第十一章 第七節【驚きの決断】
宵闇がクレイトンの宮廷を覆う。この日は珍しく昼の暑さが和らぎ、過ごしやすい夜更けとなっていた。
メスカ王国国王代理ターナ・マイヤーは、この日の業務を終え、自室でリラックスしていた。仕事は途切れないものの、執政官が効率よく支えているおかげで、懸案がてきぱきと片づいていく感覚があった。
この日、彼女は一つの決断を実行するつもりだった。そのために、バイロンとセオドアが間もなくこの部屋へやって来る。
カルザスとの空中散歩から、八日が経過していた。そのときを思い出すと、自然と顔が綻び、頬が火照る。彼が自分を大事にしてくれていることを改めて知り、胸の奥が温かく満たされるようだった。
そのカルザスは、三日前に治療を終え、アライアル号へ戻った。
「おらおら、完治した以上、こき使うから覚悟しとけ!」と笑って凄むジョシュアに、この部下は引きずられていった。グランブル貿易の三人の日常が、ようやく戻ってきたのだ。
いつでもカルザスに会える日々は、確かに終わった。寂しくないと言えば嘘になる。それでも、彼が本来立つべき場所へ帰ったことは、ターナに安堵をもたらした。
そしてそれは、彼女が導き出した結論を——後押しすることになる。
「セオドア、研究が進んでいるようね。宮廷で何か不足していることはあるかしら?」
「とんでもありません。大変満足しております。やはり、マイヤー家の書庫を拝見できるのは非常に大きい。どこから手を付けてよいかわからないくらい、素晴らしい環境です」
「じゃあ、健康で長生きしないとだめね。夢中になりすぎて寝袋で仮眠を取るのは、ほどほどにしたほうがいいわ」
「これは耳が痛い……。肝に銘じておきます。あと、サイカ・ノヴァクにも引き合わせていただき、ありがとうございました。非常に示唆に富んだ話を聞くことができました」
「彼女はオルティス博士のところに戻るけれど、もう大丈夫だと思う。この一か月で、彼女の心はかなり落ち着いたわ。ファビオも傍にいるしね」
「ただ、ガスパルが今のままだとしたら、いずれ庇護するなどの対応を要するかもしれません」
「あと、キース・ウィルソン氏のことなんだけど……」
「しばらく様子を見ましょう。もし彼がコンタクトをとるのであれば、私は拒むつもりはありません。機が熟すのを待ちたいと思います」
アッシュグレイの半袖チュニック、ベージュのチノパンにいつものサスペンダー姿。セオドアは充実した表情を浮かべていた。
次いでターナは、バイロンも労う。
「やっと怪我人の治療が全部終わったそうね。本当にご苦労様」
「医師の責務だ。当然だよ。ただ、麻酔学の論文がすっかり後回しになった。ぼちぼち再開したいところだ」
「しばらくは、バイロンも研究に力を入れて。私が脱走したとしても、追いかけてこなくていいから」
「何でそうなるんだ? 私の集中を願うのなら、お忍びをやめればいいじゃないか。論点がズレまくってるぞ」
「だって、充実した仕事のためには、充実した息抜きが必要よ。定期的に外に出ることが、私の活力につながるの!」
「わかった、わかった。脱走するなら、前もって言ってくれ」
「バイロンが不寛容なら、結果的に脱走になるだけよ。あなた次第ね」
「……? やっぱり、何かがおかしい……」
納得のいかない表情をバイロンは隠さない。パールブルーの半袖ワイシャツにライトグレイのスラックスは、いつもどおり端正な装いだ。
宮廷内の小ぶりな応接室では、紅茶が給仕された。茶葉の香りとシトラスのフレグランスが、緩やかに混ざり合う。
ターナは、グレイのロングワンピースにアイボリーのカーディガンを羽織っていた。ノースリーブのゆったりしたラインが、今はオフモードであることを示している。だが、これから口にする話題は真剣そのものだった。
「夜遅くにお呼び立てして、ごめんなさい。少し、重要な相談をしたくて」
「今さら、かしこまることもないだろう?」
バイロンはすっかりリラックスしていた。このときまでは……。
「私、決めたの。クリアターコイズを摘出する。バイロン、手術をお願いできる?」
宮廷医は何を言われているのか、すぐには理解できなかった。むしろ先に事の重大さを悟ったのは、セオドアだった。
「ターナ様。それは一体……?」
「以前話したとおり、将来の王室は、クリアターコイズへの依存をやめるべきだと思っているの。けれど、よく考えてみたら、私自身が我慢して石と付き合い続ける理由もないのよね」
バイロンも、その深刻さを徐々に体感する。
「『干渉』の判断は、確かに汎大陸の安寧を導く正解なのかもしれない。でも、そのために犠牲者が出ることを厭わない。はっきり言って、それは間違いだと私は思うの。どちらの利益も守ることこそ大事にすべきじゃないかしら。石と違って、人間は熟慮し、その課題を解決することができる」
セオドアとバイロンは、国王の喪失以来、彼女が辿ってきた出来事を思い返していた。それは、ターナがクリアターコイズに抗い続けた履歴でもあった。
「カルザスが仲裁に入ったときのことが、決定的だった。サイカを殺すためなら、カルザスを盾にしても構わないと、クリアターコイズは判断したの」とターナは苦々しい表情で続けた。「大切な人をあっさり犠牲にする石ころなんて、私の人生の邪魔にしかならないわ」
空気がぴんと張り詰めた。針で刺されるような静寂だった。
「セオドア。一つ教えてくれる?」とターナは問う。「アルクマッハ帝国の『ナジャ』のこと、知っているわよね?」
老学者は記憶の中から情報を引き出した。
「六百年以上前の話ですな。圧倒的な実力で周辺諸国を恐怖に陥れた、伝説の若き傭兵。ただ、実質的な活動期間は数か月だけで、すぐに引退して長い余生を送った」
「『同化者』だったけれど、傭兵を辞めてすぐに石を摘出した。そういう説が有力よね」
セオドアは悩ましげな表情で考え込む。
「ナジャのことは、どのくらい知っているの? 私なりにいろいろ調べたけれど、決定的な記述が見つからないのよね」
「私も、詳しくは存じ上げません。実在したことは間違いないものの、『同化』については推測の域を出ません」
「セオドアの解釈は?」
「傭兵時代の逸話が本当であれば、あまりに人間離れしています。『同化者』だったと考えるのが自然かと、私は見ています。逆に言えば、それを明確に否定する事実も見つかっておりません」
「なるほど」とターナは冷静さを保ったまま続けた。「私が注目しているのは、石を摘出しても、社会生活を送ることができたという点なの。その後ナジャは結婚して、四人の子どもと十六人の孫に囲まれ、九十歳を超えるまで穏やかに過ごしたとある。これが丸ごとでっち上げだとは思えないの」
「つまり」とバイロンが口を挟む。「『同化者』が石を摘出しても、大きな問題は生じないと」
「そこで、あなたの見解を聞きたいの。石は神経に取り囲まれているわよね。オスカーは『異形成』と言っていた。摘出したら、一般人と同じ状態に戻るだけじゃないかと思うんだけど」
「そう決めつけるのは危険だ。現状の知見で、何が起こるかを予想するのは不可能だよ」
「そうよね……。そのリスクは、負うしかないわね」
「ただ、近年の医学では『自己治癒力』という概念が注目されている。組織や器官が傷つくと、生物は元の状態を取り戻そうとする」とバイロンは、手持ちの知識を慎重に言語化する。「今回の場合、異物を取り除き、本来あるべき形態を回復すると考えれば、思いのほかスムーズに落ち着く可能性はある」
「それは面白い考え方ね」とターナは納得したように頷く。「技術的にはどうなの? あなたの専門である外科と麻酔学の観点から、見解を聞かせてもらえる?」
バイロンは大胆な提案に戸惑った。だが、できる限り冷静に応ずる。
「神経を傷つけないよう徹底すれば、技術的には不可能ではない。また、摘出後に縫合するだけであれば、比較的短時間の手術になりそうだ。麻酔のコントロールも、現状の設備で対応可能だろう」
「さすがね。少し安心したわ。個人的には、麻酔技術が乏しい時代に、ナジャがどうやって石を摘出したのか興味深いけどね」
「当時も、原始的な方法はあったはずだ。もちろん、今に比べれば、はるかに危険だったろうな」
三人は、その後も議論を続けた。医学的な観点、歴史の解釈、果ては政治に及ぼす影響についても話し合った。
人体に影響が及ばないという証拠はない。摘出にはリスクが残る。ターナはそれを十分に理解していた。ナジャの事例と人間の自己治癒力を手がかりにするしかない。それでも、彼女の決断を覆すだけの見解を、セオドアもバイロンも提示するには至らなかった。
そして、こうなってしまえば、ターナが梃子でも動かないことを、宮廷医は熟知していた。彼女は「相談」と言うが、実質的には「決定事項の確認」だ。
「いつ頃、手術をしたいと思っている?」
「目処は二週間後。手術を避けるべき決定的な事情があれば、考え直すけど」
次いで、このときだけ伏し目がちに言葉を紡いだ。
「セオドアには、申し訳ないと思っているの。『叡智の海』の経験はここで断たれるから、今後はあまり研究の役に立てないかもしれないもの」
ここまで議論を重ね、セオドアの顔つきからはすっかり迷いが消えていた。
「そんなことありません。十分にお話を伺えています。ターナ様は『同化』によって幾度となく苦しい思いをされた。これからのことはご自身が選択すべきです。私は、それを尊重するだけです」
「ありがとう。二人とも理解してくれて」
ターナは安堵の表情を浮かべた。
最後に、バイロンが尋ねる。
「このことは、アライアル号の連中にも伝えるのか?」
ターナは即答した。
「隠密にお願いするわ。手術が終わった後に、事情を説明しましょう」
「カルザスもか?」
ここで、ターナは初めて口ごもった。
「……カルザスが何て言うか、ちょっと予測できないの。もし彼が摘出を止めるようなら、決心が揺らぐかもしれない……」
バイロンは驚いた。彼女にとって、カルザスはそれだけ大きな存在となっていることを再認識する。
「だから、カルザスに伝えるのも、手術の後にしましょう」
わずかに残った何かを、敢えて振り切るかのような表情。そんな彼女の決断に、バイロンはいたたまれなくなった。




