第四章 第二節【王女の奇襲】
アライアル号の修理は、順調に進んでいた。グラフ飛行艇製造の三名の整備工が、応急処置から引き続き作業に当たっている。ローラが信頼を寄せる彼らの仕事は、迅速かつ丁寧だ。
この日の朝から、カルザスは顔馴染みのベテラン整備工に張り付き、タービンの動作確認の様子を熱心に見学していた。ときおり笑い声が、工場内に響く。
そのとき突然、カルザスの視界が閉ざされた。ひんやりとした柔らかな掌が、そっと両目を覆う。背後から、シトラスの香りが優しく包み込む。甘く倍音の豊かな囁きが、困惑する彼の右耳元に広がる。
「だ〜れ〜だっ?」
「えっ? そ、その声……」
反射的に振り返ったその目に飛び込んできたのは、手を放して小さく万歳をするターナだった。笑顔を弾けさせる。
「だめじゃん! 答える前に振り向くなんて、反則だよお」
上下ともワークウェアを身にまとい、ベージュブラウンの髪を襟足で結んでいた。機能性重視のスタイルだが、透き通るような肌に、ベビーピンクのリップが相変わらず瑞々しい。いつもよりアイラインの角度を和らげ、大きな瞳が映えていた。アメジストのスタッドピアスが光を反射して輝く。
カルザスは、その姿に茫然と見入っていた。思考が追いつかない。
「大丈夫? あだ名、何だっけ? カーリー? カーリーってばあ」
「んぬぐあああああああ!」
叫ぶカルザスは咄嗟に後ずさる。金属製の床に、尻をしたたかに打ちつけた。
「あ、生き返った。カーリー!」とターナは両手を顔の横でひらひらと振った。
「な、な、何でターナがここにいるの?」
「えー。いちゃだめ?」
「いや、いいとかだめとかじゃなくて……」
「じゃあ、いいってことよね。また会えたっ!」と屈託なく再会を喜ぶ。「ローラがね、カルザスの会社の飛行艇を見学しないかって誘ってくれたの。ヴァレリの内部を見る機会って、滅多にないもんね。カルザスも『いつでも遊びにおいで』って、この前言ってくれたじゃない? だから来ちゃった」
「ふへ、そうだったんだ」
「あれ? 迷惑だった?」
「違う、違う。ただ、びっくりしただけ。だって、いきなりだもん」
「あはは。内緒にして驚かそうとしたんだもん」
その様子を、ローラとジョシュアが柱の影から観察していた。下品な笑みを浮かべて、ひそひそと話す。
「ローラさん、あなたも人が悪い。面白すぎるじゃないですか」
「でしょでしょ。だって二人とも、シャイナの丘の話を超ご機嫌で語るのよ。お互い、悪い気はしてないって、すぐにわかったわ」
「それで、早速くっつけにかかるとは、もはや斡旋業だな」とジョシュアは愉快で仕方がない様子だ。「カルザスの狼狽えっぷりが絶品だな。ああ、こんなときに限って、ギルがいないんだよなー。あいつも間が悪いわ」
「さて、そろそろ次の仕掛けね」
「おっと、まだ何か悪巧みを?」
「このまま放っといても、カルザス一人じゃ場が持たないわ。背中を押すのが、私たち人生の先輩の役割でしょ?」
「え、俺も巻き込まれてる?」
ローラは両手を広げ、ターナを歓待する。
「ようこそお越しくださいました! 見苦しい船ですが、ヴァレリの構造を、是非ともご堪能くださいませ」
「見苦しいって、俺の船なんだけど……」とジョシュアは小声でぼやく。
「おはよう! お招きいただいて、ありがとう!」とターナは溌剌と挨拶を返す。
「遠慮なくご覧ください。カルザスの見られたくない物があっても、どうか気づかないフリで」
「もちろん! 王家のたしなみとして心得ているわ」
「えっ、俺の部屋も見られるの?」とカルザスは動揺する。「船長、これ、どうなってんですか? 聞いてませんよ!」
「俺も知らんわ」とジョシュアはへらへら答える。「でも、王女様が見たいとおっしゃるなら、我々庶民は拒めません。それともお前、見られてマズいものでもあるんか?」
「べ、別に……。船長こそ、大丈夫なんですか?」
「もちろん、問題な……。あ、いや、あれはちょっと……。いや、どうかな……」と途端に弱腰になったジョシュアは、船内に逃げ込んだ。「掃除してきまーす」
「待ってください、船長。抜け駆けは反則です!」
カルザスも慌てて船内へ駆け込む。そして、搭乗口の前で忘れずに念を押した。
「一応だけど、『カーリー』は止めてね」
ターナとローラは揃って爆笑した。
「あんたたち、掃除が済んだら、ターナ様をご案内しなさいよ。自分の船なんだから」
次いで、ローラはターナのほうに向き直って続けた。
「仕方ないですね。あのアホ二人が戻るまで、私がご案内いたしますわ」
こうして、アライアル号の見学ツアーを皮切りに、長い一日が始まった。ローラの深謀遠慮は、まだまだ続く。




