第五章 第八節【絶望の咆哮】
「国を治めるのであれば、長きに渡って、民の生活と産業の発展を担保せねばならない。適切な投資を行えば、巡り巡って国全体が豊かになる。税収も増加するので、次の投資が可能となる。逆に、目先の金欲しさに国民に過大な負担を求めるのは、将来自らの首を絞める愚行というべき」
ユージンは、黒十字解放戦線に対し、諭すように語りかけていた。ターナが喝破した経済的安定の重要性——彼は、それこそが黒十字を説得する鍵だと理解していた。力だけで統治は不可能だ。八百年にわたり、周辺諸国との調和を重視したマイヤー家の言葉には、確かな重みがあった。
だが、レオは自らの浅薄を指摘されているように感じ、次第に苛立ちを募らせる。その気配を察したファビオは、ユージンの言葉を遮ろうかと迷ったが、内容に納得できる部分もあり、つい聞き入ってしまった。
「そんなつまらん説教をしに来たのか?」とレオは耐え切れずに口を挟んだ。「我が黒十字解放戦線の国家を承認するか否か、それを聞いているのだ。それとも、何らかの対価を用意しているのか? 手ぶらで返そうというのであれば、貴様らの国に侵攻する準備をせねばなるまい」
「承認のための条件を話しているのだ。難しい話ではあるまい」
「承認しないのであれば、これ以上は時間の無駄だ。会談は打ち切る!」
立ち上がろうとするレオを睨みつけ、ユージンはテーブルに右拳を叩きつけた。鋭い音が室内に響き渡る。
「わからん奴だな。お前たちにとって悪い話ではない。最後まで耳を傾けよ」
そのときだった。
ユージンは、頭蓋骨が割れるかのような激痛に襲われた。あまりの衝撃に呻き声が漏れ、左手で頭を押さえて俯く。左肘がテーブルにぶつかり、鈍い音がした。
明らかな変調が、会議の参加者全員に伝わる。それでもユージンは、異常を悟らせまいと、必死に顔を上げ、姿勢を正そうとした。
——これは……『干渉』か?
会談に臨むにあたり、覚悟はしていた。過去にも、似たような場面に遭遇した経験がある。
だが、次の瞬間、ユージンの精神を、邪悪な存在が牙をむいて強襲した。かつてない苛烈な衝撃に、視界が急速にグレイアウトする。
「うがああああああっ!」
唐突に、咆哮が室内に響く。ユージンは頭を両手で抱え、天を仰いだ。
——違う。『干渉』などという生易しい代物ではない。
もっと深く、暗く、黒い。剥き出しの憎悪だ。悲嘆、憤怒、絶望、苦悶。ありとあらゆる負の感情が凝縮されている。物理的な接触は一切ないにもかかわらず、圧倒的な力で精神を薙ぎ倒してくる。
国王は椅子から転げ落ち、床の上でのたうち回る。勃発した異常事態を、部屋にいる誰もが呆然と見守っていた。
ユージンは、すべての感覚を奪われ、どこまでも黒い存在に蹂躙され続けた。反撃する術も、かわす術も、逃げる術もない。握り潰され、殴打され、捻り千切られ、粉々にすり潰され、抉り出され、無数に刺され、破壊の限りを尽くされた。
「陛下!」
君主の激変と絶叫に反応し、バイロンが駆けつける。その凄惨な姿に、言葉を失った。瞳孔は開き、口元からは唾液が滴る。全身が小刻みに痙攣し、失神することすら許されていない。正視するのも躊躇われる壮絶さだ。
バイロンは、執政官ハビエルに強い口調で言い切る。
「会談を中断してください。とにかく、ベッドに運びます!」
側近がユージンを担ぎ上げ、部屋の外へと運び出す。
その瞬間、バイロンの視線が、黒十字側の向かって右端の席にいた一人の若い女と交差した。
その両眼は、毒々しいほどの血の色に染まっていた。青白く不気味な顔に、不敵な笑み。その周囲だけ、空気が凍りつくように重苦しく揺らいでいる。黒髪を束ねる深紅のリボンが、甚だしい違和感を放つ。
バイロンは戦慄すると同時に、直感した。
——この女が、陛下を殺そうとしている!
とはいえ、女はユージンに指一本触れていない。何が起きているのか、見当もつかなかった。
動揺しながらも、バイロンにその答えを探す暇はない。今は、とにかく、ユージンを助けなければならなかった。




