第二章 第一節【答え合わせ】
「あら、久しぶりじゃない。ていうか、どうしたの? すごい顔してるわね。痴話喧嘩?」
「違うとわかってて言ってるよね」
この日、カルザスは、自身の二人乗りプランタを飛ばし、ミューネのグラフ飛行艇製造にやって来た。黒十字のマイル襲撃から、一週間後の昼下がりのことである。目が痛くなるような青空に、ところどころ雲が散らばっていた。
朝から工場を動き回り、社員に指示を出していたローラは、外のポートに着陸するコバルトブルーの機体に気づいた。ほどなくして、プランタを引くカルザスが工場に足を踏み入れたので、ローラは声をかけた。
「マイルで、いざこざに巻き込まれて……」と左頬の青痣を気にしながら応じる。
「もしかして、貿易商が黒十字に喧嘩を売ったって噂、あんたのことだったの?」
「まあ、そういうことかな……」
「呆れた。武装してる奴に噛み付くなんて。青タンで済んでよかったと思うしかないわね」
「船長にも、こってり油を絞られた。日々、船のトイレ掃除に勤しんでるよ」
「さしずめ、黒十字が暴れてるのを見過ごせなくて、口より先に手が出たってとこかしら? カルザスらしいけど、ほどほどにしときなさいよ」
到着して早々にローラに説教されたので、若い貿易商は話題を変えようとする。
「そんな話をしに来たんじゃない。BSカートリッジの調達だよ」
「それを先に言いなさいよ。あんたの武勇伝より、よっぽど大事」
「あと、ピットを借りるよ」
「ええ? うちの整備工に任せればいいのに」とローラは大げさに落胆する。「あんたが自前でやるんじゃ、こっちの儲けにならないのよね」
「いつものことじゃないの。場所代は払うからさ」
カルザスは、しばしばローラの工場を訪れ、自らの手でプランタを整備する。ここなら、大型の工具や機械を使うことができる。
最初は、整備工の作業を真似るところから始まった。次第に、自分好みに機体を調整する面白さにのめり込み、今ではおおよその整備を一人でこなせるようになっている。
ローラは、儲けにならないと文句を言うものの、飛行艇好きの同胞の希望を拒む気など、さらさらない。
今日はタービンと伝達系の調整が目的だと、カルザスはローラに伝えた。そして、ベテランの整備工を捕まえ、質問をぶつけながら作業を進める。オイルと金属粉の混ざり合った匂いが、彼を高揚させた。
一時間ほど経った頃、ダークアッシュの短髪を汗で光らせ、ひととおりの作業を終えた。琥珀色の瞳で愛機を満足げに見つめる。紺色の長袖Tシャツ、カーキ色のカーゴパンツ、ベージュのトレッキングブーツは、彼の定番スタイルだ。
グラフ飛行艇製造の工場は、少なくともヴァレリ三機を格納できる広さを誇る。五階建ての建物がすっぽり収まるほど高い天井に覆われ、箱型の作業台がワイヤーで吊るされている。さらに、製造や修理の真っ只中にあるプランタが、十台以上並んでいた。ミューネでは最大規模の工場だ。
カルザスは、最上階にある社長室の扉を開けた。工場全体を一望できるグラスウォールの傍らで、ローラが立ったまま書類に目を落としていた。天窓からの陽光が、オフィスに明るく広がる。
彼はピット利用料とBSカートリッジの代金、さらに使用済みカートリッジをデスクに置いた。ゲル中の黒い発熱体が不均一に凝集するとともに、不活性化した粉が底に沈んでいる。汎大陸では、このように劣化したカートリッジをリサイクルすることがルールとなっている。
ローラは、棚から新品を一本取り出した。タイトなチャコールグレーのスーツに身を包み、ヒールの乾いた音を響かせる。ローズの香水がほのかに漂う。
カルザスはカートリッジを受け取る。ガラス容器の表面は、滑らかでひんやりとした手触りだ。
「新製品が入ったんだけど、使ってみない?」
ローラはおもむろに営業を始めた。
「いや、いつものやつでいいんだけど」
「まあまあ、そう言わないで。航続距離が標準仕様の約二倍。一般的な利用なら、半年近くは持つわね」
「やたら高いんじゃないの?」
「価格は二割増しだけ。お得でしょ?」
「ふーん。珍しくまともじゃないの」
「ただ、ダース売りなのよね」
「そんなの個人に売って、どうすんの? どうせ消費期限は一年だろ。使い切れるわけないよ」
「カルザスなら、何とかなるかと思ったんだけどな。残念ねえ」
やれやれと肩をすくめたローラは、別の品を手に取った。
「じゃあ、これは?」
「またカートリッジ?」
「カートリッジ型のパラシュートよ」
「は?」
「ほら、デフォルトの脱出装備って、かなり重いじゃない。嫌がって搭載しない人が多いのよね。これは、予備カートリッジボックスにぴったり収まるから、邪魔にならないのよ」
ローラは、BSカートリッジと同じサイズの円筒二本をそれぞれ披露した。
「こっちがパラシュート本体。こっちには簡易ハーネスと薬剤が入ってる。まず、ここからハーネスを出して肩に掛ける。で、二本を合体させて、このボタンを押すの。パラシュートの生地が薬剤と接触して、強度を上げながら開く仕組み。膨らむと、ゴワゴワの布になるわ」
「へえー、面白そうだな。値段は?」
「これは試供品。だからタダ」
「ずいぶん、気前がいいな」
「ただし、モニターになってもらいたいのよ」
「モニター?」
「つまり、実際に飛び降りて感想を聞かせてほしいの」
「その後のプランタはどうすんだよ」
「えーと……。あっ、そうか! 落ちるわね」
「誰がそんなモニターするかよ!」
「カルザスって意外と神経質ね」
「神経質で結構だ!」
「まあまあ、モニターは冗談。本当にこれはタダであげる。メーカーが普及させたがってるから」
「いざというときに信頼できるのか……?」
「いざというときに手ぶらで落ちるより、マシでしょ?」
ローラは笑みをこぼし、応接ソファに腰を下ろす。
「それはそうと、クラッチの整備とは、ずいぶん細かい話ね。何か気になることでもあるの?」
「いや、実はさ……」とカルザスは向かい合わせに座る。「この前、プランタの不時着に出くわしたんだ。遠心クラッチが焼けたのを、応急処置してさ。そうしたら、自分のプランタの伝達系も、気になってきたんだ」
「出くわしたって、どういうこと?」
その問いに対して、彼はシャイナの丘での出来事をかいつまんで話した。
ローラは、素知らぬ顔でその話を聞く。形のいいふくらはぎが、カルザスの視界にちらりと入った。
オフィスは、整然と片付けられていた。デスクは磨き上げられ、机上には必要最小限の書類だけが置かれている。応接セット以外、余計なものは何もない。すべての小物は壁面収納に収められ、徹底的に無機質だ。ローラの性格と仕事ぶりを、これ以上なく象徴している。
「まあまあの選択ね」
応急処置に対するローラの評価は、あっさりとしたものだった。
「え、それだけ?」とカルザスは拍子抜けした。「部品の交換ができない以上、ああするしかなかったと思うけどな」
「クラッチの焼けって、どうしてわかったの?」
「独特の焦げた匂いがするじゃん」
「せん断ピンは?」
「生きてた。摩擦材が先にやられるケースもあるんだね」
「ふーん」
ローラは、さらに技術的な質問を、試すように投げかける。カルザスは自分なりに答えを披露した。
「じゃあ、フランジ同士を括りつける前に、ワイヤーを何本か撚り合わせた?」
「あ、いや。そこまでは……」
「惜しいね。こういうときは、ワイヤーを太くして強度を上げるのが常識よ。そこそこのせん断荷重には耐えられるわ」
「そうだね……。締めつけのバランスばかりに目が向いてた」
「狙いは的確だけど、仕事はちょっと雑ね。ローターが動いて、満足しちゃった?」
「それって、褒めてんの? 貶してんの?」
「両方よ」
そしてローラは、悪戯っぽく尋ねた。前のめりに顔を近づける。
「それより、そのプランタの持ち主って、どんな人だったの? 可愛い女の子だったりして?」
「いや、その……」とカルザスは言葉を濁した。
そのとき、若い整備工がオフィスの扉をノックした。
「社長。グランブル貿易のジョシュア・グランブルさんがお見えです」
「ますます珍しい客ね。カルザスを連れ戻しに来たのかしら?」とローラが首を傾げる。
「ここに来るって、船長には伝えてないんだけど」とカルザスも困惑気味だ。
扉が開き、ジョシュアがひょいと顔を出した。
「ちーす。景気はどうだ? って、カーリーが何でここにいんの?」
「だから、カーリーはやめてくださいって!」
ローラは口元に笑みを浮かべる。
「ジョシュアが、飛行艇の一台や二台買ってくれたら、景気はすぐにでもよくなるんだけど」
「つまり、永遠に不景気ってことだな。アライアル号のローンもまだがっつり残ってるんだよ」
軽口を叩くも、ジョシュアの目は笑っていなかった。
「それはさておき、ちょっと聞きたいことがあってな」
「楽しい話じゃなさそうね。変なことに巻き込まれるのは、お断りよ」
「最近、バクスターを見かけたか?」
「バクスター?」とローラはあからさまに嫌そうな顔をした。「私、実物を見たことすらないんですけど」
「じゃあ、バクスターの手下は? あの副社長……何て名前だっけ?」
「イーストンのこと?」
「そうそう。野郎の噂話を何か聞いてないか?」
「知らないわよ。もう長いこと見てないもの。あのずる賢い面構え」
「会わないとしても、きな臭い戯れ言の一つや二つ、耳に入ってないか?」
「何か勘違いしてない? 私はただのしがない飛行艇屋よ。日々の暮らしで精一杯」
「よく言うぜ。この界隈のややこしい動きは、あらかた把握してるだろうに」
ジョシュアは苦笑する。ローラの態度は織り込み済みのようだ。
「まあいい。ちょっとだけ、俺の話を聞いてくれ」
ジョシュアは、マイルでの黒十字解放戦線の話を始めた。襲撃の真っ只中、イーストンが動じることなく煙草をふかしていた様子に焦点を当てる。腹に据えかねた様子で、怒りをあらわにする。
「考えすぎじゃないの?」とローラは関心なさげに応じる。「腰を抜かして動けなかっただけとか?」
「いや、違う。嫌みな笑顔でふんぞり返ってた。黒十字の連中も、イーストンがまるで存在していないかのように振る舞ってた」とジョシュアの口調は熱を帯びていた。「馬に乗った盗賊が暴れてるんだ。普通なら、一目散に逃げるか、隠れるかするだろ? それがないってことは——裏でつながってるってことだ」
「それに何か問題でもあるの?」
ローラは淡々と返す。
「大ありだ!」とジョシュアは声を張った。「もし、バクスターと黒十字が裏でつながってるとすれば、噂はあながち嘘じゃないってことだ」
「武器の密輸の話ですよね……」
黙って聞いていたカルザスが、言葉を挟む。
「それだよ、それ! バクスターが黒十字に武器を売って、奴らの無法を煽っているとすれば、これは大問題だぞ。最近、国境の襲撃が多いのも、そのせいじゃないのか?」
「そんな危なっかしい話、軽々しく口に出さないで!」とローラは顔を背けてたしなめる。「私は知らないわ。汎大陸中の噂話を拾って歩く趣味はないもの」
「『知ってても言えない』の間違いだろ?」
ジョシュアの指摘に、ローラは何も答えなかった。冷や汗を滲ませるカルザスは、二人の顔を交互に見比べる。
「……まあいい。気が向いたら、耳寄りな情報を回してくれ」
ジョシュアはひらりと身を引くと、背を向けた。
「帰るぞ。お前のプランタに乗せてくれ」
「え? 今日はどうやって来たんですか?」とカルザスは慌てて立ち上がる。
「汽車だ。ミューネに用事があったついでに、ここに寄ったんだ。まあ、プランタがあるなら、帰りは空で帰ろう。よろしくな!」
「はいはい、わかりましたよ」
二人は、社長室の扉に向かった。
「ジョシュア!」とローラが堪らず呼び止める。「バクスターに深入りするのは、本当にやめたほうがいい! 連中に気取られたら、確実に目をつけられるわよ。奴は大陸中に網を張り巡らせてる。私は、余計な忠告はしない主義だけど、あんたがコールマンの二の舞になるのは見過ごせない!」
「バーカ。そんな下手は踏まねえよ。大人の調査だよ」
ジョシュアは振り返りもせず、軽く右手を挙げる。
「……あんたには、養ってる奴が二人もいるのよ!」とローラは二人の背に向けて、さらに投げかける。「ギルとカルザスに、あんたと同じ痛みを……絶対に味わわせちゃだめだからね!」




