第五章 第十節【終焉の覚悟】
キーダイ会談当日の早朝、宮廷本殿で出発の準備を整えたユージンは、側近二人を伴ってターナの部屋に向かった。あれほど同行すると張り切っていたにもかかわらず、ターナは一向に姿を見せなかった。時間に几帳面な娘らしくないと首を傾げる。
扉を開けたユージンは、部屋の様子に驚き、図らずも笑い出しそうになった。
中央のテーブルには、ファイルや資料が三つの山をなして積まれていた。その合間に広げられたノートの上で、ターナは突っ伏して寝息を立てている。昨夜と同じ部屋着姿で、ベージュブラウンのミディアムヘアには、手櫛の跡が残っていた。
どうやら下準備に没頭するうちに、エネルギーが切れてしまったらしい。ここ十日ほど、明らかに睡眠時間を削っていた様子だ。
ベッドから毛布を取ったユージンは、そっとターナの肩に掛ける。
「このまま寝かせてやってくれ。今日のところは、ターナを置いていくことにする」
そう側近に告げて続ける。
「戻ったら、確認テストだな。理解が曖昧だったら、勉強法を一から見直さねばなるまい」
足音を立てぬよう部屋を出て、扉をそっと閉じたユージンは、優しく呟いた。
「行ってくるよ、ターナ」
かくのごとく午前中の顛末は、同じ日の深夜のユージンにとって、あまりにも遠い過去だった。
サイカがぶつけた強大な負の感情は、ユージンに残酷なまでの爪痕を残した。恐れ、悲しみ、憎しみ、怒りが波状に押し寄せ、そのたびに、激しく怯え、泣き叫び、絶叫した。疲労の果てに、ときおりかすかに正気を取り戻しては、またすぐに黒い絶望に飲み込まれる。その繰り返しだった。
ベッドに運び込むと同時に、バイロンは鎮痛剤を投与した。シャイナの丘に群生するハーブから抽出した白い結晶は、効果が抜群なことで知られている。だが、許容量の十倍を投与しても、その苦痛を和らげることは叶わなかった。
錯乱から二時間。人相の変わり果てたユージンは、わずかに落ち着いた間隙に、擦れた声でバイロンを呼んだ。
「陛下、いかがなさいましたか」
「……おそらく、まともな話ができるのも、あとわずかであろうな。世話をかけた」
返す言葉が見つからない。何を言っても空しく響く。
「見たであろう。黒十字のあの女。クリアターコイズに『同化』している。ターナに、気をつけるよう伝えてくれ」
息も絶え絶えだが、バイロンに言葉を託す。
「ターナを連れて来なくて正解だった。あの子まで倒れてしまったら、それこそ王国の危機だ」
あまりの理不尽さに、バイロンの目に涙が滲む。
「それから……オスカーに、私の『後始末』を頼むと。くれぐれも」
ユージンは呼吸を整える。
「少し独りにしてくれ。察してもらえるか」
その言葉の意味を、バイロンは理解していた。この惨劇を目の当たりにした以上、その希望を酌む以外の選択肢を持ちえなかった。辛うじて引きつった笑顔を向ける。
「……承知しました。何かありましたら、すぐにお呼びください」
バイロンが部屋を出ると、ユージンは懐から小さな蓋付きの箱を取り出し、一粒の丸薬を手に取った。
「残念だったな。どれほど私を蹂躙しようとも、邪悪の依代になるつもりは、さらさらないわ」
そう言って丸薬を口に含み、奥歯で砕いて飲み下す。ベッドに仰向けになり、目を閉じると、肺に残った最後の空気をゆっくりと吐き出した。
丸薬の猛毒が回るのに、十分とかからなかった。国王ユージン・マイヤーは、クレイトンの宮廷へ戻ることも叶わず絶命した。享年五十二歳。あまりに早すぎる死であった。




