第二章 第三節【師弟の閑談】
ネルフィの盛り場は、夜が深まっても煌々と灯が点り、喧騒が衰える気配はない。汎大陸中から多様な国籍の人々が集い、酒と食事と人のつながりを楽しむ。そのエネルギーは、明日を生きる力に形を変える。
近年、新たな産業が興り、人の移動手段も急速に発達したことで、各地に新しい町が生まれていた。計画的に整備され、似たような見た目の建物が整然と並ぶ景観も、珍しくない。
一方、ネルフィは数百年前から続く古い町だ。効率性とは縁遠く、解体と再構築が繰り返されてきた。その結果、道路は複雑に入り組み、建物も雑然と建ち並ぶ。初めて訪れる者は、あっという間に迷い込んでしまうだろう。
だが、ネルフィに慣れ親しんだ者は、この混沌に魅了される。新しい店が開けば噂になり、厳しい評価に耐え抜けば町の魅力の一部となる。こうして、ネルフィは古くから東大陸屈指の賑わいを誇り、規模を拡大し続けてきた。
少なからずその喧騒に貢献したカルザスは、日付が変わった後に、やっと解放された。
酔い潰れたミーシャは、バートと共に店のテーブルに突っ伏し、後片づけもそこそこに眠り込んでしまった。ギルは、この日一番美味しいと評した「鶏肉の白ワイン蒸し」を自分でも作ってみると、けたけた笑い声を上げて夜の町へ消えていった。
ジョシュアと千鳥足で船に戻ったカルザスは、天井部屋の屋根を開けて酔いを覚ましていた。頭上には満天の星が広がる。
「よう、酔っ払い。大丈夫か?」とジョシュアが部屋に昇って声をかけた。「吐くなら外で吐けよ。ここで吐いたら、掃除する場所が増えるぞ」
「吐きませんよ。酔いも醒めました。もう吐くものもないくらい、白状させられましたから」
「おっ、珍しくうまいこと言うね」
ジョシュアはどかっと横にしゃがんだ。目の周りの赤みとアルコールの匂いが残っている。
しばらくの沈黙の後、カルザスが口を開いた。
「船長、本当にすみません。迷惑ばかりかけて」
「いつまで謝り続けるつもりだ。マイルから逃げる日に詫び言は聞いた」
「はあ……」
「まあ、迷惑は迷惑だが、気持ちはわからんでもない」
「え?」
「俺が今のお前の歳だったら、子どもを助けるために、間違いなく同じことをしただろうよ。ただし、中途半端なことはしない。素早く、確実にチンピラどもを仕留めるけどな」
「船長……」
「この歳になると、躊躇しちまう。後先考えるからな。でも、お前らみたいな若い奴は、まだ直情的で構わねえ。その尻拭いをするのは、年長者の仕事だ。一つだけ確実に言えるのは、あの二人の子どもを助けたのは、他でもない『お前』ってことだ」
カルザスは、自分の行動を肯定するジョシュアの言葉に驚いた。そうであれば、なおさら自分一人で最後まで片を付けたかったと、歯痒く思う。
「船長は、武術とか格闘技の経験があるんですか?」
切りかかるレスターを、あっという間に羽交い締めにしたジョシュアの動きを思い出し、カルザスは尋ねた。
「お前、何年のつきあいだ? 俺が、鍛錬だの特訓だのしてる姿なんて、見たことあるか?」
「確かにないですけど……。でも、子どもの頃に鍛えたとか」
「まあ、ないとは言わん。長続きしなかったけどな。そんなことより、大事なことがあるんだよ」
「どういうことです?」
「要は、相手の間合いを外すことだ。それだけで、かなり敵を無力化できる」とジョシュアは機嫌よく続けた。「となると、後ろか前かの選択だ。後ろに退けば安全だが、いつまで経っても、ただの鬼ごっこになっちまう。であれば、然るべきときに前に出て、勝負を決める。相手にダメージを与えられるからな。もちろん、一歩間違えば、自分も無傷じゃ済まないが」
「へえ……。深いですね」とカルザスは感心する。
「……と、昔コールマンが言ってた」とジョシュアはへらへらと笑う。「まあ、もしものときは、お前も試してみな。そのせいで腹に穴が空いても、俺は責任取らんがな」
まともなことを喋っているようでいて、肩透かしを食らわせる——いつもどおりのジョシュアだ。
漆黒の夜空を眺めていると、時間の進み方がわからなくなる。それが、酔っているせいなのかも判断できない。
コールマンの名前が出たことで、カルザスは尋ねた。
「船長の師匠って、どんな人だったんですか?」
ジョシュアは、しばらく黙っていたが、ぼそりと語り始めた。
「コールマン・クラフトは、俺が若い頃に世話になった貿易商だ。小さな会社だったが、業界ではそこそこ有名でな。もっと儲けてる奴は、他にいくらでもいたが、仕事に一本筋を通してるってことで、同業者の信頼が厚かった。そんな噂も広まって、顔の広い男だったよ」
ジョシュアの静かな声が、夜空に吸い込まれる。
「俺はまだ、やんちゃで手のかかるガキだった。ミーシャの言うとおりさ。俺の不始末のせいで、コールマンは方々に頭を下げて回ってた。でも当時は、その有り難みが全然わからなかった。ただの小うるさいオヤジだと、鬱陶しく思ってたよ。だけど——コールマンが死んで、初めて気づいたんだ。あのおっさんが守ってくれてたから、俺は好き勝手できてたんだってな」
アライアル号が停泊する場所には、市場の喧騒は届かない。静寂の中、ジョシュアの低い声が、カルザスの耳を打つ。
「知ってるだろうが、十年前に事故で死んだことになってる。……ただ、ちょっと訳ありでな。俺自身まだ受け止めきれてない。納得いかなくてな」
ジョシュアの表情がわずかに翳る。
「それはもしかして、バクスター……」
カルザスの問いかけに、ジョシュアは答えず、言葉を被せる。
「だからよ。お前のバカさ加減を見てると、腹立つ反面、放っておけねえんだよ。謝って済むなら、それでいい。俺が怒鳴ってぶっ飛ばすのは、お前の脳味噌に焼き印を残すためだ。将来、誰かを守るとき、そいつが役に立てばいい」
ジョシュアは、そう言って立ち上がった。
「まあ、しばらくは大人しくしてろ。マイルの一件も、そのうち風化するさ。このご時世、情報の上書きも早いからな。それより、さっさとその青痣を治せ。客商売に差し障る」
そう言い残して、ジョシュアは天井部屋を後にした。カルザスは、もう一度寝転がり、星空を仰いだ。
いつか、叩き出されるんじゃないか。正直なところ、いくらか怯えていた。だが、彼の上司はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。かつてコールマンがそうしていたように、ジョシュアも、その部下を守ろうとしている。
カルザスは、ぼんやりと考え続けた。自分も成長しなければならないと、素直に思えた。そのためなら、船の掃除くらい、何でもないことだろう。
深い静寂も、彼を温かく許しているようであった。




