第9話 森の向こうの声
朝の焚き火は、昨日よりずっと小さかった。
夜のあいだに風が少し強かったのか、拠点の周囲には細かな枝が散っている。
俺は目を覚ますと、まず火を確かめた。
完全には消えていない。
けれど、いつもより火種が弱い。
「……スズキ」
横から、眠そうな声がした。
マリはまだ半分寝ぼけた顔のまま、こちらを見ている。
「起きたか」
「……うん」
「火を戻すぞ」
乾いた葉と細い枝を重ね、赤い炭へ何度か息を吹き込む。
白い煙が立ち上がったあと、炭の奥から細い炎が戻ってきた。
朝の冷たい空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
この数日で、朝にやることは決まってきた。
火を戻す。
水を温める。
食べる。
川へ行く。
その単純な繰り返しが、ようやく身体に染みつき始めていた。
川へ向かう前に、俺は拠点の周囲を軽く見回った。
昨日感じた違和感は、まだ消えていない。
木の幹についた細い傷。
草や落ち葉が押し潰された地面。
どれも正体を断定できるほど明確ではない。
だが、何もいないと言い切れる材料もなかった。
「今日は罠を見たあと、昨日気になった方を少しだけ確かめる」
「……だれか、いるの?」
「まだ分からない」
マリの顔に、不安そうな色が浮かぶ。
それでも、何も言わずに俺の顔を見つめていた。
こういうとき、この子は余計なことを言わない。
怖くても、まず俺がどうするのかを確かめようとする。
「近づきすぎない。離れたところから様子を見るだけだ」
「……うん」
川辺へ着くと、俺は昨日と同じ浅瀬へ向かった。
筒形の罠は、石に押さえられたまま残っている。
持ち上げてみると、中には小魚が数匹入っていた。
数は多くないが、空振りではない。
「今日も少し獲れたな」
「……いる」
マリが小さく答える。
彼女はもう、魚が集まりやすい場所を少しだけ覚え始めているらしい。
浅い流れや、水面に走る小さな影を、以前より長く観察するようになっていた。
魚を回収し、罠をもう一度同じ場所へ沈める。
そのあと俺たちは、昨日傷を見つけた方向へ少しだけ進んだ。
だが、川から離れて間もなく、森の奥から何かの声が聞こえた。
鳥にしては低い。
獣の鳴き声にしては、どこか途切れ方がおかしい。
俺は足を止めた。
「スズキ」
「静かに」
声を落とすと、マリもすぐに口を閉じる。
俺は耳を澄ませた。
風が葉を揺らす音。
背後から届く川の流れ。
その間に、何かが枝を踏んだような乾いた音が混じった。
胸ポケットからスマホを取り出す。
「今の音、拾えたか?」
「短い破断音を記録しました。乾いた枝が折れた可能性があります」
「誰かが踏んだのか?」
「足による圧力、落下した枝、動物との接触など、複数の原因が考えられます。音だけでは判別できません」
「……人?」
マリが、かすれた声で聞いてくる。
「分からない。けど、こっちを見ている可能性もある」
「みてる?」
「ああ。だから、今日はここまでだ。帰るぞ」
俺たちは来た道を引き返した。
走るほどではない。
だが、のんびり歩いている場合でもなかった。
俺は何度も背後を振り返る。
木々の間に動くものは見えない。
それなのに、見えない場所から視線を向けられているような感覚だけが、背中へまとわりついていた。
拠点へ戻ると、俺はすぐに枝を足し、焚き火を少し大きくした。
火は、ただ安心するためのものではない。
獣を遠ざけ、暗い場所を照らし、こちらの居場所を守るための手段でもある。
今の俺たちにとって、絶やしたくない生活の中心だった。
「スズキ」
「なんだ」
「また、くる?」
マリは火を見たまま尋ねた。
その問いは、昨日よりも具体的だった。
ただ怯えているのではなく、これから起きることを予想しようとしている。
「来るかもしれない」
「……こわい」
「怖くてもいい」
俺は短く答えた。
「怖いと分かるのは、危ないものへ近づかないために必要だからな。怖がるだけじゃなくて、気をつける」
マリは、その言葉を口の中で確かめるように繰り返した。
「……きをつける」
「そうだ」
それから俺は、拠点の入口付近に落ちていた細めの倒木と太い枝を動かした。
完全な壁にはならない。
だが、森の側から岩陰をまっすぐ見通せないように、斜めに重ねて置く。
さらに乾いた枝を束ね、すぐ焚き火へ足せる場所へ並べた。
「なに、してるの」
「備えだ」
「そなえ」
「何も起きなければ、それでいい。何か起きたときに、少しでも困らないようにしておくんだ」
マリは並べた枝を見てから、少しだけ頷いた。
昼近くになって、遠くでまた音がした。
今度は、はっきりと枝が折れる音だった。
俺は息を止める。
マリも動かない。
音は一度だけで、そのあとには何も続かなかった。
俺はスマホを手に取る。
「方角は分かるか?」
「拠点から見て北東方向で記録されました。距離は推定できません」
「昨日、傷を見つけた方か」
「おおむね同じ方向です」
偶然の可能性はある。
だが、何度も同じ方角で音がするなら、無視するのも危険だった。
「……帰った?」
「分からん。まだいるかもしれない」
俺はそう答え、マリの肩へ軽く手を置いた。
「今日はもう外へ出ない。ここでできることだけやる」
「……うん」
マリは頷き、俺のそばへ近づいた。
以前なら、すぐにシャツの裾をつかんでいた距離だ。
今はそこまでしない。
それでも不安なときには、俺の手が届く場所まで戻ってくる。
俺たちは午後のあいだ、魚罠の手入れをした。
歪んだ部分へ残っていた蔓を巻きつけ、緩んだ編み目を締め直す。
折れた枝は外し、代わりに使えそうな細枝を差し込んだ。
マリは俺の手元を見ながら、ときどき手を伸ばす。
「ここ?」
「そう。そこを押さえててくれ」
「……こう?」
「ああ、うまい」
褒めると、マリは少しだけ目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
夕方になるころには、空気がさらに静かになっていた。
静かすぎて、かえって落ち着かない。
風は弱い。
鳥の声も少ない。
俺は焚き火のそばへ座り、森の奥を見つめた。
見えないものが、少しずつ近づいている気がする。
気のせいだと思いたい。
だが、今の俺には、そう断言できるだけの材料がなかった。
「スズキ」
「ん?」
「ここ、だいじ」
「そうだな」
「まもる」
マリは小さく、けれどはっきりと言った。
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
「そうか」
「……うん」
「なら、頼む」
マリは返事の代わりに、焚き火を見つめた。
自分の手が届く範囲にあるものを、守る対象として考え始めている。
それはまだ小さな気持ちだ。
けれど、以前よりずっと確かなものだった。
夜になる直前。
森の奥から、一度だけ長い音が聞こえた。
低く、掠れた声。
人が遠くから呼んだようにも、獣が何かを求めて鳴いたようにも聞こえる。
俺はスマホへ視線を落とした。
「今のは?」
「音声を記録しました。人間の発声と動物の鳴き声、その両方に類似する特徴があります」
「どっちなんだ」
「情報が不足しているため、断定できません」
「だよな……」
その答えを聞いても、背筋の冷たさは消えなかった。
マリもこちらを見ている。
何が起きたのかと、目で尋ねていた。
「……大丈夫だ」
そう言ってみせた。
正確には、大丈夫なのではない。
今すぐ襲われているわけではない、というだけだ。
だが、この森では、それで十分だった。
火を絶やさないように、枝を足す。
焚き火の明かりが、岩と倒木で作った拠点を丸く照らした。
その光の内側には、俺とマリがいる。
外側には、まだ名前のない気配がある。
けれど、名前を呼び合うようになった二人の生活は、もう簡単には壊されたくなかった。
そう信じるしかない夜が、静かに始まっていた。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
ChatGPT




