第一章 第二節【主役その一】
修理を終え、すっかり生まれ変わったプランタを前に、ターナ・マイヤーは子どものようにはしゃいでいた。
機体は、レモンイエローから落ち着いたクリムゾンレッドに塗装し直され、溶剤の匂いがかすかに漂う。無論、外観が新しくなっただけではない。破損していた伝達系は完全に修復され、タービンや主水槽の調整も徹底的に施された。操作性は以前にも増して向上したはずだと、修理を請け負ったローラ・グラフは胸を張った。
ターナがシャイナの丘に不時着した五日後の朝のことである。
ここは、メスカ王国宮廷のプランタポート。芝を短く刈り込んだ広いスペースの中央には、飛行艇の離着陸用に整えられた土の区画があった。ローラは、修理を終えたプランタを宮廷まで飛行させ、そのポートに慎重に着陸させたところだ。
「ありがとう、ローラ! 前より大人っぽくなったわね。早く操縦したいわ!」
「ターナ様、喜んでいただけて光栄です。最近は部品の性能も飛躍的に向上していますので、勝手ながらいろいろ交換させていただきました。できるだけ長く乗っていただけるよう、丹精を込めて整備したんですよ」
王国宮廷を取り巻く町クレイトンは、東大陸の中心よりやや南に位置する。領主たる王族や近しい貴族がこぞって居を構えるこの町には、その地位に相応しい格調高さが、隅々にまで満ちている。
ミューネは、クレイトンの南に隣接する町で、飛行艇の製造・販売会社が多く集まる。近年、大小を問わず飛行艇の取引が増えているため、その経済的発展が著しい。
ローラの経営する「グラフ飛行艇製造」は、業界の中でも最大規模を誇る。元は夫リチャード・グラフが起業した会社だったが、彼の死後、その妻が跡を継いだ。会社を守ることが自らの使命だと、彼女は常々語っている。
緩やかなウェーブのかかった赤毛をシニヨンにまとめ、自然に垂れる後れ毛が華やかさを添える。彫りの深い顔立ちにヘーゼルアイが輝き、鮮やかな口紅が映える。背はターナより高く、背筋を伸ばして颯爽と歩く姿は、四十歳を迎えたばかりとは思えない若々しさだ。明るいベージュのワークウェアを野暮ったくならずに着こなすセンスに、ターナは同じ女性としての憧れを抱いていた。
「それにしても、私の工場にいきなり不時着とはね。しかもタービン剥き出しで。腰を抜かしましたよ。乗っていたのがターナ様と知って、なおびっくり。陛下やお妃様がご覧になったら、あまりのことに気絶されていたことでしょう」
「あれでも、うまく着陸できたほうなのよ。シャイナの丘では、もっと派手に地面を跳ねたんだから」
五日前、シャイナの丘からプランタを離陸させたターナは、宮廷に向かう途中で進路を変えてローラの工場へと向かった。いずれにせよ、機体の修理が必要であると気づいたからだ。
驚くローラに事情を説明し、代替機を借りてどうにか宮廷に戻ることができた。日が暮れる直前であった。
「帰ったら、バイロンとグリフに交互に怒られて……。それ以来、絶賛外出禁止中よ。身から出た錆とはいえ、さすがに堪えたわ」
ターナは、茶目っ気たっぷりに、小さく舌を出した。
今日の彼女は、肩まで下ろしたミディアムストレートの髪を、軽く外ハネさせていた。陽光を受けてきらめく髪先まで、丁寧に手入れが行き届いている。肌の瑞々しさが際立ち、最低限のナチュラルメイクでも、ローラには羨ましいほど可憐に映った。お気に入りのシトラスの香りが、その溌剌とした印象によく馴染んでいる。
白のスキッパーシャツにグリーンのフレアスカート。裾から覗くネイビーのスニーカー。初夏を目前に控えた季節にぴったりの装いだった。
二人は、ポートから格納庫へ向かった。ローラが修理済みのプランタを引いて歩く。小さな車輪を引き出せるので、地面を転がして容易に移動できる仕組みだ。
格納庫には、ターナに貸し出していた代替プランタが鎮座していた。ローラは、納品機と入れ替わりに、これに乗って工場へ戻る予定だ。
格納庫前の長椅子に並んで腰を下ろす。雲ひとつない青空が、どこまでも広がっていた。宮廷全体を包み込む薫風の香りが心地よい。
「さて、ターナ様」とローラは待ちきれないといった表情で切り出した。「不時着したときのお話、もっと詳しくお聞かせくださいな。応急処置してくれた男の子のことを、特に!」
実はこれこそが、ローラのもう一つの目的だった。プランタの納品に勝るとも劣らない大事な用件である。面白そうな話をたっぷり聞くため、午前中の予定をすべて空けて宮廷に来たのだ。
ローラの意図は、ターナも予感していた。そして彼女自身、シャイナの丘での出来事を誰かに話したくてたまらなかったことに、改めて気づいていた。
ものの五分も経たないうちに、きゃあきゃあと賑やかな声が、格納庫周辺に響き渡った。年の差など、異性の話には関係ない。
ターナは、シャイナの丘での一部始終を、たっぷり時間をかけて語った。
「羨ましいですわ! 私もそんな出会いをしてみたい……!」
ローラは胸の前で両手を合わせ、遠い目をして言った。ローズの香水がふわりと漂う。
「ローラをお誘いする男性なんて、いくらでもいるでしょう? 今日も凛々しくて素敵よ」
「やめてくださいな。いくら頑張ったところで、私に興味を持つ御仁なんかいませんよ。声をかけてくるのは、隙あらばプランタに乗りたがる近所の悪ガキばかりです!」
子どもに怒鳴るローラの姿を想像して、ターナは笑い出してしまった。
「でも、ひとつだけ納得いかない点があるんですのよ」とローラは急に真顔になった。「本当にしっかりした男性なら、ターナ様を安全な場所まで送り届けるべきでしょう。それができないというのは、紳士としての値打ちを下げていると思います」
「なるほど、ローラはそう考えるのね。でも、私は気にならなかったわ。面倒な修理を、進んで引き受けてくれたんだもの。それだけで十分よ」
「お心が広い。でも、甘やかしてはなりません。ターナ様が胡散臭い男に夢中になられたら、王国中が嘆き悲しみます」
「大げさよ、ローラ。母ですら、そこまで厳しく言わないわ」
二人は声を上げて笑った。
「私は思うんです」とローラは続けた。「男という生き物は、二つの心でできているんです。何だと思われます?」
「さあ……。一体、何?」
「一つは『少年の心』。もう一つは『下心』です」
一瞬の静寂の後、ターナの笑い声がこだました。
「その殿方は、下心を押し隠すのに必死だったのでしょう。それで素っ気なかったんですよ。追いかけて来られなかったんですよ。きっとそうです!」
「やだもう……。涙、出てきた!」
「私がもし若い男性だったら」とローラはぐっと身体を寄せた。「ターナ様のような端麗な女性がこんなに近くにいたら、理性なんて吹き飛びますわ! 下心を見透かされまいと必死です!」
「ローラったら!」
どんなときも、ローラはターナに敬意を払うとともに、冗談を交えた親しみやすい態度を崩さない。そこに込められた温かな気遣いを、ターナは心から嬉しく感じていた。
太陽は徐々に高度を上げ、眩しさを増していた。空の青さも朝より鮮やかなのは、気のせいだろうか?
「クラッチの破損そのものは、不時着の衝撃が原因かと思いますが、それまでに摩擦材の劣化が進んでいたかもしれません」とローラは立ち上がり、プランタに優しく触れる。「差し支えなければ、今後は私どもの会社の整備工が、定期的に宮廷を訪問して保守をさせてもらおうと考えています。いかがでしょうか?」
「それはとても助かるわ。でも……」とターナは一考して続ける。「やっぱり、私自身がもうちょっとプランタの仕組みを知る必要があると思うの。だから、整備の様子を私もじかに観察させてもらうのはどうかしら?」
「それは素晴らしい! もちろん、大歓迎ですよ。ただ、ターナ様が横にいらっしゃると、緊張で手が震えて作業が進まないかもしれませんよ」
そんな軽口に、ターナの頬も緩む。立ち上がり、ローラの隣に並んだ。
「後から、落ち着いて考えたの。誰もいない場所であんなことになっていたら、私は途方に暮れるだけだった。ぞっとするわ。やっぱり、最低限の知識と技術は備えておきたいと痛感したの」
「確かに。いざというときに、慌てずに済みますからね」とローラは顎に手を当てて静かに続けた。「今回の男性も、普段からプランタの構造をよく観察しているんでしょうね」
「彼自身、普段から自分で整備してるって言ってたわ」
「とっさの思いつきにしては、なかなか面白いアイデアでした。遠心クラッチが焼けてしまった以上、部品の交換なしに修復するのは不可能ですから。伝達系を固定する応急処置は、悪くない手段です」
ターナは、自分が褒められたかのように誇らしげだ。
ローラはそんな素直さに和みつつ、続く言葉にわずかに毒を込める。
「狙いが的確であることは認めましょう。ただ、仕上がりは雑ですけどね。正直、よく工場までもったと思います」
「それは褒めているの? それとも貶しているの?」
「両方です」とローラは微笑んだ。
「手厳しいのね。でも、本当に彼には助けられたわ」
ターナは素直に感謝を口にした。
「では、人生の先輩として、ひとつアドバイスを」
「何かしら?」
「相手の名前くらいは聞いておきましょう。もしまた出会ったら、何て呼びかけるつもりです?」
「返す言葉もございません」とターナは肩をすくめる。「やっぱり、母よりローラのほうが厳しいわ」
「光栄です」
上機嫌に話すターナがふと格納庫の奥へ視線を向けると、二つの人影が現れた。背の低いほうの声が響く。
「ターナ様、何をしておいでですか?」
声の主は、折り目正しいブラウンのスーツに身を包んだ六十過ぎの老人だった。腰が悪いのか、歩き方がぎこちない。
「グリフ、今日は何か講義の予定があったかしら?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、さきほどからお姿が見えなかったものですから、バイロンと一緒に探しておったのです」
グリフ・ルカスは、宮廷の家庭教師のひとりだ。週に何度か、汎大陸の歴史や地理について講義をしている。
隣のバイロン・ダイは、父親のオスカーとともに宮廷に仕える医師であり、ターナの幼なじみでもあった。ライトブルーのワイシャツ、暗いベージュのスラックスに、白衣を重ねた長身だ。アッシュブロンドの髪を後ろに流して整えている。
「ローラ・グラフ殿に依頼していたプランタの修理が終わったのよ。納品してもらったから、おもてなししていたの」
「ターナ様が壊した、あれですか」とグリフは肩をすくめてかぶりを振った。「直ったのは何よりですが、しばらく乗るのはお控えくださいませ」
「なぜ? 直ったなら、乗るのが普通じゃない?」
「事故を起こしたばかりですよ! お怪我がなかったから、よかったものの……。もう、心配で身も細る思いです」
「私に何かあっても、グリフの責任じゃないわよ」
「いいえ、ターナ様のお身体に傷一つでもつくようなことがあれば、私も責めを負わねばなりません。当然です」
「自分のことは自分で落とし前をつけるわ。誰のせいにもしたくない」
「いい加減になさいませ!」とグリフは声を裏返してたしなめた。
見かねたバイロンが、口を挟む。
「ターナ、グリフの気持ちも察してやれよ」
宮廷の臣下で唯一、ターナに敬語を使わないのがバイロンだった。彼女は敢えてそれを認めてきたのだ。
「私の気持ちも察してほしいわ。王室の勤めは果たしているもの。自分の時間くらい自由に使いたいわ!」
ターナは強い口調で言い返した。外出禁止の苛立ちが溢れ出す。
「どんなときも、ターナは王女だ! 王女ではない瞬間なんて、どこにもない。それが、民の運命を司る王室の宿命じゃないのか?」
バイロンはブルーの瞳を見開き、反論する。
「それが古くさいのよ!」ターナは大声を張り上げた。「そんな時代は、もうすぐ終わるわ! あなただって、医者として市井の空気に触れているでしょう。そんなこともわからないの?」
バイロンはうんざりして顔を背けた。古くさい? 時代は終わる?
一瞬の沈黙を破って、ローラが切り出す。
「申し訳ありません。私どものプランタのせいで、こんな言い争いに……」
「違うのよ!」
ターナは慌てて言った。
「ローラさん、いつもこんな具合なんです。気になさらないでください」
グリフが慌ててフォローする。横でバイロンは不貞腐れている。
「ごめんなさい、ローラ。みっともないところを見せちゃったわ」
ターナは大きく息を吸い込み、静かに吐き出した。そして、背筋をひときわ真っ直ぐに伸ばし、二人の男に毅然とした表情を向けた。怒りや嘆きではない。そこで発したのは、威厳と呼ぶべき圧倒的な存在感だった。
格納庫の空気がぴんと張りつめる。
「大声を出してしまってごめんなさい、グリフ、バイロン」と抑えた調子で、ターナは言葉を紡ぐ。「先に講義室に戻っていてください。私は今から、ローラ・グラフ殿をお見送りいたします。大切なお客様ですから、私が責任を持って見届けます」
声は穏やかだが、有無を言わさない。
「その後すぐに、私も講義室に参ります。ご存知のとおり、明日はジブ帝国のモーリス・カイト皇帝閣下が宮廷を訪れます。その準備のため、昼過ぎから父の手伝いに入る予定です。ただ、それまでの間、少し時間があります。グリフとバイロンの話をじっくり聞かせてもらいましょう。それでよろしいですね?」
ローラは改めて、王家の品位と貫禄を目の当たりにした思いだった。さっきまで異性の話に笑い転げていた娘とは、まるで別人のようだ。幼少の頃から「将来の王」として育てられた者のみが備える風格。ローラは、畏怖すら覚えた。
グリフとバイロンは一歩下がり、揃って一礼すると、格納庫の奥へと姿を消した。さすがに、これ以上ターナを咎めることはできなかったようだ。
ローラは深々と頭を下げた。声がわずかに震えていた。
「それでは失礼いたします。お忙しいところ、お邪魔して申し訳ありませんでした」
ターナはそっとローラの肩に手を置き、優しい声で応えた。
「不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい。でも、今日はとても楽しかった」と口元を緩める。「実を言うとね、シャイナの丘でのこと、ずっと誰かに話したかったの。本当にありがとう」
その慈愛に満ちた笑顔を見た瞬間、ローラは今にも涙が溢れそうになり、どうにか声を絞り出す。
「も、もったいないお言葉です……」
二人は、工場に戻るためのプランタを引いて、ポートに向かって歩き出した。朗らかさを取り戻したターナは、ローラに寄り添う。徐々に緊張が和らぐ。
プランタに着座する直前、さっきの会話で引っかかっていた点を、ローラは思い切って尋ねてみた。
「先ほど、王が民の運命を司るのはもう古いとおっしゃいましたが……。恐れながら、そのお言葉の意味を、教えていただけますか?」
「民が集い、相談し、力を合わせて世を治める時代が、もうすぐ来るわ。それは、民が王の言葉に従うのではなく、民が民の言葉に従う世界。じきに、王を必要としない時代が訪れるの」とターナの表情は穏やかだ。「難しい話じゃないわ」
ローラには、王がいない世界など、想像すらできなかった。ただ、ターナの心の中には、強く信じる未来の姿が存在する。そのことだけは、ローラにも理解できた。
五日前、シャイナの丘から故障したプランタをどうにか飛び立たせた女性は、メスカ王国の王族にして、八百余年の栄光を脈々と紡ぐ名門マイヤー家の嗣子。
——王女ターナ・マイヤー。その人のことであった。




