第三章 第一節【儚げな平穏】
「わーい」
「こらー、待てーっ!」
山あいの小さな集落に歓声が響き渡る。雑草が伸び放題の空き地を、数人の子どもが走り回っている。
「サイカ姉ちゃんも、ほら、早く!」
二人の子どもが、サイカの両手を引っ張って走ろうとする。穏やかな表情の彼女は、子どもに引かれるがまま小さく駆け出した。
ギルザ山岳地帯で最大の村パディラ。黒十字解放戦線第三隊の拠点の一角に、木造の古びたコテージが建つ。
集会所として使われるその建物の一階からは、ウッドテラスが延びており、ファビオとレスターが並んで立っていた。追いかけっこに興じる子どもを眺めている。
マイル襲撃から十二日後のこの日、黒十字の四つの隊の幹部が集まり、まもなく会合が始まろうとしていた。夏を前にした緑の匂いが濃く広がる。
「サイカはすっかり回復したな」とファビオは口を開く。「ああしていると、ただの十代の娘にしか見えん」
マイル襲撃のときに比べれば、今日のサイカは血色もよく、瞳も輝いていた。
もともと物静かな性格で、言葉数も少ない。だが、ときおり見せる笑顔には豊かな感情が宿り、その振る舞いは周囲の者を癒す。ギルザの民はみな、我が娘のように可愛がっていた。
「サイカは、心根の優しい子だよ。今も昔も」とレスターがこぼす。「こんな穏やかな日々が続けば、ボロボロになるまで戦うこともないのに……」
「穏やかな日々を手に入れるために、ここまで来たんだ。気持ちを切り替えろ」
その言葉は冷たくも聞こえたが、胸の内はレスターと同じだ。サイカが不憫でならない。
それでも、彼女は自らの意思で過酷な戦いを選んだ。黒のワークウェア姿のファビオは、そのことを痛いほど理解していた。
サイカの右手を握っていた女の子が、彼女に耳打ちをした。
「お姉ちゃんだけに、内緒だよ」
「どうしたの?」とひそひそ声を返す。
女の子は、シロツメクサの花で編んだブレスレットを差し出した。
「見て見て、可愛いでしょ。私が作ったの」
「メイアが? 上手ね」
「サイカ姉ちゃんにあげるよ」
「アタシに?」
「うん。似合うといいなって思って」
サイカは、そっと左手首にブレスレットを通し、角度を変えて見せる。
「かわいいね。本当にくれるの?」
「うん!」
「嬉しいなあ。ありがとう。じゃあ、メイアにも、お姉ちゃんの大事なものをあげなくちゃね」
「何くれるの?」
「じゃあ、これはどう?」
黒装束のポケットから、猫の顔をかたどった親指サイズのガラス細工を取り出した。陽光を受け、オレンジ色に光る。
「ふもとで手に入れたの。ほら、キラキラしてきれいでしょ」
そんな様子に目を細めるファビオは、レスターに声をかけた。
「サイカのところに行ってやれよ」
「いや……いいよ。あいつ、子どもといるほうが生き生きしてるから」
「お前が一緒のほうが楽しいんだよ」
「でも、俺は……」
「拗らせるなよ。面倒くせえな」
ファビオは、軽く尻を蹴って促す。照れるレスターは、子どもの輪に向かって駆けていった。
入れ替わるようにテラスに現れたのは、黒十字解放戦線のリーダーであるレオ・サヴォイ将軍だった。四十代前半の大柄な男で、口髭と眼鏡が特徴的だ。黒い軍服様のワークウェアを身に着ける。ファビオの横に立ち、草原を見下ろす。
「サイカは、もう大丈夫だな。しっかり働いてもらおう。いよいよ正念場だからな」
「それなんだが……」とファビオが意見を述べる。「サイカ抜きでも、十分戦えるんじゃないか。四隊のうち、三隊をつぎ込むんだ。本丸さえ落とせば、片は付くんだから……」
「甘いな。絶対に失敗の許されない戦いで、勝負手を温存するのは、愚の骨頂だ。サイカの武力は圧倒的だし、何より味方の士気を大きく引き上げる。必要不可欠だよ」
「だが、あいつはいつも限界を超えて戦う。いずれ壊れるんじゃないかと、第一隊の誰もが心配している」
「それを壊れないように何とかするのが、お前の仕事だろう? しっかりしてくれよ」
レオは意気揚々と幹部会の開かれる部屋へ引き返した。
ファビオはかぶりを振る。舌打ちが漏れる。
「丸投げかよ、クソが……」
外に目を遣ると、レスターとサイカが、子どもと一緒になって走り回っていた。久々に見せる彼女の笑顔が、眩しかった。
ファビオは、やり切れない気分に沈む。十代半ばの若者をこれ以上苦しめないためにも、自分がしっかりしなければならない。
これから始まる幹部会では、三日後に迫った作戦の詳細が詰められるはずだ。これまでの略奪とは、規模が異なり、目的も違う。ギルザが国家として他国に並んで立つために、そして「蛮族」の烙印を押された過去と決別するために、避けては通れない道だ。
迷いを抱いている場合ではない。計画の遂行に集中するだけだ。
子どもの歓声を背に、ファビオは悲壮な決意を固めた。




