第三章 第六節【素顔の王女】
翌朝、ジョシュア、ギル、カルザスの三人は、宮廷の正門から外へ出た。
昨晩はそれぞれに個室をあてがわれ、ゆったりと眠ることができた。おかげで、息つく間もなかった数日間の疲労は、すっかりと癒えた。
紫外線を多く含む陽光は容赦なく、外気を汗ばむほどに暖めていた。宮廷を取り巻くクレイトンの落ち着いた町並みを過ぎると、目的地である鉄道駅まで、のどかな田園風景が続く。徐々に、土と草の匂いが濃度を増していった。
三人は、これから鉄道でローラの工場へ向かい、アライアル号の修理計画を立てる段取りだ。復旧までにはしばらく時間を要するだろうが、仕事の再開に向けて、少しずつ現実は前に進み始める。
駅までもう少しという田舎道。三人の頭上にローターの回転音が響いた。えんじ色の一人乗りプランタが、前方にふわりと降り立つ。砂埃が小さく舞い上がった。三人は足を止め、プランタの操縦士を凝視する。
「参ったなあ。やっぱりワークウェアじゃないとだめね。油断するとスカートが捲れちゃう!」
その小柄な若い女性は、座席から軽やかに立ち上がると、愉快げな表情で三人に向き直る。ざっくりしたブルーのシャツワンピースに黒のレギンス、ベージュのパンプス。少なくとも、プランタを操縦するのに適したコーディネートとはいえない。
「みなさん、ごめんなさいね。こんな普段着上等な格好で。間に合わないかと思って、慌てて飛び出してきたものだから。少しだけ、足止めしてもいいかしら?」
そう親しげに語る女性は、メスカ王国の王女ターナ・マイヤーだった。昨日の審議で放っていた厳格さは影を潜め、今の彼女がまとっているのは、どこまでも軽やかな若々しい空気だ。
状況を呑み込めないジョシュアの言葉は、ぎこちない。
「あ、えっと……ターナ様? これは一体……」
ターナは三人のもとへ歩み寄る。ジョシュアと視線を合わせると、穏やかな笑顔を向けて小さく会釈をした。シトラスの香りが彼の鼻をくすぐる。
そしてカルザスの正面で、ぴたりと止まった。両脚を肩幅に開いて立ち、悪戯っぽい仕草で、右の人差し指を鼻先に近づける。
「怒ってるんでしょ、カルザス!」
「へ?」
「サラ・メンフィスなんて偽名を使って。今まで王女だってことを、何で隠してたんだって、苛立ってんでしょ?」
「な、なんだよ、急に……」
心の底を見透かされたようで、たじろぐ。
「やっぱり! 顔に書いてあるもん。バカにすんなよって」
「ち、違うよ! そりゃ、確かに昨日はびっくりしたけど。でも王女だったら、お忍びのときは、名前を隠して当然だよね」
「嘘ばっかり。そんなに物わかりがいいなんて、ありえないんですけど!」
ターナは、陽気に首を振って笑う。妙に昂ぶった様子だ。
「違うって言ってるだろ。何度も言わせるなよ!」と焦ったカルザスは、前のめりに反論する。
その動きにシンクロするように、ターナはすっと二歩後ろに下がった。スカートが柔らかく舞う。
「ごめんなさい。ちゃんと名乗るべきだったよね。でも、昨日のあの場では言えなかった。私は、宮廷では毅然としていないといけないから。だから、カルザスが帰る前に、どうしても謝りたくて……こうして会いに来たの」
丁寧に紡がれる言葉に対し、ギルが横から口を挟んだ。
「あの……サラ・メンフィスっておっしゃいましたよね。もしかして、ナミ・シャーロックの友人のサラって……」
「そう。ナミは私の大切な友達。彼女から、あなたのことはよく聞いているわ」と真相を語る。「ナミは、ギルのことをとても頼りにしてるの。彼女の話しぶりから、それがすごく伝わってくるわ。私が言うのも変だけど、ナミのこと、大切にしてあげてね」
「は、はい。それはもちろんです! でも、驚きました。まさか王女様が……」
「私のほうこそ、ギルとカルザスが同僚だったなんて、びっくりしたわ」とターナの声は朗らかに響く。「でもね、このことは、ナミにはまだ内緒にしておいて。私が、直接、本当のことを伝えたいから。いいかしら?」
そう言うと、口元に人さし指を添えた。
「わかりました。天に誓って約束しますっ!」
ギルは気をつけの姿勢で敬礼する。ターナも戯けて、同じ姿勢を返した。小ぶりなフープピアスが、朝の陽射しを受けて白銀に煌めく。
さきほどからそわそわしていたジョシュアが、ようやく言葉を挟む。
「じゃあ、ターナ様。つまり、こういうことですか? カルザスがシャイナの丘で、プランタを修理したっていうのは……」
「そのとおり。お忍びで宮廷を抜け出した帰り道、シャイナの丘で不時着しちゃって。そのとき、カルザスが助けてくれたの」と満面の笑みで答えた。「驚いた?」
「そりゃ驚きますよ。噂の女性がまさか王女様だったとは……。あの、笑ってもいいですか?」
「もちろん、笑って! 無理もないわ」
「あはははは」
ジョシュアの乾いた声は、青空に吸収される。そして、カルザスの頭を、左手でぐいっと押さえつけた。
「このバカが、何か迷惑をかけませんでしたか? 頭に血が上ると、ブレーキが壊れて暴走するんですよ。ほら、カーリーも謝れって」
「いてっ、痛え! だから、カーリーは止めてくださいって!」
喚き声の主を、ターナが下から覗き込む。
「えっ。カルザスって、カーリーって呼ばれてるの?」
「そうなんです。みんなの人気者です。オチに切れがなかったら、ターナ様からもビシッと説教しちゃってください」とギルも左腕を抱え込んでその動きを封じる。
「あはは! いいじゃない。カーリーって、可愛いじゃない!」
ターナはカルザスの左肩を、ぱんぱんと叩いてはしゃいだ。
「くおらああ! ふざけんなよ! 勝手にあだ名つけやがって! 毎朝毎晩、同じこと言わせんな!」とカルザスは三人を振り払って叫ぶ。
「おいおい、王女様の前で、ずいぶんと乱暴な振る舞いだな」とジョシュアが両手で宥める。「ターナ様、こいつ、熱血漢なんですけど、空回りするというか、燃費が悪いというか……。でも憎めない奴でして。大目に見てやってください。ちゃんと教育はしておきますんで」
「何だよ、保護者ヅラしやがって! 普段はとことんテキトーじゃねえか。どの口が言ってんだよ!」
「この野郎。船長に向かって、その物の言い方はねえだろ! 根性、叩き直してやる!」
ジョシュアに頭を締め上げられたカルザスは、じたばたと暴れた。
思春期男子のように、三人は息が上がるまで荒ぶる。その様子に、ターナは腹を抱えて笑い続けた。
「あー、もう、可笑しすぎる! いつもこんな感じなの?」
「まあ、今日は手加減してますけどね」
ジョシュアが軽口を叩く。
「でも、気を許せる仲間がいるって、いいことよね。ほんと、羨ましい」
三人を眩しそうに眺めるターナに、ギルが尋ねた。
「あの……カルザスに会うためだけに、こうして朝早くから、わざわざ出向かれたんですか?」
「それだけじゃないわ」とターナは朝の陽光を全身に浴びる。「カルザスの大切な人たちとも、話がしたかったの。それに、宮廷の外なら、私は王女として振る舞う必要がないから」
それでもカルザスは戸惑いを拭い去れない。手の届くはずのない王女という身分と、朗らかに振る舞う目の前の女性を、うまく重ね合わせることができないのだ。
「あの、ターナ様……」
おずおずと呼びかけたが、ターナはすぐに遮った。
「『様』は勘弁して。私は、対等な人間として、あなたと話したいの」
その違和感を和らげ、眼前のありのままの自分を見てほしいと促す。
「あ、うん……じゃあ、ターナ」
「何かしら?」
「えっとさ。お忍びでも構わないから、アライアル号にも来てよ。騒がしいかもしれないけど、歓迎するよ」
「もちろん! 絶対、行くわ。楽しみで、わくわくするよ!」
ターナは目をきらきら輝かせ、両手を合わせた。ベージュブラウンの髪が陽に透け、さらりと風になびく。
「それから、ジョシュアとギルも、気軽に崩して話してね。人生の先輩なんだし」
「え、でも……」
戸惑うギルを、ジョシュアが軽く片手で制した。
「わかったよ、ターナ。じゃあ、代わりに、お父上に伝えてくれるか? 昨日は寛大に配慮していただいて、感謝していると」
「了解。必ず伝えるわ」と頷き、真剣な眼差しで続けた。「それから、もう一つ大事なことを。三人がコロキスから国境を越えたこと、私はまったく問題ないと考えてる。『亡命』みたいなものでしょう? しかも、マイルの子どもたちを助けたのは、誇るべき行為よ。私は、躊躇なく正しい行動をしたあなたたちを尊敬している。それだけは、忘れないでね」
王女自らの慈愛の言葉は、三人の胸に深く沁み入った。気さくな振る舞いでありながら醸し出されるターナの気品と優しさに、ジョシュアは強く胸を打たれた。
「そろそろ戻らなきゃ……。あ、ちょっとだけ、カルザスを借りるね」
ターナは後ろ手を組み、カルザスと並んで歩き出す。プランタまで戻ると、分厚い一冊の本を差し出した。
「これ、よかったら読んでみて」
「アメリア・ダイスの『旅の聖人』? これ、かなり硬派だよね……」
「そう? ブリッツに馴染んでるカルザスにとっては、むしろ物足りないかもだけど」
「どんな内容?」
「そうねー。青空の深さが染み渡るってとこかな。読んでみたらわかるわ」
ターナの悪戯っぽい言葉に、カルザスは破顔した。シャイナの丘での会話を思い出す。
「ありがとう。今から読むのが楽しみだよ」
そんなやりとりをしているうち、カルザスの困惑はいつの間にか消え去っていた。「気取らない王女」という一つのイメージに溶け込んだのだ。
上機嫌なターナは、えんじ色のプランタに跨ろうとする。操縦桿と座席の間に身体を滑り込ませるが、シャツワンピースの裾がうまく収まらない。悪戦苦闘する彼女の様子に、カルザスは口元を緩め、目の前の「新しい友」に語りかける。
「その格好じゃ、ちょっと乗りにくいよね」
「まーね」とターナは、やれやれという表情だ。「でもさ、ワークウェアって可愛くないじゃん。せっかくだから、女の子っぽい服がいいかなって思って」
彼女のこういう姿を見るのは初めてだと、カルザスは気づく。抜群に可愛らしい。
「どう? 似合ってる?」
ターナは左手のピースサインを目許に添えて口角を上げる。
「う、うん。もちろん」とカルザスは照れる。
「ありがと。来てよかった!」
ターナが飛び立っていった空は、どこまでも青く深かった。『旅の聖人』を読めばこんな感覚になれるのかと、カルザスは思いを馳せた。シトラスの残り香が、彼の気持ちを朗らかにする。




