第三章 第三節【逃走に爆撃】
一日中、太陽を拝むことがないまま、自治区制圧の日の夜はとっぷりと更けた。間もなく日付が変わろうとしている。雨がぱらつき、埃と混じった匂いが町を覆う。空気はひどく重い。
ジョシュア、ギル、カルザスの三人は、ウェインのオフィスから約一時間歩き、工場に忍び込んだ。小雨とはいえ、全身びしょ濡れだ。
身体を乾かす間もなく、三人は停泊中のアライアル号に搭乗した。闇の中、無言の連携で出発の準備に取りかかる。
「国境まで、直線最速で一時間。実際は、加速時間も入れて一時間半くらいです」とギルが見積もりを口にした。
「追ってくるとしたら、プランタだな。実際に飛ばせる奴が黒十字にいるかどうかだが……」とジョシュアが唸る。
「一度でも操縦経験があれば、難しくないと思いますよ」とカルザスは冷静に応じた。
「まずは垂直に上昇する。中空域に達したら、水平飛行に切り替える」
ジョシュアは奥歯を噛みしめる。ギルとカルザスも手に汗を握った。暗闇の中、照明を落としたままヴァレリを動かすのは、初めての経験だ。
準備が整うと、起動蓄電池から電源供給を開始した。六本の大型BSカートリッジがじわじわと熱せられる。それぞれが主水槽の水を沸騰させるのに、十分程度はかかる。
蒸気圧が上昇するのを確認すると、ジョシュアは順にスロットルバルブを開ける。タービンの音がじわりと響き、主翼と副翼のプロペラが静かに回転を始めた。揚力を調整すると、ふっと身体が沈み込む感覚が襲う。浮き上がった機体の高度を、慎重に上げていく。
五分以上かけて中空域へ到達すると、ジョシュアは操縦桿を操作し、機体を水平飛行へと切り替えた。雨は次第に強まり、機体を打つ音が耳に入る。
そのとき、一条の光線が斜め下方から船体を照らし出した。地上からは、アライアル号が夜空に浮かび上がっているに違いない。
「見つかった!」とカルザスの声が飛ぶ。
「照明を点けろ!」と鋭く命じたジョシュアは、自ら前照灯を点灯する。
ギルは、操縦室の後ろに駆け込み、室内を明るくする。
「ここからは全速力だ。ギル、潜望鏡で船外観測。何かあれば、逐一知らせてくれ!」
「了解!」
ギルは操縦室奥の席に座り、潜望鏡の接眼部に目を凝らした。機体外部に設置された複数の対物鏡から、像がここに集まる。
「カルザス、進路は?」
「面舵十度。国境まで、真っ直ぐ進みましょう」
ジョシュアは操縦桿を調整し、左手でスロットルバルブを開け放った。タービンが唸りを上げ、船体が加速すると、三人は座席に押しつけられた。ただし、空荷とはいえ、ヴァレリと呼ばれる大型の飛行艇だ。最高速度に達するには、時間を要する。
唐突にギルが叫んだ。
「船長! プランタが追跡しています。四機確認。こちらより加速がいいので、間もなく追いつかれます!」
「ちっ。意外に対応が早いな」
アライアル号が最高速に到達すると同時に、前方を飛行するプランタが視界に入った。まだ国境の半分にも届いていない。一度追い駆けっこが始まってしまえば、鈍重なヴァレリがプランタの速度に敵うはずもなかった。
そこへ、船舶共通の周波数に無線が入る。黒十字に掌握された行政局の航空管制からだった。
「タンデス上空の飛行艇に告ぐ。船籍コードを名乗れ。現在、船舶の飛行を禁じている。直ちに、コロキス中央停泊所へ引き返せ」
「船長……」
「無視しろ。構ってる暇はない」
もう一度、同じ問いかけがあったものの、ジョシュアは無言を貫いた。すると、無線の発信元は、次なる手を講じた。
「追尾中のプランタに命ずる。対象の船籍コードを報告せよ」
「二号機、了解」と追尾機の一つが応じる。
飛行中のヴァレリには、船籍コードの表示が義務付けられている。これを隠して飛行すれば、違法船舶と見なされ、いかなる攻撃も正当化される。
アライアル号のコードも、船体前部に描かれていた。
「……M461A。繰り返す、M461A」
やがて、怒気混じりの通信が船内に響いた。
「お前ら、アライアル号だな。マイルで世話になった分、お返しさせてもらうぞ」
「遠慮しとくよ」とジョシュアが初めて応じる。「お互い忙しいだろ。上司の愚痴なら、また別の機会に聞いてやるよ」
「ふざけるな! 引き返さなければ、爆撃する!」
「民間機に攻撃して、タダで済むと思うなよ、この野郎!」
そう一喝し、無線を叩き切った。いくらか時間を稼ぐことはできたが、国境まで丸腰で飛行しなければならない事態は、変わらない。脂汗が額に滲む。
ほどなく、雨の中ぴたりと並走していた黒十字のプランタが、操縦席の視界から消えた。
「船長、プランタが全機、上方に集まったようです!」
ギルがそう報告した直後、爆音が鳴り響き、機体が大きく揺れた。カルザスは椅子から転げ落ち、ジョシュアも操舵を誤りそうになる。
「何があった!」
「天井付近が爆発したようです。ちょっと確認してきます!」
「本当に爆撃しやがったか……くそっ!」
悪態をつくや否や、黒十字からの無線が入る。
「今のは警告だ。次は、プロペラを一つずつ潰す。墜落したくなければ、引き返せ!」
ジョシュアは、湧き上がる怒りと焦りを、必死に抑えている。
「船長、雨雲の中に入りましょう!」とカルザスが咄嗟に提案する。「気流が荒ければ、プランタは飛行できません。このままじゃ、手も足も出ずにやられます!」
「たぶん、手榴弾です! 天窓が吹っ飛んで、上はひどい有り様です!」とギルの叫び声が、スピーカーから響く。
操縦室に戻るようギルに命じ、ジョシュアは努めて冷静に思考を研ぎ澄ませた。
「雨雲に入る。揺れるから、しっかり掴まってろ!」と決断する。「カルザス、あと何分で国境だ?」
「最大速で、二十五分です!」
「船が耐えるかどうか、我慢比べだな」
アライアル号は雨雲を目指して急上昇した。黒十字のプランタも即座に反応し、側面に張りついて離れない。雨音は、一層激しくなる。
雲が近づくにつれて、気流は目に見えて荒れ始めた。アライアル号の巨体も不規則に揺れ、ジョシュアの操縦桿を握る手に力がこもった。
一方、並走するプランタの小さな機体は、たちまち風に煽られる。やがて上昇を断念した。
カルザスは手元のコンパスを睨み、こまめに方向を修正する。気流は激しく、翼やプロペラにも無理な力がかかっているのを、ジョシュアは肌で感じた。三人の汗が船内の湿度を上げているに違いないと、ギルは顔をしかめる。
十五分ほど飛行を続けたときだった。「バキッ」という鋭い破裂音が、後方から響いた。機体が傾く。
「どこがやられた?」
一瞬の沈黙を挟み、ギルの呻き声が反響する。
「右主翼の第一プロペラが折れてます。このままじゃ、高度が保てません!」
「カルザス、あと何分だ!」
「八分です。あと五分、耐えられませんか?」
「ギリギリだな。これ以上やられると、終わりだ……」
「高度を下げましょう。もう少し気流の弱いところまで」
「プランタはどうなってる!」
「下方に光があります。まだ、追ってきてます!」
ジョシュアは、左主翼の第一プロペラを止めてバランスを確保しつつ、高度を下げる。すかさず、黒十字のプランタが上昇してきた。アライアル号の横に並ぶ。
「こんな雨の中、しつこい! どこまで上司に忠実なんだ!」
プランタは再び、船の真上に出た。そして、主翼と副翼めがけて、手榴弾を次々と投下する。
ジョシュアは細かく操舵し、機体を揺さぶる。手榴弾を振り落とすことはできたとしても、その代償として、高度と速度がさらに落ちた。
しかし再び、爆発音が船内を震わせる。
「垂直尾翼の第二プロペラが破損!」とギルの声が鋭く飛ぶ。
「このまま行きましょう。ぎりぎり国境に滑り込めると思います!」とカルザスは声を嗄らす。
「畜生! この借りは百倍にして返してやる! 俺の船を目茶苦茶にしやがって!」
ジョシュアの目に、怒りと悔しさの涙が滲んだ。
大幅に高度を落としたアライアル号の船内で、カルザスの叫び声が響き渡った。
「たった今、国境を越えました!」
一拍おいてギルが状況を報告する。
「追尾していたプランタが後方に離れていきます! 振り切りました!」
「よし、着陸に入る。衝撃に備えろ!」
車輪が地面に触れ、船体が大きく揺れた。船は二、三度弾むような動きをしたが、すぐに自重で安定した。
国境をわずかに越えたメスカ王国領内で、アライアル号は着陸を成功させた。雨は弱まることなく、機体を静かに叩き続けていた。




