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王女は、業に抗った  作者: 一石千月
第五章 統べる者の誇り
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第五章 第四節【痛みは代償】

「では、これで失礼いたします」

 執務室の面々に会釈をしたターナが退出しようとしたとき、背後からユージンが声をかけた。二人は廊下に出ると、そっと扉を閉める。

「ターナ。『干渉』があったんじゃないか?」と声を潜めて尋ねた。

 一瞬言葉に詰まったが、睫毛をわずかに揺らしただけで、にこやかに返答した。

「ええ、多少はありましたが、それほどでも」

「そうか。国民の『誇り』などに益はないと、口を挟んできそうなものだが……」とユージンは悩ましげだ。「すまなかったな。予告もなく、負担をかけてしまった。でも、本当に助かったよ」

 それを聞いて、ターナはようやく父の真意を察した。

「私なんて、まだまだです。無責任に信条を語ったに過ぎません」

「理想を諦めてはならん」とユージンは口元を引き締める。「お前なら、私の持論を代弁してくれると、信じていたよ」

 そうだ。これこそが、本来のユージンだ。むしろターナは安心した。

「今日はもう、ゆっくりしなさい。決して疲れを溜め込まないように」

 娘に向けられた父の眼差しは温かい。ターナは、そんなユージンに、できる限り応えようとする。

「お父様こそ、無理をなさらないで。何かありましたら、いつでも遠慮なくお申し付けを」


 自室に戻ったターナは、備え付けの水をコップに注ぎ、一気に飲み干した。吐き気は治まっていたが、食道付近のひりつく感覚を、一刻も早く洗い流したい気分だった。慌てて喉から流し込んだため、咽せて咳き込む。

 ターナはベッドに仰向けになり、不快感が収まるのを静かに待った。天井を見つめ、父がわざわざ自分を会議に呼んだ理由に思いを巡らせる。

——人は『誇り』を持って、自らの大切な者を守るべし。

 そもそもユージンは、ターナにそう説き続けてきた。彼自身がその信条を執政会議で語れば済むだけの話だが、ユージンはそれをしなかった。

 なぜなら、ユージンも『干渉』と向き合うことを宿命づけられているからだ。仮に、会議で信念を語れば、彼自身が強い『干渉』に襲われ、場合によっては立ち続けられなかったかもしれない。君主にそのようなことがあっては、宮廷のみならず、国家全体の不安を招きかねない。

 それに引き換え、仮にターナが強い『干渉』に見舞われたとしても、執政会議に与える影響は小さい。父は苦渋の末、娘に自らの信念を語らせ、『干渉』を引き受けさせたのだろう。

 ターナの胸の奥深くに、その冷徹な事実が静かに沈殿する。

「お父様……ずるいわ」と呟いた。とはいえ、その表情に曇りはない。国を司る王の重責を、彼女は十分に理解していた。今の自分には、まだ父を政治の場で支えきれる力はない。

——吐き気で済むのなら、何てことないわ。とはいえ、実際はかなりキツかったな。お父様に、見抜かれたかしら……。

 すっかり平静を取り戻したが、さきほど咽せたざらつきがしつこく残る。今朝はトマトジュースしか口にしなかったのも、よくなかったかもしれない。


 ターナはゆっくりと身体を起こすと、部屋の扉を開けて廊下に出た。執務室とは反対方向へ歩き、三つ隣の扉をノックする。間もなく、白衣姿のバイロンが内側から顔を出した。彼女は肩をすくめて話しかける。

「喉から胃にかけて、むかつくの。薬、もらえないかしら?」

「何だ、二日酔いか? 昨晩は、ずいぶん遅かったそうだな」と軽口を返す。

「そうじゃないわ」とターナは遠慮の素振りも見せず、部屋に入る。「さっき、ひどい『干渉』があって。吐き気と格闘してたの」

「本当か?」とバイロンの顔色が変わった。「すまん。冗談を言ってる場合じゃなかったな」

 扉を閉めると、彼は手早くケトルを火にかけ、奥の薬棚へ向かう。壁一面を覆う引き戸の鍵を開けると、小さな引き出しが整然と並んでいた。薬包紙に包まれた乾燥粉末を三種類取り出し、慣れた手つきで天秤にかける。一つは擦った笹の葉、他は異なる種類の柑橘の皮を刻んだものだ。沸かした湯に水を差して適温に整えると、薬とともにテーブルへ運んだ。

「ありがとう」

 ターナは薬をぬるま湯で流し込んだ。舌の奥にざらりと苦味が残る。

 バイロンの部屋は、医務室、オフィス、そして寝室を兼ねている。かすかに消毒液の匂いが鼻を突く。隣室の倍の広さだが、薬棚や書棚、診察スペース、応接テーブルに患者用の簡易ベッドまで詰め込まれており、むしろ手狭な印象だ。自身のプライベートスペースは、薬棚と反対の壁側に、ベッド一台分が確保されているだけだ。簡素なパーティションで辛うじて切り離されている。

 バイロンの専門は外科だが、東大陸で急速に発展している麻酔学にも精通していた。同世代の仲間と、研究活動にも打ち込んでおり、現在も論文を執筆しているところだ。ターナはこの部屋を訪れるたび、宮廷医として多忙な彼が、もっと研究に没頭できたらと願う。

 けれども、自分の気ままな外出のせいで、彼に護衛を強いている事実にはそっと蓋をする。こればかりは、どうしたって譲れない別問題なのだ。


「『干渉』は、かなりキツかったのか?」

 肩の力を抜くターナに、バイロンが真剣な表情で訊いた。

「今までで一番強烈だったのと、同じくらいね。これより酷かったら、執政官に異変を気づかれていたわ。ギリギリだった」

「吐き気以外は?」

「大丈夫。お父様のように、頭蓋が締めつけられるような痛みはないわ」

「相対的に弱い器官に出るんだろうな」

 ターナから『干渉』については何度も聞かされてきたが、いつまで経ってもバイロンは腑に落ちない。その医学的な裏付けが、ほとんど見出せないからだ。医師として、これほど歯痒いことはない。

 バイロンは、デスク脇の棚からカルテを取り出し、症状と処方を記録した。その手元を、ターナは黙って見守る。


「ところで」と声のトーンを一段下げ、バイロンが切り出す。「業界の仲間から聞いたんだが、青い鉱物が人間の運動能力にどんな影響を及ぼすか、医者に聞いて回っている人物がいるらしい」

 ターナが表情を引きつらせる。

「どういうこと?」

「ただの興味本位と受け流すのは危険だろうな。石を手にしている可能性が高い」

「目的は? ただ喧嘩が強くなりたいってだけ?」

「まあ、そうだろうな。その危険性に注意を払わないのは愚の極みだが、この手合いにそんな理屈は通じまい」

 ターナは口元を右手で覆い、眉根をひそめた。そして、意を決するように口を開く。

「クリアターコイズの存在が露見したときの対応を、そろそろ真剣に考えないといけないのかもしれないわね」

 バイロンは問いには答えず、二人の間を沈黙が支配した。「対応」といっても、どうすればいいのか、判然としない。

「昨今の不穏な動きと、つながっていなければいいけど」とターナはくすぶる不安を吐露する。「黒十字解放戦線の侵攻。武器の密輸の噂。そういう問題と関連するとしたら、かなり厄介だわ」

「もう少し情報が欲しい」と結論を棚上げするように呟く。「もちろん、心構えは必要だ。だが、拙速な行動は避けるべきだな」

 ますます苦渋に沈むバイロンの様子を見て、ターナは視座を改める。これ以上憂慮したところで、何かが前に進むわけでもない。静かに立ち上がり、笑顔を向ける。

「ごめんなさい。バイロンは、いつもどおり日常の仕事に専念して。情報収集は感謝してるけど、そこから先は、私の役割よ」

「ああ、しかし……」

「何と言っても、あなたの薬はよく効くの。そうやって、私たちの健康を支えてくれていることに、まずは感謝しなきゃね」

 そう言って、ターナは軽くステップを踏み、芝居がかった優雅なターンを披露した。濃紺のワンピースがひらりと舞い、重くなった空気を振り払う。

 その姿を見たバイロンも、知らず知らず口元を綻ばせた。

——これだ。この屈託のなさに、いつも絆されてしまう。でも、それも悪くない。

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