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王女は、業に抗った  作者: 一石千月
第五章 統べる者の誇り
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第五章 第五節【皇帝の野心】

「遅い! 手段は問わぬと言ったであろう!」

 モーリスは怒りに任せて立ち上がり、飲みかけのワイングラスを床に叩きつけた。破砕音が、広間に鋭く響き渡った。

「閣下……おっしゃることはごもっともですが、これ以上はメスカ王国との協定に抵触することに……」

 跪く二人の側近のうち、右手にいた男が青ざめた顔で懸命に諫める。しかし、このジブ帝国皇帝は聞く耳を持たない。

「そんな紙切れに、わが国の未来が縛られてなるものか! 国民に損害が及んだとき、メスカがその責任を取るというのか?」

「それは……」

「馬鹿げた話だ!」と声を荒げる。「ユージンのような弱腰と、歩調を合わせる必要などない。構わん。武器を調達せよ」

「……承知しました」

「正規の手続を待っていては埒が明かん。以前も言ったとおり、取引実績のある西大陸の商社を当たれ。通関手続の緩いネストリア帝国が狙い目だな。極秘裏に武器を卸したがっている会社があるはずだ」

 モーリスは、いくぶん口調を和らげる。椅子に再び腰かけ、首を回して音を鳴らす。

「よいか。勝てば官軍とは、よく言ったものだ。馬鹿正直に国を滅ぼすなど、愚の骨頂。すべての責任は私が負う。余計な心配をせず事に当たれ」

 続いて、左手の側近に視線を移した。

「タンデスとギルザの国境警備を強化せよ。先日伝えた十二の重点地域に、兵を集中しろ。メスカとの国境が、多少手薄になっても構わん」

「御意」と側近は深く頭を下げた。「では、こちらの書簡はいかがいたしましょうか?」

 黒十字解放戦線からジブ帝国宛に届いた書簡は、メスカ王国宛のものと概ね同じ内容だった。

「放っておけ」とモーリスは吐き捨てた。「蛮族ごときに、返す言葉はない。わが兵が国境に並ぶ——それだけで、ジブ帝国の意思は十分に伝わる」

 右手でパンを掴み、無造作に端を食いちぎった。味わう気配もなく、申し訳程度に噛んで呑み込むと、うな垂れる側近に諭す。

「よいか。ユージンは、蛮族によるタンデス支配を容認するであろう。あの臆病者は、その程度の決断しかできまい。しかし、黒十字はそんなことでは止まらん。国境は混乱し、やがては東大陸全体を揺るがす」

 モーリスはそう言うと、表情を引き締めて続ける。

「だが、我らは違う。躊躇うことなく、圧倒的な戦力で蛮族を一掃するのだ。それが本来の『国防』というものだ。最初にしっかりと殴りつけておけば、以後は簡単に手出しできなくなる。その間に軍備を増強すれば、タンデスが如き自治区の一つや二つ、機を見て我らジブ帝国の支配下に置くのも容易だ」

 その眼は、いつの間にか狂気の色を帯びていた。

「この事態は、我々にとって決して不運ではない。よく覚えておけ。我が高潔なる開祖、カイト夫妻による建国以来、ようやくジブ帝国に訪れた好機と捉えよ。見方を変えるだけのことだ。肝に銘じておけ」

 側近らはそれ以上の反論も敵わず、静かにその場を下がった。

「……ふん。飯が不味くなるな」

 そう低く唸るように呟くと、食事を再開した。執事が、割れたワイングラスの破片を無言で片付ける。メインディッシュはすっかり冷め、デミグラスソースの芳醇な香りは、もはや誰にも届かない。


 広間の扉の陰から、モーリスの様子を窺う小さな影があった。これに気づいたモーリスは、厳しげな面持ちを一変させ、立ち上がった。

「ミレニア! 驚かせてしまったか。すまなかったな」

 ミレニアの身体は、その瞬間びくりと震えた。視線を床に落とし、動く気配もない。

「体調はどうだ? 食事は、ちゃんと摂っているのか?」

 懸命に声を和らげているつもりでも、その姿は、どう見ても威圧的だった。

 モーリスが一歩踏み出して近づこうとするや否や、ミレニアは小さく一礼し、静かに扉を閉めた。

「ミレニア!」

 越えられない壁が再び立ちふさがった。愛娘の拒絶に、何百度目かの失望が、彼を襲う。

 再び腰を下ろしたが、すっかり食欲は失せてしまった。

 モーリスは、ミレニアの将来が心配でならない。いずれ皇帝の地位に立たねばならない後継者に、帝王学を伝えたくとも、ろくに言葉すら交わせない。最愛の母を亡くして塞ぎ込む一人娘を理解してきたつもりだが、一向に心を開かないその様子に、やり場のない苛立ちに襲われることもしばしばだ。

 そしてさらに、隣国の王女ターナが、聡明さと気品を備えて成長していく姿は、モーリスにとって地団駄を踏むほどの屈辱であった。ユージンに対する敵愾心を、抑えることが難しくなっている。

 しかし、乱れる感情など何の役にも立たない。姿勢を正して目を閉じ、ゆっくりと心を鎮めた。

 黒十字解放戦線の実力行使は、想定より早かったが、いずれ起こるべき事態だった。そのための備えも、怠ってはいない。むしろ、東大陸におけるジブ帝国の影響力を拡大する絶好の契機だ。それこそが、後継者であるミレニアに、自ら残せる数少ない遺産である。

 モーリスは、自らに言い聞かせる。

——すべては順調だ。迷う必要などないではないか。

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