第四章 第九節【心解く魔法】
「おっ。いた、いた。おーい、カルザス!」
薄暮の時間が迫るグリル&パブ「コーレル」の店先で、ギルとナミが並んで手を振っていた。ギルは、いつもの黒い半袖Tシャツ、ベージュの七分丈カーゴパンツにグレイのトレッキングブーツ姿。大きめのバッグを肩から掛けている。一方、ナミは白のオーバーサイズのTシャツに黒のスキニーパンツ、黒のローファーで身を包んでいた。洗練された出で立ちだ。
ナミとターナは手を取り合い、再会を喜ぶ。
「えー! ナミも来てくれたんだ!」
「ギルから、話を聞いたからさ。一緒にご飯食べるの、初めてだね」
「ホントだよ。楽しみだなあ!」
カルザスは紙袋を差し出した。
「これはクリエ港のお土産。ホタルイカのビネガーソースと——」
「おお、さすが!」とギルは遮って、紙袋を奪った。「クリエといえばホタルイカだもんな。素晴らしい!」
そして、カルザスの肩を左腕で寄せつけると、ギルはひそひそと囁いた。
「悪い。一瞬だけ、ナミを引きつけておいて。ターナ様に伝えたいことがあるんだ」
カルザスは一瞬訝しんだが、小声で打ち合わせると、ナミに向き直った。
「もしかして、ずっと待ってた?」
「私たちも、今来たところなんだ。ギルが一品作ってみんなに振る舞いたいって、材料の下ごしらえをしてたら、遅くなっちゃった」
「ギルらしいな。もしかして、あの大きい荷物が、それ?」とカルザスはギルが抱えるバッグを見やる。
「そうなんだよ。まあ、調味料の類いで、かさばってるんだけどね」
その隙を見て、ギルはターナに小声で話す。
「えっと……。ちょっとだけいい?」
ターナは不思議そうに首を傾げる。
「実はね、ターナ様……じゃなくてターナの口から『お忍び』のことを、ナミに話してほしいんだ」
「あっ……ギル、今まで黙っててくれてたの?」
返事の声も自然と小さくなる。
「うん。クレイトンの田舎道で約束したからね。今ならちょうどいいと思って」
「ありがとう。大事なことだから、そうしてくれると嬉しい!」
ギルは大きく頷いた。そして、カルザスに向かって、紙袋と持参した肩掛けバッグを押しつける。
「先に店に入っててくれる? 土産はミーシャに渡して」
カルザスが店の扉を開けると、二人の来賓がテーブルを陣取っていた。
ワークウェア姿のジョシュアは、既にアルコールの注がれたグラスをいくつも並べていた。パンツスーツ姿を着こなすローラは、チーズとパインジュースを交互に口にしながら、赤ペン片手に下半期の事業計画を推敲中だ。
ローラのヴァレリでネルフィまで移動したこの二人は、ニヤニヤと「獲物」を待ち構えていた。カルザスはたじろぐ。
「その下品な笑い、やめてくださいよ。何なんですか?」
「おう、おかえり! どうだったよ、愛の逃避行は?」とジョシュアが食い気味に尋ねる。
「逃げてませんって。こうして戻ってきたでしょ」
「ほほう。『愛』は否定しないんですなあ。これは何かありましたかね、ローラさん?」
「まあまあ、がっつかないで、ジョシュアさん。夜はまだ始まったばかりですのよ」
想定どおりのからかい具合に、カルザスはげっそりする。
「あのですねえ、ターナへのイジりは控えてくださいよ。こういうノリには、きっと慣れてないですから。もう二度と来ないってへそ曲げたら、どうするんですか」
「聞きましたか、ローラさん! 俺の女に手を出すなって言ってますよ。けしからんですなあ」
「一言も言ってません!」
カルザスは握りこぶしをわなわなと震わせた。
「なあ、ミーシャ、面白えだろ。ベタなラブコメも身近に起こると、一味違うわ。いやあ、今宵は楽しませてもらうぜ」
しかし、いつもであれば輪をかけて悪ノリするミーシャの声が返ってこない。
「おいおい。お姫さまのご来店と聞いて、ビビってんの?」
ジョシュアは、厨房に立つ女主人を茶化す。
すると、ミーシャは、無言で包丁を置き、巨体を揺らしてどかどか歩み寄った。青ざめた表情でカルザスの胸ぐらを掴む。泣きだしそうな声で叫ぶ。
「あんた、いつの間に姫様に手を付けたんだい! 無礼にもほどがあるだろ!」
「何でそうなる!」
「しかもこんな場末の店に連れてくるなんて、アタシらを笑い者にする気かい? 畏れ多くて震えが止まらないよ!」
「文句があるならローラに言ってくれ!」とカルザスは呆れて喚く。「それに、ターナは、高慢ちきな子じゃない。庶民にも寄り添ってくれる。だから少し落ち着けよ」
「そんなこと言ったって。何か粗相でもしたら、夫婦揃って吊るされちまう」とミーシャは肩を落とす。「バートなんて、すっかり黙りこくっちまって……」
「いや、それ、いつものことじゃん……」
コーレル夫妻は、すっかり怯えてしまった。前触れもなく王女が来るのだから、無理もない。
「ローラ、何とか言ってくれよ」とカルザスは抗議する。
「大丈夫よ。私があれこれ説明しなくても、ターナ様なら一瞬で丸く収めてくれるわ」
まるで他人事だ。
そのとき、外からナミの叫び声が響いた。
「えええええええええっ!? うそおおおおおおおおお!」
カルザスは、慌てて外に飛び出した。その視線の先では、後ろからギルに口を塞がれたナミが、涙を浮かべて暴れている。ターナも彼女の手を握り、あたふたしている。
「落ち着け、ナミちゃん。こんなところで大声出さないで」
「だだだ、だって。偉い人だとは思ってたけど、まさか、よりによって王女……うがぐぐ」
「ごめんね。驚かせちゃったよね」とターナも困惑していた。
通行人が何ごとかと視線を向ける。その混乱は、収まる気配がなかった。
ターナは、拳を握りしめてその様子を見つめたが、動揺する心を鎮め、ゆっくりとナミを抱き寄せる。
「手を離してあげて。大丈夫だから」とギルに小声で伝えた。
頭を優しく撫で、ターナはその耳元で柔らかく囁く。
「落ち着いて。怖くないから。何も心配いらないよ」
ギルとカルザスはその光景を凝視していた。ナミは嗚咽を続けていたが、次第に落ち着きを取り戻す。
「大丈夫。ナミは何も悪くないから。驚かせてごめんね」
ターナはおでこをナミの頭に寄せ、撫で続けた。やがて、ギルとカルザスに視線を送り、口の動きで「大丈夫。先に行って」と伝えた。
店に戻ったギルとカルザスに、ジョシュアが声をかけた。
「えらく乱れてたな。大丈夫なんか?」
「たぶん……。ターナが落ち着かせようとしてます」
「正体を知らなかったんだろ? いきなり王女ってのは、刺激が強すぎるか」
「いや、それ以前に、俺たちが馴染みすぎてるだけです」とカルザスが漏らす。
だが、その見解にギルは納得しない。
「カルザスだけだろ、最初から打ち解けてたの。俺、今でもターナ様……ターナにどう接したらいいかわからないよ」
ジョシュアは矛先をローラに転じる。
「お前さんは律義に敬語だよな。タメで喋ってくれって姫君に頼まれなかったんか?」
「そんなこともあったわね」とローラはパインジュースを飲み干す。「でも、私にとってターナ様は『顧客』だからね。王家だろうがなかろうが、敬語で問題なし」
「おいおい、俺だって取引先だぜ? それにしちゃ、扱いが雑じゃねえか」とジョシュアが抗議する。
「あんたに敬語?」とローラは鼻に皺を寄せる。「腐れ縁とはよく言ったものよ。元の形なんか、覚えちゃいないわ。今更、無理な話ね!」
ジョシュアが地味にがっかりしていると、俯くナミの肩を抱いて、ターナが店に入ってきた。
「ギル、ナミをお手洗いに連れていってくれる?」と呼びかける。
「えっ? どうかしたの?」とギルが慌てる。
「涙でメイクが崩れちゃっただけ。お化粧、直させてあげて」
「あ、なるほど。わかった!」
「ギル、大声出してごめんね」とナミが小さな声で言った。「でも……ちゃんと話してもらって、よかった」
ギルはナミを連れて、店の奥へと消えた。
二人を見送ったターナは、ローラを見つけて相好を崩した。
「ただいま、ローラ! クリエに行ってきたのよ。海がとてもきれいだったわ」
「それは、ようございました!」とにこやかに立ち上がって、ターナを歓待した。「二人乗りプランタの後部座席って、実は一番『空』を楽しめるんですのよ。操縦とはまた違った趣がありますでしょ?」
「本当にそうね! カルザスにまた連れてってもらうわ。それからね、来年、ホタルイカ漁を一緒に見に行く約束したんだよ。夜に青く光って、すっごく綺麗なんだって!」
カルザスはジョシュアの顔をそっと窺う。案の定、にやついている。今宵はイジり倒す気満々の様子だ。
だが、ターナが嬉しそうに昼の出来事を語るその姿は、彼の心をふっと軽くした。彼女が楽しんでくれたことこそが、何より大事なことだ。そう思えば、多少冷やかされるくらい、どうということもない。
さて、あとはコーレル夫妻をどうにかしなければならない。カウンター越しの厨房では、ミーシャが混乱し続けている。バートの顔はすっかり土色だ。
「ターナ、店のオーナーを紹介するよ。ミーシャとバートだ」とカルザスが促す。
その声を合図に、二人は直立不動となった。
「はじめまして! ターナ・マイヤーと申します。突然、こんなことになってごめんなさいね!」と満面の笑みを夫妻に向ける。「グランブル貿易の本拠地みたいなお店だって聞いたわ。すごくリラックスできる雰囲気ね。お客さんをとても大切にしているって、すぐにわかったわ!」
「あ、あの、ありがとうございます……」とミーシャがどうにか言葉を返す。「わ、私ども、ネルフィの片隅でささやかに営業しておりまして……こんな裏町に、まさか王室の方が……」
そこまで言いかけたところで、ターナがふっと言葉を遮る。
「ねえ、ミーシャ。堅苦しい挨拶は必要ないわ。この素敵なお店を見渡すだけで、あなたたちの暖かい想いが、十分に伝わってくるの」
そう言うと、カウンターの内側に近づき、厨房へと足を踏み入れた。
「タ、ターナ様、いけません。こんなところにお入りになっては……」
ミーシャが慌てて制止するが、構わず調理器具や食器を興味深げに眺める。やがて、盛りつけ途中の大皿に目をとめ、にやりと笑う。
「私ね、子どもの頃、よくキッチンに忍び込んで、つまみ食いしてたの。出来たてはやっぱり美味しいし、誰よりも先に食べたら、勝った気分になるの。おかしいでしょ!」
ターナは大皿に並べられたアジのフライ一切れを指でつまみ、ぱくりと口に運んだ。王女の思わぬ行動に、ミーシャとバートは唖然とする。
「ん〜!」
もぐもぐと噛むたびに声が漏れる。飲み込んだあと、目を丸くして尋ねた。
「これ……マヨネーズよね? すごく美味しい!」
「え、ええと……開いたアジにマヨネーズを塗って衣をつけて揚げただけでして……」
「それだけ? 普通のフライと全然違う味になるのね。面白いわ!」
「白身魚は淡泊なので。若い方にはこんな味付けがちょうどいいかと思いまして」
「これ気に入ったわ。宮廷のシェフにも試してもらうわ」
「そんな、滅相もない……」とミーシャは恐縮するが、表情がいくぶん和らいでいる。
次いでターナは、カウンターに置かれた土産の紙袋を手に取る。
「ミーシャ、お皿を出してもらえる? クリエ港でホタルイカのビネガーソースと鱈の燻製を買ってきたの。私が盛りつけるわ!」
ナミが化粧を直して戻って来ると、盛りつけを手伝い始める。ギルは、一品振る舞うからと腕をまくり、下ごしらえ済みの材料を鍋の横に並べ始める。ミーシャとバートの二人も、普段の表情を取り戻しつつあった。
そんな様子を、ジョシュアはぼんやりと眺めていた。隣のローラに向かって、小声を漏らす。
「お前さんの言ったとおりだな。一瞬で庶民の緊張をほぐしちまった。大したもんだ。コミュニケーション・モンスターってやつか?」
「それは違うわよ」とローラは、視線を合わさないまま応じる。「上っ面だけのテクニックじゃないわ。ターナ様の人柄が素直に出てきただけ。若いけど、そもそもの人間の出来が違う」
「王室だからか。育ちの良さってやつ?」
「それもあるけど、生まれ持った気質でしょうね。優しさと気遣いに満ちた人」
「なるほどな。大事に育てられた貴族でも、根性のど汚い奴、掃いて捨てるほどいるもんな。ターナは、そんなのとは別物ってわけだ」
「困ったものよね……」とローラは、誰にも聞かれないような声量で呟く。「情が湧いたら、やりにくくて仕方がない……」




