第五章 第一節【急ぎ身支度】
コーレル夫妻の店から宮廷へ戻ったターナは、クレンジングもせぬまま自室のベッドに倒れ込んだ。翌朝、鏡に映る顔の有り様を目にすると、口元を押さえて「きゃっ」と叫び、慌てて化粧を落とした。歯を磨き、シャワーを浴びたあと、念入りにスキンケアを施す。化粧水を伸ばすと、ラベンダーの香りが心地よく広がった。
すでに太陽は南中に差しかかっていた。空腹ではなかったため、自室に運ばせたトマトジュースだけを飲み干す。
幸いにも二日酔いはなく、頭は冴えている。午後にはグリフによる地政学の講義が控えていたため、少しでも予習しようと参考書籍を机に並べた。
だが、昨日の記憶がふとよみがえり、にやにやしている自分に気づく。ほんの一か月前、カルザスとの偶然の出会いをきっかけに、愉快な人々との縁が広がった。あんなふうに、毎日気ままにお喋りできたら、どれほど楽しいことだろう。
ただ、途中で寝てしまい、みんなに感謝の挨拶ができなかったのは、彼女にとって痛恨だった。
——カルザスに「また会おうね」って伝えたかったな。
椅子の上で伸びをして、気持ちを切り替えようとしたそのとき、ノックの音が響いた。部屋を横切って扉を開けると、父ユージンが背広姿で立っていた。ターナは驚き、一歩下がって深々とお辞儀をする。彼が自ら娘の部屋を訪れるなど、滅多にないことだ。
「昨晩は、ずいぶん遅かったようだね」
穏やかながら、どこか険しさも滲む表情に見える。
「ローラ・グラフ殿の工場を訪ねておりました。話が弾んで、つい長居を……」
「呑んだのか?」
「ええ……少々」
昨日はこっそり抜け出したわけでもないので、咎められるものではない。ただ、仮に父の地雷を踏んだのであれば、あまり言い訳しないほうがよさそうだと感じた。おそるおそるその顔色を窺う。
だが、ユージンは口元にうっすらと笑みを浮かべると、それ以上問い詰めることはなかった。
「まあ、もう子どもではないからな。無茶をしないよう心がけなさい。ともあれ、その件が昨日のうちに片付いたのであれば、問題ない」
話題が動いたことにターナはほっとした。と同時に、ユージンの唐突な訪問について尋ねる。
「どうされたのですか? お父様がわざわざお越しになるなんて」
「ターナ、午後の予定は?」
「はい。グリフの講義が夕方まで」
「うむ。それは日を改めさせよう。私からグリフに伝えておく。すまないが、すぐに執務室へ来てくれないか? 臨時の執政会議を開く」
ユージンはときおり、ターナに執政会議への陪席を求めることがある。後継者を、政治の現場に少しずつ触れさせたいという意図だ。その際は、事前に告知して準備期間を設けるのが常だ。
しかし、即時の参加を命じるのは、今回が初めてではないか。そして、本来の予定を変更してまでの要請である以上、ターナに断るという選択肢はなかった。
「承知しました。ただ、少しだけ時間をいただけませんか?」
「ん? どうした?」
「いえ……このような身なりでは、さすがに……」
淡いピンク色の大きめの半袖Tシャツに、膝丈のゆったりとしたデニムのハーフパンツ。シャワーを浴びたあとの部屋着姿である。メイクもまだこれからだ。
ユージンは娘の姿を改めて見直すと、堪え切れずに頬を緩めた。
「なるほど。確かに一大事だな。どのくらいで支度できそうかね?」
「三十分ほど……いえ、急ぎますので、もう少し早く」
「わかったよ。まあ、顔馴染みばかりだ。そんなに気張らなくても大丈夫だよ」と愉快そうに返す。
「すみません」とターナは少しばかりばつが悪そうだ。
「ついこの間まで、化粧っ気なんかこれっぽっちもなかったのにな。夏ともなれば、真っ黒に日焼けして、庭を駆け回っていたのは、どこの誰だったか」
「お父様ったら!」と抗議の声を上げるが、表情は綻んでいる。「妙齢の女性にそんなこと言うものじゃありませんよ。それに、仮にも王女ですから身だしなみにも相応の気を遣います!」
ターナは父の背を押し出して扉を閉めると、大急ぎで身支度に取りかかった。
まずはメイク。下地を整え、リキッドファンデーションを均一に伸ばし、パウダーで仕上げる。アイメイクとリップは手際よくまとめた。続いて髪。櫛を通し、ミネラルオイルを少量なじませる。たちまち、艶と滑らかさが蘇った。跳ねた毛先が気になったが、時間がないので目をつむる。
クローゼットから衣装を選ぶ。向かい合う執政官は、どちらかといえば昔気質だ。華美な装いは避け、濃紺のブレスレットスリーブのワンピースを手に取る。鏡の前で充てがい、落ち着いた印象を確認する。ただし、デコルテが覗くネックに、ガーリーなAラインシルエットは、制約の中でぎりぎりの自己主張だ。すっぽりとワンピースをかぶり、細身のネックレスと、無色のトパーズのピアスを身に着ける。黒のアーモンドトゥのメリージェーンで足下を装う。
最後に、お気に入りのシトラスの香水を腕の内側にひと吹き。鏡の前で全身をもう一度見直した。
「七十点ってところかな。ほんとは、もう少し仕上げたいんだけどな」
そう呟くと、厚めのノートとペンを抱え、小走りで父の待つ執務室へ向かった。




