第一章 第四節【薄暮の急襲】
商港マイルの西の端には、ジブ帝国の国境線が引かれている。そこを跨ぐように検問所が建ち、国境警備兵が詰めていた。境界の先は、特定の国家に属さない辺境だ。切り立った渓谷が迫り、西の彼方まで険しい山並みが途切れることなく連なっている。
ジブ帝国の南にはタンデス自治区、さらにその南にメスカ王国が位置する。いずれも西側の国境で、この山岳地帯と接していた。「ギルザの地」と呼ばれるこの一帯は、細長く南北に続いている。
ギルザに暮らす人々は、ほとんどが貧しく、日々の糧にも事欠く生活を強いられていた。いつしか、ギルザの民は「蛮族」と蔑まれ、差別を受けるようになった。
経済格差が拡大するにつれ、ギルザの若者が、国境越しの町で粗暴な振る舞いを見せるようになった。窃盗や傷害などの犯罪が多発し、差別感情は決定的なものとなった。警備は年々厳しくなり、国境を挟んだ互いの交流は、ほぼ断たれた。
そんな中、ギルザの若者を中心に「黒十字解放戦線」と呼ばれる私設軍が組織されたのは、五年前のことだった。不満を抱える者が集まり、今では三百人を超える規模に膨れ上がっている。
黒十字解放戦線は、メスカ王国、タンデス自治区、ジブ帝国の町を組織的に襲撃するようになった。奪った金品は、ギルザの子どもから年寄りにまで分け与えられた。今や、ギルザの住民の多くが、黒十字の略奪に依存した生活を送っていた。
マイルも、黒十字にとっては標的の一つだ。上品とは言えずとも活気のある商港に、黒十字の存在が暗い影を落としていた。
アライアル号が搬入の仕事を終えた日の夕刻、黒十字第一隊の三十名ほどが、マイルを見下ろす渓谷に集結していた。四隊ある中でも、第一隊は最強を誇る部隊だ。
黒十字の名のとおり、全員が黒ずくめの戦闘服をまとっている。金属製の胸当てをつけた者、鉄兜をかぶった者もいたが、装備に統一感はない。
誰もが、槍か剣で武装していたが、銃器を持つ者は一人もいない。この時代、銃はまだ稀少品であり、各国の警備兵や警察の一部が保有するに過ぎなかった。
第一隊の副隊長、ファビオ・ガルシアは、渓谷からマイルの町を見下ろしていた。西の山に早く日が隠れるため、この町の日没は早い。薄暮の中を襲撃するため、彼は時が過ぎるのを待っていた。
間もなく三十歳を迎える彼は、切れ長の目に乏しい表情の男だ。血気にはやる隊員が多い中、その冷静沈着な振る舞いは、隊内でも一目置かれていた。
腕時計を見やったファビオは立ち上がり、隣の隊員に監視の続きを任せると、奥の窪地へと降り立った。ブーツが砂利を踏み締め、ぎりりと摩擦音が放たれる。
そこには、一人の若い女性が岩壁にもたれ、足を投げ出して座っていた。目を閉じているが、眠っているわけではない。歳は十代半ばだが、顔立ちはさらに幼く見える。黒い戦闘服に身を包み、黒髪を束ねる深紅のリボンが目を引く。
「サイカ、準備は整った。いつでもいい。指示を出してくれ」
ファビオが声をかけると、その女性は薄く目を開けた。
「すまない。体力が戻り切らなくて……」
整った顔立ちだが、なにしろ生気がなく、顔色が悪い。
サイカの横に立っていた小柄な青年が口を挟んだ。
「そんなこと言うなよ。前の襲撃は大変だったんだ。仕方ないさ」
レスター・ボイド。サイカと同い年で、感情を隠すことができない性格だ。心配を露わにして言葉を重ねる。
「今日だって、無理して来ることなかったのに」
しかし、サイカは弱々しくも、きっぱりと言い切った。
「私は隊長だ。言い訳は許されない。前線に立てないなら、ここで隊を動かさなければならない」
なお気遣おうとするレスターを制したファビオは、サイカに念を押す。
「打ち合わせどおり、俺たちが走り出したら、すぐにヴィクトルの馬でコノロコへ向かってくれ。俺たちも、終わり次第合流する」
彼女は小さく頷いた。コノロコとは、第二隊が拠点を張る地域だ。
続けて、斜め前に立つ青年に呼びかける。
「ヴィクトル、サイカを頼んだ」
弟のヴィクトル・ガルシアは、無言で力強く頷いた。
さらに、ファビオは全隊員に向かって声を張った。
「今回は手短に済ませる。目安は、襲撃開始から十五分間。その後、直ちに撤収だ。国境警備隊の邪魔が入ったら、自身の安全を優先してくれ」
その間、サイカは山々に囲まれた狭い空を見上げていた。太陽の姿は既に隠れ、周囲は徐々に明るさを失う。窪地には風も届かず、重く土臭い空気が静止していた。
サイカ・ノヴァクは、第一隊の隊長だ。半年前、満場一致でその地位に抜擢された。
小柄な身体に似合わぬ凄絶な戦いぶりと、圧倒的な強さ。その姿に魅せられ、彼女を救世主のように崇める隊員も増えている。
だが、その強さには代償があった。襲撃のたびに力を使い果たし、しばしば何日も寝込む。
今回はとりわけ回復が遅れ、強襲への参加を断念した。それでも、最終命令を下すのは隊長の役目だとサイカは言って聞かず、そのためだけにこの前線にやって来たのだ。
全員が、彼女の号令を待つ。
三分ほどの沈黙ののち、薄暮を見上げていたサイカは呟いた。
「では、始めよう」
ファビオは頷き、鋭く命じた。
「よし、行くぞ! 全員の帰還を心から願う!」
隊員たちは一斉に「うおお!」と雄叫びを上げ、馬に飛び乗ると、山道を駆け降りていった。蹄の音が、静まり返った山あいに響き渡る。
砂埃の匂いに、残ったヴィクトルは顔をしかめた。そして、サイカを背負って馬に跨がる。




