第十一章 第六節【扉への伝言】
「モーリス様は、メスカ王国にいつまで滞在されるのだ?」
「当分、エルジオにはお戻りにならないという噂だ」
「ターナ王女の声明の中に、モーリス様の意向が示されている。ファレル家のホレス侯爵に皇帝位を譲ること。王国の『シュルツの四諸侯』を執政官として登用すること。当面は体制整備に注力すること」
「黒十字解放戦線への対応についても、メスカと足並みを揃えるとのことだ。大きな方向転換だな」
「待て。ホレス侯爵は八十歳近いではないか」
「おそらく、ミレニア様が即位されるまでの『つなぎ』ということだろう」
「メスカ王国は、それを容認したということか」
「だからこそ、四諸侯を捻じ込んだのだろう。カイト家に勝手はさせないということだ」
「それにしても……何があったというのだ?」
「詳しいことは伏せられている。我々が知る術もない」
「最近、モーリス様はかなり苛立っておられた。何か仕損じたのかもしれん」
「しかし、ミレニア様は大丈夫なのか? 即位できるところまで回復されればいいのだが」
「うむ。しばらくは先が見えぬ。困ったものだ……」
ジブ帝国首都エルジオ。カイト家の宮殿を貫く長い廊下の一端で、四人の側近がひそひそと声を交わしていた。バクスターの正体をジョシュアらが知ってから一週間後の午後。朝のうちにターナの声明が宮殿へ伝達された。その措置の理由は語られておらず、従者や側近はすっかり浮き足立っていた。
この日は朝からずっと小雨が降り続いていた。雨音がひっきりなしに宮殿内を騒めかせる。高い湿度が人々の肌にまとわりつく。
四人の噂話は、わずかに隙間を空けた扉の向こうに立つミレニアの耳にも届いていた。いたたまれなくなった彼女は、扉をそっと閉める。そして、自室の中央に置かれたソファに腰を下ろした。視線を本棚のほうへ向け、戸惑いに沈む。
父までも、手の届かぬ地に離れてしまった。彼が危うい秘密を抱えていることをミレニアは薄々感づいていたが、それが理由なのであれば、二度と宮殿には戻らないのだろう。怖い存在だったが、いざ会うことすら叶わないとなると、不安ばかりが押し寄せてくる。
しばらく猶予は与えられよう。だが、いずれ自分は『皇帝』の地位に立つよう求められる。
——そんな大それたこと、できるはずがない。ただ、波風を立てず、静かな毎日を送りたいだけなのに。
ミレニアの身体は震えていた。ただひたすら、途方に暮れていた。
四人の側近が去り、雨音だけが静かに飽和していた。
ほどなくして、二人の者がミレニアの部屋の扉の前に立つ。一人は執事だった。控えめに扉をノックする。
「ミレニア様。お父様の遣いの者がお越しです。いかがいたしましょうか」
隣の者が、その言葉に被せて口を開いた。
「開けなくて結構ですよ。扉越しに聞いていただければ十分。ミレニア・カイト殿に、モーリス・カイト皇帝閣下からの伝言を渡しに参った次第です」
その者は、薄いベージュ色の擦り切れたマントに全身を包み、つばの広いモスグリーンの帽子を目深に被っていた。ワインレッドの布で鼻から下を覆い、傍目からもその表情を窺うことはできない。背中にかかる黒髪だけが帽子の下から覗いている。底の厚い煉瓦色のロングブーツには泥がこびりついている。子どものように小柄な身体から発せられるその声は、女性のそれと思われる。
扉の向こうでは、沈黙が続いている。
執事は困惑気味に呟いた。
「あの……エス殿。おそらく、お出にならないと思います」
「承知しております」
吟遊詩人エスは執事を見上げ、折った紙幣をすっと渡した。
「ここまでで結構。こんなところを見られては、貴殿も困るでしょう。誘導していただき、感謝申し上げます」
執事は紙幣を懐にねじ込むと、慌てた様子で会釈し、足早に立ち去った。
マント姿は、自らをエスと呼称して、扉に向かって話し始める。
「吟遊詩人エスは、モーリス・カイト皇帝閣下より手紙を預かっております。ジブ帝国皇帝に万が一の事態が生じた場合、一人娘であるミレニア・カイト殿にこの手紙を渡すよう、言付かっております」と滑らかに言葉を継いだ。「そこには、ミレニア・カイト殿に授けるべき物についても記されております。青き聖なる石、クリアターコイズです。モーリス・カイト皇帝閣下の部屋に保管されているとのこと。その在りかも、手紙に記されております」
反応はない。
エスは分厚い封書を懐から取り出し、扉に添わせるようにして床へ置いた。
「ミレニア・カイト殿」と高い声で語りかける。「黒十字解放戦線は、世界を変えることができませんでした。エスは、極めて失望しております。もっとも、古くより続くものとは、想像以上に頑強で、倒しがたい。今も昔も、これは世の常です。そこでエスは、ミレニア・カイト殿に世界の変容を託します。美しき聖なる石が、正しき道に導いてくれるでしょう。期待していますよ」
エスは、ゆっくりとした足取りで扉を離れた。しばらくして振り返り、ミレニアの部屋へ視線を合わせる。すると、床に置かれていた封書が、扉の内側へ吸い込まれるように消えた。
それを見届けたエスは踵を返し、足音を立てずにその場を去った。不気味な静寂を埋める雨音は、次第に激しくなる。




