第五章 第二節【演説と不穏】
メスカ王国の宮廷は、五百年以上前に建て替えられて以来、その荘厳な建築美で汎大陸中にその名を馳せていた。一方で、ここ数代の国王は、華美な装飾を避け、その代わりに日々のメンテナンスを重視してきた。そのため、古い建物であるにもかかわらず、劣化は最小限に止められ、清潔感と風格が見事に調和している。執務室へと続く長い廊下も、余計な物は一切なく、塵一つ落ちていないほど管理が行き届いていた。
ターナは、執務室の扉をノックして中に入る。すでに会議の出席者は全員揃っていた。白磁の花瓶に生けられたシャクヤクの花の香りが、ほのかに鼻をくすぐる。
ユージンとクララの向かいに着席する四名の執政官と二名の書記が立ち上がり、深く一礼した。いずれも、折り目正しいスーツ姿だ。ターナも美しい所作で応じ、父の左隣に腰を下ろす。
定例の執政会議に常に出席する上級執政官が三名。加えて、普段は顔を見せない安全保障担当の執政官が、ターナの正面に座る。彼の出席は、国内外における安全上の懸念が議題であることを示している。
「では、始めよう」と、ユージンが出席者を見回す。「知ってのとおり、タンデス自治区コロキスが、黒十字解放戦線の実力行使によって占拠された。約二週間前のことだ。黒十字は沈黙を保っていたが、昨日の夕刻になって書簡が届いた」
そう言って、手元の文書を広げる。
「主な内容は三点。第一に、コロキスを制圧し、自治区全体を掌握した旨の宣言。第二に、国境地帯キーダイにて、非公式会談を開催したいとの打診。第三に、レオ・サヴォイ将軍なる人物を君主とする新国家の承認要請だ」
安全保障担当の執政官は、書簡を手に取って、改めて内容を確認する。
「みなに集まってもらったのは他でもない。当面の対応と方針を協議したい。その上で、明後日には回答を発出し、一週間後に会談を実施する腹積もりだ」
ユージンはまず、スケジュール感を明確にして場を導いた。
「稼いだ一週間で個別の対応を進めるとして、最初にここで全体方針を決める必要がある。つまり、黒十字の要望を『呑む』か『蹴る』か——」
扱う問題の重さゆえに、執政官はみな、緊張を滲ませていた。
「まずは、私の意見を述べる」とユージンが口火を切る。「基本的には、彼らの新国家承認を認めて差し支えないだろう。短期的には各国の反発が予想されるが、これが最も収まりの良い決着だと考えている」
穏当な結論だ。しかし、四人の執政官は悩ましげに沈黙した。
「もし統治権を認めなければどうなるか。まず、自治区内では、より強権的な支配が進むだろう。タンデスの住民は、言ってみれば人質だ。その安全や財産を盾に、周辺国へ圧力をかけることが可能になる。これまでも、国境付近で襲撃や略奪を繰り返している以上、そこに対する躊躇はまったくないはずだ。倫理的に許されないのは当然としても、域内産業と流通が滞れば、東大陸全体の需給バランスに深刻な影響を及ぼす」
ユージンは一旦言葉を止め、出席者の表情を探った。誰も口を開かない。
「それに加え、既成事実を積み重ね、領土拡大を図る可能性もある。そうなれば、もはや戦争と変わらん。双方に取り返しのつかない損害が発生するのは避けられまい。こんなことで東大陸の人命が簡単に失われるとすれば、私は我慢ならん」
ターナは、それがいかにも父らしい判断だと受け止めた。国民の平穏な暮らしを最優先に守ろうとする姿勢こそ、国を司る者の矜持にほかならない。
一方で、黒十字解放戦線による統治をあっさりと容認するその判断に、いささかの物足りなさも覚えた。たとえ国民の安全が確保されるとしても、正当性を欠く実効支配を無条件に許してよいのだろうか。おそらく、父は何かを犠牲にしている。
「少し、みなの意見を聞きたい。どうだろう?」
ユージンの問いかけに、執政官らは概ね同意を示しつつも、部分的には異なる意見や、別の側面からの見解を述べた。いずれも一定の説得力はあるが、決定打には欠ける。どこでリスクを取るか——その議論は、百点満点を諦め、最悪でも七十点を確保するための模索だった。
一時間近く議論が続いた。あとは、これを踏まえて国王の決断を待つばかりとなった。そのはずだった。
だが、ユージンは正面を向いたまま、未だ発言のない出席者を促した。
「ターナ。お前の忌憚なき意見を聞かせてくれ」
ノートに要点を書き留めていた彼女は、突然の指名に意表を突かれる。
「私は……陛下のお考えに賛同いたします」
波風を立てない答えだ。整合的な意見を述べるには、まだ熟慮が足りない。
「この件をきっかけに、ギルザの民が自立に向かうのであれば、それは一つの正解かと」
「ターナ!」
ユージンがぴしゃりと制した。
「繰り返す。お前自身の意見を聞きたい。誰かにおもねる必要はない。そのために、ここへ呼んだのだ」
体温が少し下がったような感覚に襲われる。隣に座る父の横顔は厳しく、微塵も揺るがない。
「……失礼いたしました、陛下」と、深く頭を下げる。「では、私なりの考えを申し上げます。論理的でない部分があるかもしれませんが、その点はご容赦ください」
「構わん。突然、呼び出したのだ。準備が不十分なのは承知している」
ユージンは、ほんのわずかに和らいだ眼差しを向けた。娘が信念の赴くままに語ることを許しているかのようだ。
執政官が注目する中、彼女は静かに腹を括る。
「陛下に賛同する旨の私の発言に、偽りはございません。将来的には、その方向で進むべきだと思っています」
そこから、語調が変わった。
「ただし、条件があります。黒十字解放戦線は、ギルザの民はもとより、タンデス自治区の住民の安全と財産を、全面的に保護すると宣言しなければなりません。これを実行しない限り、彼らに統治権を保障することはありえません。したがって私は、国家としての即時承認ではなく、暫定的かつ段階的な権限付与を提案します。その間に、彼らが統治者としての資格を有しているか、あるいは学びの中で獲得できるかを、周辺諸国が見極めるべきです」
室内が静まり返った。その場にいる全員が固唾を呑んで、ターナの言葉に耳を澄ませる。
「実務の負担を軽視しているとの批判もありましょう。その点は、甘んじて受け入れます。何しろ、私には皆様のような実務経験がありません」とわずかに口角を上げた。「それでも、必要な過程だと思うのです。彼らにとってのみならず、私たちを含めた周辺国にとってもです」
少し間を置いてから、ターナは問いを投げかけた。
「そもそも、なぜ私たちは介入しなければならないのでしょうか? タンデスも、黒十字も、ギルザも、他国のことです。国益を侵されない限り、放っておけばよい——そう考えても、差し支えないとは思いませんか?」
介入の必然性を根本から問われ、執政官は戸惑った。
「しかし、私たちが見て見ぬふりをすれば、ギルザの民だけでなく、私たち自身も大切なものを失います。それは、魂の礎とも言うべき、人としての『誇りと品性』です」
その瞬間だった。
突如として、ターナを強い吐き気が襲う。
一瞬、身体が強張り、視線が落ちる。呻き声が漏れそうになるのを必死に堪え、目を閉じ、唾を飲み込んだ。
心の中で静かに呟く。
——これは……久しぶりの『干渉』。そうか。つまり『誇りと品性』は、不正解と評価したのね。
そして、出席者に気づかれないよう、嘆息する。
——まったく、らしい判断だわ。




