第十一章 第五節【一面の光斑】
日課となった「夜のお喋り」のため、ターナはカルザスの部屋を訪れた。テーブルの上に書き置きが残されていた。プランタポートに来てほしいと記されている。
小走りでポートへ向かうと、そこにはカルザスの二人乗りプランタが鎮座していた。コバルトブルーの機体が、照明を鈍く反射している。黒の長袖Tシャツにベージュのカーゴパンツという姿で、タービン周辺の確認作業をしていた。ターナの姿を認めると、表情がふっと綻ぶ。
「こんなところで、どうしたの?」
ターナはプランタに駆け寄ると、不思議そうに尋ねた。
「うん。久しぶりに外に出たくなってね。それにしても、夜なのに暑いね」
宮廷内ではずっと寝間着姿だったが、彼はこの格好が一番しっくりくると、ターナはかすかに安心する。
「でね。久しぶりに空中散歩でもしようかと思ってさ。せっかくだから、お姫様をお誘いしたわけ。いつもの三十分が少し伸びるけど、大丈夫?」
気取った言い回しを選んでおきながら、カルザスは照れくさそうだった。無理もない。ターナをこんなふうに誘い出すのは、初めてのことだ。
「いつも余裕で時間超過してるじゃない。だから、大丈夫よ」と彼女は相好を崩した。「でも、こんな夜中に飛ぶの?」
「散歩程度だよ。高度もそれほど上げないし」
カルザスは、電源レバーを「起動」側に倒す。BSカートリッジが発熱とともにオレンジ色の淡い光を発する。
「今日、ターナの包帯が取れたんだよね。だから、バイロンも許可を出してくれた」
サイカと戦った日から、ちょうど三週間が経っていた。まだ無理は禁物だが、生活上の不便からもようやく解放された。
「こんな格好でも大丈夫?」
七分丈のクロムグリーンのカットソーに、ランプブラックのワイドパンツは、オーバーサイズの部屋着代わりだ。クリーム色のパンプスを履いて外に出てきた。ベージュブラウンのミディアムストレートの髪は、ハーフアップにまとめられている。
「OK。ただ、上空は少し冷えるから、これを羽織って」
カルザスは自分のワークウェアをターナに着せた。機械油に混じって彼の匂いをほのかに感じ、鼓動が少しだけ速まる。
二人はシートに着座し、シートベルトと有線のヘッドセットを装着した。カルザスは、蒸気圧のゲージを見ながら、スロットルバルブとバイパスバルブを調整する。タービンの圧が上昇し始め、ローターが回転を始めた。
後ろ向きのターナは、これから何が始まるのかとワクワクした面持ちになる。
カルザスは、プランタを静かに離陸させた。前照灯が真っ直ぐに伸び、夜の視界を切り開く。高度がぐっと上昇する。地表はどんどん離れているはずだが、暗さのせいで、その様子はわかりにくい。
「夜のプランタって、私、初めて」
ターナがヘッドセット越しに呟く。視界の先には、指向性の低い後照灯が淡くぼんやりと光っている。
「俺もめったにないよ。それだけに、たまに夜に飛ぶと新鮮なんだ」
やがて高度が安定し、そのまま飛行は続いた。その間、二人は他愛もない会話を交わした。ただ、何といっても暗すぎる。好奇心を抱きつつも、ターナは無意識のうちにシートベルトを握りしめていた。
十五分ほど飛行したところで、カルザスはプランタの速度を落とした。揚力レバーをラチェットで固定し、操縦桿を左手に持ち替えた。
カルザスがヘッドセット越しに話しかける。
「ターナ、左手をこっちに出してくれる?」
「え?」
首を傾げながらも、斜め後ろへ左手を差し出した。
カルザスは、空いた右手で包み込むようにその手を握った。ターナは、どきりとする。
「もし嫌だったら言ってね。すぐに離すから」と彼は努めて動揺しないよう続ける。「後部座席は支えも少ないし、暗くて不安かなって。今なら俺も片手を空けられるから」
不思議なことに、少しだけ感じていた恐怖心は、手をつなぐだけですべて消し飛んだ。それどころか、カルザスの温かさや頼もしさを実感する。
「嫌じゃないよ。ありがとう」とターナは、少しだけ強く握り返した。「あ、手汗が出てきた。恥ずかしいかも……」
「それは俺も同じだよ。慣れないことしてるから」
二人は揃って頬を緩めた。そして、カルザスが続ける。
「今からライトを消すね。本当に真っ暗になるけど、大丈夫だから」
「え?」と驚くターナは、無意識に身構えた。
全ての光源を落とすとともに、主水槽のサイトグラスに蓋を被せ、BSカートリッジの発光も遮った。残ったのは一面の暗闇のみ。
カルザスは、さらに柔らかな口調で語りかける。
「じゃあ、まずは空を見てみて」
ターナがゆっくりと視線を上げると、無数の星がひしめき合い、その光を浴びせていた。普段は見えない星々まで、今はその姿を現している。
「……すごい。星って、こんなにたくさんあるの?」とターナは絶句した。「何だか、圧倒されるわ……」
「空が近いんだよね。星が落ちてくるみたいで、距離感がおかしくなる」
「でも、綺麗……」
ターナが感動している様子は、その言葉から、背中から、そして握った手から、カルザスにも伝わってきた。
しばらく星のシャワーを味わった後、さらに言葉を重ねる。
「実はもう一つあるんだ」
「そうなの?」
「次は下を見てくれる?」
ターナの驚きの声が、カルザスの耳元に響いた。
「ええっ? うわあ……」
眼下には、ネルフィの街明かりが広がっていた。高い位置から見下ろすため、町全体を一望できる。一戸一戸の光が、あたかも地上の星のように散らばっていた。
ターナは言葉を失い、眼前に広がる光景に目を奪われた。その一つ一つは、人の営みによって灯されている。空の星とは別の意味で、彼女の心を強く捉えて離さなかった。
「ネルフィは大きな町だから、こうやって改めて見ると壮大だよね」
カルザスは静かに話し始めた。
「ターナは国王代理として、この灯一つ一つを支えているんだよね。しかも、ネルフィは王国の一部に過ぎない。それって、本当に大変なことなのに、全部に正面から向き合っている」
ターナは、ヘッドセットから聞こえるカルザスの声に、暗闇の中で耳を傾けた。その声は、何物にも代えがたく、愛おしい。
「もし、そんなターナのために、何者でもない俺が少しでも役に立てたなら、ちょっとくらい誇りに思ってもいいのかな」
「当たり前じゃない!」と思わず声を張って応ずる。「あなたがいなかったら、私、何もできなかった。プランタの修理、サイカとの戦闘の仲裁……」
そこで言葉が途切れた。カルザスは静かに続く言葉を待つ。
「それだけじゃない。浮ついていた私を、仕事に戻してくれた。そうやって、いつも私に寄り添ってくれる」とターナの声が小さく震える。「『何者でもない』なんてことない。カルザスは、私をいつも守ってくれる大切な人よ」
わずかな沈黙を縫って、カルザスが言葉を継いだ。
「俺は、これからもターナを支えたい。この光を明るくするために頑張っているターナを、俺は尊敬しているから」
「嬉しい。どれほど心強いか……」
そして、しんみりしそうな空気を振り払うように軽口で続ける。
「それともカルザス、ジョシュアのところを辞めて、宮廷専属になる?」
「え? さすがにそれは……」
「冗談よ。あなたのアイデンティティを奪ったりなんかしないわ。ジョシュアから一生恨まれるのも嫌だしね」
二人は満面の笑顔を浮かべた。
しばらく飛行した後、カルザスはターナを促した。
「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、バイロンが心配する」
「もうちょっとだけいい? この綺麗な光を、しっかり目に焼き付けておきたいの」
ターナは心の中で続けた。
——こんなふうに、ずっと一緒に過ごせるといいな。
いつの間にか、つないだ手を互いに強く握っていた。ひとときも離れたくないかのように。




