第六章 第五節【拭えぬ因縁】
「げほっ。がほっ。ああっ! 埃をまき散らすな! もうちょっと丁寧に扱え!」
「うーん……。ないなあ。アメリア・ダイスの本だぞ。結構出回ってるはずなのに」
カルザスは、セオドアが喚くのを横目に、奥に埋もれた本を探索するため、手前の山を脇へ移す。だが、別の山にぶつかり、バランスが崩れそうになる。
「触るな。動かすな。掘り返すな! どこに何があるか、わからなくなる!」
ベイ・ブリッツの『回顧録』ほか十五冊を購入してから、ちょうど三週間。ターナがカルザスと無線機で会う約束をした日から十五日遡る。
「おめえも暇だな。ジョシュアの船は直ったんだろ? いい若いもんが、仕事しねえか」
「明日の朝には、サンデライト港に向かうんだよ。アライアル号の復帰第一弾の仕事さ。今日を逃すと、ネルフィにはしばらく来ないからな」
「けっ。買うもん買ったら、当分来んな。毎度毎度、騒々しくしやがって」
「言われなくても、用が済んだら帰るさ。それにしても、何でないんだ? 品揃えが悪すぎるぞ」
「お前、ブリッツ派じゃなかったか? 何で急にダイスなんだ?」
「ちょっと前から『旅の聖人』を読み始めたんだよ。意外と面白くてさ。他のも読んでみたくなった。『社会学序論』とか『悲劇の構造』とか、有名どころがいろいろあんだろ。なあ、本当に置いてないのか?」
「最近、入荷した記憶がねえな。冗談はともかく、たまたまだと思うがな」
「そうか……。じゃあ、取り寄せてくれよ。いつものように」
「坂の上の新しい本屋で買ったらいいじゃねえか。今晩から飽きるほど読めるぞ」
「客に他所の店を勧めるって、どうなんだよ?」とカルザスは呆れる。「『旅の聖人』も、まだ序の口なんだ。急いでないから、頼むわ。セオ爺」
「ちっ。面倒くせえな。じゃあ『社会学序論』と『悲劇の構造』だけでいいのか? 変わったところだと『大陸と月』なんてのもあるぞ」
「ああ、それは昔、挫折したんだ。ピンと来なくてな。あれが、ダイスを敬遠するきっかけだったのかもな」
「奇を衒いすぎてるからな。ダイス入門としては厳しいかもしれん」
日頃から憎まれ口を叩き合う仲だが、本と作家の話題については、互いに心地よく意見を交わせる。カルザスは、セオドアの確かな読書眼を信頼していた。
そのとき、店の扉が乱暴に開け放たれた。埃を巻き上げ、古書の香りが揺らぐ。
入ってきたのは、二人の男だった。一人は、ぼさぼさに乱れた白髪の老人。もう一人は、縁なし眼鏡をかけた大柄な男だった。
「汚い店だね。貧すれば鈍するとはよく言ったものだ」と老人が店の奥に向かって嫌味を投げかける。「かつて学会を二分した論客も、逃げ出した末路は哀れなものだな」
聞き覚えのある声を耳にした瞬間、セオドアの顔はたちまち不快感に歪んだ。歳月を経てその姿は相応に変わっていたが、そこに立っている男がガスパル・オルティスであることに、疑いの余地はなかった。
「ふん。顔も見たくないというところかね。珍しく意見が合うじゃないか」とガスパルはセオドアにゆっくり近づく。「地道に続けた私の研究が、いよいよ大きく花開きそうでね。貴殿に敬意を表して、わざわざ報告に来てやったのだよ。『継続は力なり』という金言を贈らせてもらおう。そして、私の成果を羨みながら、寂れた古本屋の主人としてくたばりたまえ」
「そんなくだらんことを言いに来たのか。相変わらず卑しいな」
セオドアは、低い声を発して睨み付ける。
「減らず口も懐かしい。議論と称して罵り合った若い日々を思い出すよ」
ガスパルは、手近な椅子の背に右肘を乗せた。その斜め後ろには、彼の弟子キースが、無言でその様子を眺めている。
「単刀直入に言おう。私は、念願だったクリアターコイズを入手し、黒十字解放戦線の被験者に『同化』させた。石が肉体に与える影響を、科学的に検証している」
「おい貴様。今、何と言った?」
セオドアは両目を見開き、呻き声を上げた。
「おや、耳まで遠くなったか? それとも耄碌か?」とガスパルは嘲笑する。「『同化者』は、筋力、俊敏性、耐久性——あらゆる肉体的機能が飛躍的に向上した。十代の女だが、実地の戦闘では二十人を相手に無傷で勝つほどだ」
セオドアは、ガスパルの襟元を右手で掴み、乱暴に引き寄せた。
「何という危険なことを……! 精神への影響がどれほど深刻か、十分には理解されておらんのに」
ガスパルはその言葉を聞くや、唐突に激昂した。
「貴殿は未だに世迷言を言うか。あの石は、人の精神に影響など与えん! あったとしても、肉体の変化に伴う反射的な効果に過ぎん! 二十年も前に辞めた腰抜けが、それでも妄想にこだわるか?」
「妄想ではない。貴様が見ている肉体への作用など、枝葉末節に過ぎん。なのに、あろうことか本当に『同化』させるとは……。貴様、やっていいことと悪いことの区別もつかんのか!」
「カビの生えた伝承や迷信にすがって、現実を見ようとしない。気の毒なほど愚かだ」とセオドアの右手を払いのけ、冷たく睨む。「科学とは実証だ。悔しければ、貴殿自身で持論を証明してみればいい。違うかね?」
ガスパルは踵を返し、キースとともに出口へ向かった。唖然とするカルザスに、蔑むような視線を投げかけた。
セオドアは震える手をテーブルに突き、その場に立ち尽くした。
「何なんだ、ありゃ?」とカルザスは事態を呑み込めない。「頼まれてもいないのに、喚いて帰っていった。因縁がありそうだけど、何者なんだ?」
セオドアは顔を背ける。
「お前には関係ない」
「クリアターコイズって言ってたよな。あれだろ、王国の守護石だとか、神託の依代だとか、軍神を呼び覚ます鍵だとか……。ほとんど都市伝説だよな」とカルザスは思いつくまま言葉を継ぐ。「黒十字の女がどうとか言ってたけど、コロキスで見たあれがそうかもな。眼が真っ赤で、異様に強かった」
セオドアは顔色を変え、カルザスに詰め寄る。
「お前、『同化者』を見たのか? 黒十字ってのは本当か? 赤い眼ってどういうことだ?」
「いっぺんに幾つも質問するな! ちょっと落ち着けよ」
「まさか……。本当に石が市井に流れ出たというのか。歴史の表舞台には決して現れなかったのに……」
セオドアは椅子に崩れ落ち、頭を抱える。カルザスは手近な椅子を引いて向かいに座った。
「とりあえず、冷静になろう。まず、さっきの奴は何者なんだ? というか、あんたも、ただの古本屋じゃないってことだな?」
しばらくの沈黙のあと、セオドアが重い口を開いた。
「ワシはかつて、歴史学者だった。四十年前、ある鉱石にまつわる伝承が、各地に存在することに興味を持ち、調査を始めた。やがて、メスカ王国の宮廷——マイヤー家に辿り着いた。八百年前から今に至るまで、クリアターコイズと呼ばれる鉱石の力を利用して、国を統治していたんだ」
いつもの悪態は影を潜めていた。カルザスは戸惑う。
「さっきの奴は、ガスパル・オルティスという同業者だ。研究対象が一致していたから、当初は組んで調査に出向いたこともあった。だが、次第にワシらは意見を違え始めた。学説を戦わせること自体は健全なことだが、奴は自説に都合の悪い事実を排除するようになった。それは学者として、正しい態度ではない。奴との議論は不毛なものとなり、徐々にワシは距離を置くようになった」
セオドアは、生気を失った目で虚空を見つめている。先ほどまでの勢いは削がれ、語り口はすっかり冷え切っていた。
「さらに悪いことに、マイヤー家は石の存在を公には認めておらんから、研究はすっかり行き詰まってしまった。意欲を失ったワシは、二十年前、学界から足を洗った」
彼は立ち上がり、店の奥の机へと戻る。
「大して面白い話でもない。今さら新たな『同化者』が現れたところで、ワシにはもうどうすることもできん」
そう呟いたセオドアの背は、いつになく小さく見えた。




