解除した」
「その後、アルクマッハは長きに渡って国力を低迷させた。カイト夫妻によるジブ帝国建国の呼び水となったんだよね」とカルザスは頷く。「そして、エルヴィン王は東大陸の英雄として今でも称賛されてる」
「でも、その決断は自分の意志ではなかったと、後に吐露したそうよ。『干渉』が用意した未来のシナリオと、寸分違わず事が運んだ。エルヴィン王は背筋が凍る気分だったと……。だから、得体の知れない石に頼りすぎるなと警告を発したの。だけど、それ以降の国王は、自らの判断より、クリアターコイズからの『干渉』を優先するようになった」
「そうなんだ……。歴史の裏側ってやつだなあ。すごい話」
「正真正銘の裏側よ。マイヤー家と一部の側近しか知らないこと。もしかしたら、ゴルソン博士は断片的にご存じかもしれないけど」
ターナはセオドアの著作に優しく手を置く。




