第二章 第五節【医師の奔走】
ユージンが執務室に戻ると、クララが今日の仕事の準備に取りかかっていた。
マイヤー家では、午前中に夫婦で執務するのが伝統となっている。午後は主に、来客応対、会議、式典などに充てられるため、午前中は貴重な時間だ。
しばらくすると、白衣姿のバイロンが部屋に入ってきた。執務の合間に、国王と王妃の体調をチェックするのは、宮廷医の日課である。
聴診器を当てられているユージンに、クララが話しかけた。ダークブラウンのワンピースがシックな印象を醸し出す。
「そういえば、黒十字解放戦線の襲撃の後、モーリス様は具体的に何か対応されたのですか?」
「うむ、それなんだが……」とユージンは首を傾げた。「確かに翌々日に、帝国としての非難声明は発出されたが、その後、特にアクションがない。晩餐を中断してまで帰国したというのに……。側近に諌められたのか、自重したのか。そもそも、我々に何の連絡も寄越さないのは、いささか不自然だ」
ユージンは、モーリスのちぐはぐな言動に疑問を持つ。その一方で、モーリスが黒十字をいたずらに挑発しなかったことに安堵していた。黒十字問題については独自に対応しており、あまり敵対的にならないよう、注意を払っている。
「何か、違和感や痛みはございますか?」
バイロンが尋ねる。
「今朝は快調だな」とユージンはワイシャツの前ボタンを留める。「この数日は、頭痛も治まっている。このまま、調子を取り戻せればいいのだが」
「知り合いの医師からも、情報収集を続けております。近年の医学の進歩は目覚ましいので、いずれ陛下の頭痛の原因も、明らかになるのではないかと」
「まあ、頭痛と肩凝りは、古今東西そう簡単には治らない。私の父も、ずっと悩んでいたからな」
ユージンは表情を緩める。
「でも、原因がわかるとありがたい。頼むよ」
「承知いたしました」
バイロンは深く頭を下げ、引き続き、クララの検診を始めようとした。
「今日もいいお天気ね」と窓の外を眺めていた彼女が呟く。「ターナったら、どこに行くのかしらね」
その言葉を聞いて、バイロンの顔が引きつった。
「お、お妃様……まさか……」
「ええ。プランタに乗って、飛んで行くのが見えましたよ」
「どこですかっ!」
バイロンは聴診器を放り出し、慌てて窓に駆け寄った。
空には、小さな機影が浮かんでいる。
「ああっ! 油断も隙もない!」と地団駄を踏んだ。
「またかい。あの子も懲りないね」とユージンはネクタイを締めながら、苦笑する。
「ごめんなさいね。大丈夫だとは思うけど、一応ね……」とクララは笑顔を絶やさない。
「後を追います! 失礼しますっ!」
バイロンは、バタバタと音を立てて、執務室を飛び出した。ターナのアレンジした花の香りが、彼の動きとともに揺れる。
二週間前、ターナがシャイナの丘で起こした自損事故が脳裏をよぎる。もし王女の身に何かあれば、宮廷だけでなく、国全体を揺るがす大騒ぎになりかねない。
バイロンは、自らのプランタが静置してある格納庫へ向かって全力で走った。悪態が止まらない。
「あの、じゃじゃ馬娘が!」




