第六章 第四節【着信と混乱】
その日の夕刻、宮廷の地下から部屋に戻るや否や、ターナはベッドに倒れ込んだ。不快な気分はいくらか治まったものの、石の紋様のおぞましさを思い返すと、全身が強張る。
一体これから何が始まろうとしているのか。悪意に満ちた存在が水面下から浮上し、少しずつ爪痕を残している。その脅威は、想像以上にマイヤー家へ近づいていた。見えない敵と戦わなくてはならないような感覚に、ターナは打ち震えていた。
そのとき、デスク上の無線機に着信が入った。這うように無線機まで辿り着き、受送話器を右手に取る。誰でもいいから、現実に蓋をしてほしいと願った。
すると、ローラの声が聞こえる。ターナは心の底から安堵した。
「ご無沙汰してしまったわね」と小さな声で応える。「ネルフィのときはお手数をかけました……。ええ。葬儀の際も、ほんとうにありがとう。直接お話しできなかったけど、ローラが来ているのは知っていたから、心強かったわ」
雨の叩きつける音が止まない中、ローラの口調は、いつもどおりさばさばしていた。湿っぽくなるでもなく、無闇に励ますでもない。そこには、ターナに対する十分な気遣いが溢れていた。
「今日はどうしたの? え? カルザスが?」
一瞬、時が止まったような気がした。
カルザスのことが意識に浮かんだのは、父の死以来、初めてだった。この十日間、まるで別の世界で生きていたかのようだ。
彼の名を耳にした瞬間、クリエに出かけた日の記憶と映像が鮮明に蘇った。それは、彼女の萎縮した心身を和らげた。
ローラ曰く、ターナと連絡を取る手段を持たないカルザスが、仲介を依頼してきたとのことだ。とはいえ、話とは一体何だろうか。ターナは訝しんだ。
しばしの静寂を経て、カルザスが代わる。
「ターナ。忙しいときにごめんね。ちょっと迷ったんだけど、連絡させてもらった」
「ううん。私は大丈夫よ」
ターナの心と身体に、カルザスの声がすうっと沁みる。
「ああ、それから最初に。お父様はお気の毒でした。心よりお悔やみ申し上げます」
「……ありがとう」
「大丈夫なの?」
「ええ。悲しいとかの前に、突然すぎたから……。あと、気を遣うことが多すぎて。自分の感情がよくわからなくなってる。そのうち、実感が湧くのかな……」
「そうだよね。とにかく、無理しないで。宮廷だったら頼る人はたくさんいると思うから」
「そうね」
不思議な間が空いた。
「えっと、用件なんだけど……。今、ローラが気を遣って部屋を出てくれた」
「そうなの?」
不安が大きくなる。人払い?
「何から聞けばいいのか……」とカルザスの口調は淀むが、意を決したように尋ねる。「セオドア・ゴルソンのこと、知ってる?」
不意打ちだった。その名前の重みと、それがよりによってカルザスの口から飛び出したという事実に、全身の血が凍りついた。
受送話器の相手は、無言の時間を焦らずに待っている。
ターナの頭の中で様々な思考が逡巡した。その名前が俎上に載せられる理由を、尋ねないわけにはいかない。
「ええ……お名前は。直接お会いしたことはないけれど。ゴルソン博士のことをカルザスは知ってるの?」
「うん。セオ爺……セオドア爺さんだから『セオ爺』ね」と注釈を挟んで続ける。「セオ爺は、ネルフィで小さな古本屋を経営している。狭くて小汚い店だけど、俺は結構気に入ってるんだ。絶版になった本でも頼めば取り寄せてくれるし、言ってみれば俺専用の本棚みたいなものかな。まあ、仕事が増えただの面倒くさいだの、文句はひととおり聞かされるけどね。偏屈で口の悪い老人だからさ」
ターナは話の着地点が見えず、不思議そうに受送話器を握ったまま黙っていた。
——古本屋の主人? 誰のこと?
「ただ、セオ爺が『博士』だってのを最近知ったんだ」
「あっ……」
ターナは口を覆った。知らず知らずのうちに敬称をつけていたことに気づく。
「二十年前までは、ある研究に没頭していたらしい」
やはり、ゴルソン博士の件だと確信した。カルザスが、博士の過去の研究内容を知ったということだ。ターナは、何らかの覚悟を求められているように感じた。
カルザスは落ち着いた口調で続ける。
「それも含めて、セオ爺と俺の身に起こったこの二週間の出来事を、ターナに話しておきたいと思ってる」
ターナは、言葉を発することができない。
「それは、宮廷にとって重大なことだと思えた。俺が首を突っ込むべきじゃないかもしれないけど、やっぱり見て見ぬふりはできない」
様子を窺うように間を空けた。そして、言葉を継ぐ。
「無線機越しで込み入った話をするつもりはないよ。突然だし、戸惑うのは当然だから。ただ……できれば、明後日の昼過ぎにでも少し時間をもらえないかな。会って話をしたい」
再び、沈黙。そして、ターナはやっとのことで返事をする。
「……ええ、わかったわ。正門の門衛に話しておくから。取り次いでもらって」
「ありがとう」
無線が切れた。
ターナは椅子に背を預けたまま、しばらくの間、視線を泳がせていた。カルザスとゴルソン博士——この意外な接点は、彼女を静かに揺さぶっていた。
ゆっくりと立ち上がり、ベッドの反対側にある高い書棚に歩み寄る。右寄りの上段に梯子を掛け、数段昇った。最上段にある革表紙の一冊を抜き取る。
擦り切れた表紙には、金文字でこう記されていた——『文明社会と鉱物の地方伝承論考』。その著者は、セオドア・ゴルソン博士。
梯子から降りたターナは、三章立ての目次を眺める。その頁数の九割以上を占める第二章のタイトルは『特殊なターコイズの社会学的考察』と掲げられていた。




