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王女は、業に抗った  作者: 一石千月
第四章 愉快な仲間との長い一日
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第四章 第六節【原点の記憶】

 カルザスが両親を失ったのは、物心つく前のことだった。その理由も、孤児院に身を寄せることになった経緯も、彼自身は知らされていない。

 この時代、身寄りのない子どもを受け入れる孤児院は、汎大陸の各地に存在した。思春期を迎える頃まで施設で育てられ、その後は労働力として売られることがほとんどである。資産家が養子として引き取ることもあったが、それはかなり稀な例だった。

 八年前のある日、カルザスは、同じ十二歳の子ども二人とともに売りに出された。孤児院の庭に、三人が間隔をあけて座る。そこに、希望者が品定めのために訪れる。子どもと話をして、条件がまとまれば、売買が成立する段取りだ。

 午前中に一人、昼過ぎにもう一人が引き取られ、最後に残ったのがカルザスだった。

 当時の彼は、同年代に比べて線が細く、活発さにも欠けていた。友だちがいないわけではなかったが、いつも本を読んでいる静かな子どもだった。

 自分には取り柄も愛想もない。売れ残って当然だと、カルザスは諦めていた。残念でもなければ、驚きもなかった。ただ、自らの境遇とかけ離れた柔らかな草の匂いに、小さな苛立ちを覚えていた。


 昼下がり、一人の男がふらりと孤児院を訪ねてきた。ワークウェア姿にリュックを背負い、庭の片隅で本を読むカルザスの様子に目を留め、近づいてくる。

 視線が合う。しかし、きっと冷やかしだろうと思い、カルザスは黙って本に目を戻した。

 しばらくして、男が声をかける。

「ずいぶんと熱心だな。何を読んでるんだ?」

 カルザスは、手元から顔を上げない。

「リュカ・モローの『世界紀行』だよ」

「ほう、興味深いな。ちょっと見せてみ」

 二十代後半と思しきその男の顔を、カルザスは戸惑いがちに眺めた。男は、顎の無精ひげを無表情に撫でている。

 仕方なく黙って本を差し出した。男は、目次に目を通すと、後半をぱらぱらと捲り始めた。三分ほどして本を閉じると、質問を始めた。

「『サン・ドロイの塔』のことが書いてあるな。もう読んだか?」

「いや、まだ」とカルザスは俯いて答える。「でも、その塔のことなら知ってる。西大陸で百年以上前に建築が始まったけど、いまだに完成してないってやつだろ?」

「よく知ってるな。さすがだ」と男は左の目をわずかに見開いた。「じゃあ、最近その建設が中断したって話、聞いたことあるか?」

「えっ、そうなの?」

 驚いてカルザスは顔を上げた。

「古い設計図に、致命的なミスが見つかったらしくてな。このまま建築を続けると、根元からぽっきり折れる危険があるらしい。今は、図面を描き直してる最中だが、そもそも物理的に建造は不可能って説もあって、かなり揉めてる」

「そうなんだ……。知らなかった」

 カルザスは小さく呟いた。が、続けて疑問を口にした。

「どうして、そんなこと知ってるの?」

「どうしてだと思う?」と男は質問で返す。「新聞か? 本か? 噂話か? どれも悪くはないが、一番確かな方法がある」

「どうするの?」

「現地に行って、この目で見て、この耳で聞いて、この手で触る。それが一番だ」

 身体がふっと浮き上がるような感覚を覚えた。劇的でも何でもない話なのに、視界が一気に開けた気がした。

「あれだよ。サン・ドロイに行ったとき、行政の建築担当者と酒を呑む機会があってな」と男は愉快そうに軽口を叩く。「えらいことになったって、頭抱えてたよ。いっそのこと、塔を全部燃やして更地にしたいって、最後は酔って暴れてた」 

 孤児院の中が世界のすべてだったカルザスにとって、それは遠い大人の世界の話だった。空想の中の出来事と、区別がつかない。

 しかし、見て、聞いて、触ることのできる現実なのだ。その刺激は、驚くほど抗しがたく、心を掻き立て、甘い誘惑を囁く。

 彼の瞳に輝きが宿った。男は、その変化を見逃さない。

「興味あるか?」

 カルザスは、素直に頷いた。

「俺は貿易商だ。依頼を受けて、飛行艇で物資を運ぶ仕事をしてる。主に東大陸だが、他の国にも行く。力仕事も多いし、頭も使うから、身体を鍛えたり、勉強もしなきゃならん。だが、もし頑張れそうなら、一緒に来るか?」

 そう言われた途端、カルザスは躊躇した。

「俺、売れ残りなんだ。重いものも持てないし、計算も遅い。何の取り柄もないけど……それでもいいの?」

「知ってるか。昔の偉い人はこう言うんだ。『残りものには福がある』ってな」と軽口のようでいて、男の目は真剣だ。「誰かと比較して人を評価する気はねえよ。俺はお前の長所をここで見つけた。それで十分だ。余計な心配するな」

 言葉の一つ一つに、確かな重みがあった。

「お前、本をたくさん読んでるだろ。それは、知りたいことが山ほどあるからじゃないのか?」

「……うん」

「それが大事なんだ。貿易商ってのは、知らないものに出会い続ける仕事だ。『サン・ドロイの塔』の話をしたとき、お前の目は輝いてた。それが合格の証だ」

 誰かに認められたことなど、これまでほとんどなかった。だから、経験したことのない喜びで胸が一杯になった。この人と一緒に働きたいと、自然に笑みがこぼれた。

「その顔は、OKってことだな」

 男は、孤児院の職員に声をかけた。

「この子、引き取るわ。グランブル貿易のジョシュア・グランブルだ。契約は、どうしたらいい?」

 カルザスの身体の奥から、希望が湧き上がる。それまで意識せずとも抱えていた無力感や不満は、いつの間にかその姿を消していた。

「ありがとう!」

 ジョシュアは満足げな笑顔を初めて見せた。

「おう。ちゃんと『ありがとう』って言えるじゃねえか。商人にとって、それが一番大事なことだ。期待してるぜ」

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