第89話 お父さん、登録する
「いらっしゃい。お泊まりかい?」
宿の主人に声をかけられ、俺は頷いた。
「部屋を見せてもらえますか。あと、値段と、食事が付くかを」
「先に聞く人は助かるよ」
主人は、受付に置いた木札を指で叩いた。
部屋代。
夕食と朝食。
湯を使う場合の追加料金。
俺は一つずつ確かめた。
マリは隣で、俺の手を握っている。
新しい青い袖が、受付の台へ少し触れた。
「この子と二人なら、寝台一つの部屋でいいかい?」
「部屋を見てからでも?」
「もちろん」
案内された部屋は、小さかった。
寝台。
机。
水差し。
荷物を置く場所。
窓の留め具を確かめ、扉の鍵を見せてもらう。
寝台の端へ手をつくと、少し軋んだ。
でも、傾かない。
俺には、それだけで十分ありがたかった。
「どうだ、マリ」
マリは寝台を見た。
俺を見る。
「ここ、ねる?」
「ああ。嫌じゃなければ」
「おとうさんも?」
「俺も」
マリが頷いた。
「ここ、いい」
俺は主人へ向き直る。
「お願いします」
最初の仕事代から、今夜の寝床と食事の分を払った。
懐は軽くなる。
その代わりに、鍵が一つ手に入った。
今夜、戻ってきていい部屋の鍵だった。
***
セナも同じ宿に、別の部屋を取った。
荷物を置いたあと、俺たちは通りへ戻る。
次は、冒険者の窓口だ。
その前で、俺は一度立ち止まった。
「……場違いじゃないかな」
出入りする人たちを見る。
剣。
弓。
革の胸当て。
俺は、チェック柄シャツ。
サヨの繕った裾。
膝は、今日も少し重い。
セナが俺の顔を見た。
「荷を数える仕事もあるって、聞いたでしょ」
「聞いたけどな」
「その人、武器持ってないよ」
指さされた男は、大きな籠を背負っていた。
中には、土のついた根のようなものが入っている。
確かに、剣はない。
「採集の人かな」
「たぶん。だから、聞けばいいんだよ」
マリが俺の手を引いた。
「おとうさん」
「何だ」
「はいる?」
俺は扉を見た。
いつまでも子どもに決めさせるわけにはいかない。
「入る」
息を吸う。
「話を聞くだけなら、まだ無料のはずだ」
セナが笑った。
「そこからなんだ」
「大事だろ」
***
中は、思っていたより忙しかった。
壁の掲示板。
長い机。
奥へ荷物を運ぶ人。
窓口で何かを説明している人。
酒を飲んで騒ぐ場所というより、仕事の受付と報告をする場所らしい。
俺は空いた窓口へ向かった。
「初めてなんですが」
受付の女性が顔を上げる。
「登録をご希望ですか?」
「はい。ただ、戦う仕事は考えていません。荷運びや、採集みたいな仕事を探したくて」
「承知しました。まず、お名前を」
「鈴木です」
女性は紙へ書きつけた。
聞き返されるかと思ったが、そのまま次へ進む。
「これまで、こちらで受けた仕事はありますか?」
「こちらの窓口を通して受けた仕事はありません。今日、村から街までの荷運びを手伝いました」
「どんな作業を?」
俺は少し考えた。
大したことはしていない、と言いかける。
でも、荷の男に言われたばかりだ。
やったことを、そのまま言えばいい。
「出発前と休憩のときに荷を数えて、縄を確かめました。途中で籠が動いたので止めてもらって、締め直すのを手伝いました。最後に、受け渡した数を合わせました」
受付の女性が頷く。
「雇い主のお名前は分かりますか?」
俺は固まった。
セナが、横で俺を見る。
マリも見上げる。
「……店の場所なら」
「では、分かる範囲で教えてください。必要なら、そちらへ確認できます」
怒られはしなかった。
それが余計に身に沁みた。
明日の返事をしに行ったら、まず名前を聞こう。
今度こそ。
***
登録の説明は、思ったより細かかった。
仕事を受ける場所。
報告の仕方。
報酬を受け取るまでの流れ。
途中で続けられなくなったとき、どうするか。
俺はメモを取った。
分からない言葉は、その場で聞いた。
受付の女性は、一つずつ説明してくれた。
「登録しただけで、すべての依頼を受けられるわけではありません。経験や装備の確認が必要なものもあります」
「むしろ、制限してもらった方が助かります」
「ご自分の判断で無理をしないことも大切です」
セナが隣で、小さく頷いた。
俺は見なかったことにした。
「探索の仕事は、どうすれば受けられますか」
「野外での採集や調査ですね。初めての方には、講習を案内しています」
受付の女性が、別の紙を出す。
街の外へ出る際の決まり。
目印の見方。
採ってよいものと、触ってはいけないもの。
戻る時間。
「最初は、街の近くで行います。討伐の講習ではありません」
「それは、ありがたいです」
「ただし、安全な場所という意味でもありません」
俺は頷いた。
森で、もう十分に分かっている。
木の実があるから食べられるわけじゃない。
道が見えるから歩けるとも限らない。
今度は、分かる人に教わりたい。
「講習を受けたいです」
「では、明朝の枠が――」
「あ」
俺は手を上げた。
受付の女性が止まる。
「明日の荷下ろしの手伝いを、今日中に返事する約束がありまして。先に、そちらへ相談してもいいですか」
「もちろんです。今、無理に決める必要はありません」
その言葉に、少しほっとした。
「講習は次の実施日もあります。お仕事と身体の具合を見て、決めてください」
「ちなみに、講習にも費用はかかりますか」
「基礎講習は登録者向けの案内に含まれています。追加費用が必要な講習は、別途お知らせします」
「それなら助かります」
俺は紙を見つめた。
仕事。
予定。
どちらも、続きがある。
今日を逃したらすべて終わり、という話ではない。
「分かりました」
俺は頷いた。
「まず、登録をお願いします」
***
手数料を払い、名前を書いた。
借りた筆記具は、少し使いにくかった。
肩へ力が入る。
紙を押さえ、ゆっくり書く。
鈴木。
それだけなのに、妙に緊張した。
受付の女性が確認し、小さな登録札を差し出す。
「こちらを、依頼を受けるときに提示してください。なくした場合は、早めに届け出てくださいね」
俺は両手で受け取った。
札を見る。
裏も見る。
落とさない場所を考える。
マリが、背伸びをした。
「おしごとの?」
「ああ。仕事を受けるための札だ」
「おとうさんの?」
「俺の」
マリは、嬉しそうに頷いた。
受付の女性が笑う。
「お父さん、登録札はお子さんの玩具にしないでくださいね」
「はい。それは、しっかり」
マリは伸ばしかけた手を、ぴたりと止めた。
「みるだけ」
「それなら大丈夫だ」
俺は、手の上で見せてやった。
特別な光は出ない。
能力も増えない。
急に強くなった感じもない。
でも、次に窓口へ来たときは、初めての説明からやり直さなくていい。
俺の仕事が、ここへ少しずつ残っていく。
そう思うと、札は見た目より重かった。
***
荷の男は、店の奥で空の籠を重ねていた。
俺を見ると、手を止める。
「宿は取れたか」
「はい。登録もできました」
「そうか」
「明日の件なんですが」
俺は講習の紙を見せた。
「探索の基礎講習を受けたいと思っています。ただ、先に仕事の返事をする約束だったので」
男は紙へ目を落とす。
「朝からか」
「はい。手伝いを引き受けるなら、講習は次にします」
少しだけ、腹に力を入れた。
仕事を選べるほど、余裕があるわけではない。
でも、受けると言ってから放り出すのは違う。
男は店の中へ声をかけた。
「明日の荷下ろし、人は足りるか?」
奥から返事があった。
「足りる。朝には二人来る」
男が、こちらを向く。
「なら、講習へ行ってこい」
「いいんですか」
「手伝うかどうかは、相談って話だっただろ。返事もしに来た。問題ない」
俺は肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「次に荷の仕事を受けるときは、今日みたいに頼むぞ」
「はい」
そこで、今度こそ聞いた。
「あの。お名前を、まだ聞いていなくて」
男が一瞬止まる。
それから、声を上げて笑った。
「そういえば、言ってなかったな」
俺も、少し笑った。
教えてもらった名前と、店の場所をメモに残す。
今日の雇い主は、もう「荷の男」ではなくなった。
***
窓口へ戻り、明朝の講習を申し込んだ。
膝のことも、先に話した。
途中で痛みが強くなったら、担当者へ伝える。
無理なら、実地の部分は見送る。
その条件で、受け付けてもらえた。
「講習は午前中で終わりますか」
「明日の基礎講習は午前中の予定です。ただし、天候や実習の進行によって変更する場合があります」
「分かりました」
残る問題は、マリだった。
「野外の実習へ、お子さんは同行できません」
受付の女性が言う。
俺は頷いた。
「分かりました。預かってもらえるか相談してから――」
「私、明日は昼まで用事がないよ」
セナが言った。
俺は振り返る。
「いいのか」
「宿の人にも場所を聞きたかったし、マリとゆっくり街を見られる。でも、買い物の約束は勝手にしないからね」
「助かる」
それから、マリへ向き直った。
「明日の朝、俺は勉強に行く。マリは、セナと宿で待ったり、街を歩いたりすることになる」
マリの指が、俺の服を掴んだ。
「いっしょ、だめ?」
「明日の外へ出る練習は、大人の仕事なんだ」
マリは黙る。
俺は、続けた。
「終わったら戻る。戻る場所は、あの宿」
借りた鍵を、服の上から触って見せる。
「帰ったら、何を見たか話そう」
マリはセナを見た。
セナが頷く。
「お昼までに、帰り道を覚えてみようか。宿の看板、どんな形だった?」
マリが少し考えた。
指で形を作る。
惜しい。
でも、それは帰りながら確かめればいい。
「おとうさんも、おぼえる?」
「ああ。俺も、明日は覚える仕事だ」
マリは、ようやく服から手を離した。
「じゃあ、あとで、おしえる」
「頼む」
***
宿へ戻るころには、通りの灯りが増えていた。
昼間とは違う匂いがする。
焼いた肉。
煮込んだ野菜。
その前で足を止めかけた俺を、セナが見た。
「夕食、宿で付いてるんでしょ」
「知ってる。匂いを確認しただけだ」
「便利な確認だね」
マリが俺を見上げる。
「ごはん?」
「ああ。今夜は、ちゃんと一人分ある」
「わけない?」
「分けない。俺の分は俺が食う」
マリが満足そうに頷いた。
宿の食堂で、温かい皿が出てきた。
俺たちは手を洗い、席についた。
マリは青い袖をまくる。
新しい服を汚さないように、何度も確かめている。
俺は鞄の中の包みを確認した。
古い茶色のセーターも、ちゃんとある。
どちらも、これから使う服だった。
食事のあと、村へ短く連絡を入れた。
無事に街へ着いたこと。
荷の仕事を終えたこと。
宿を取ったこと。
登録したこと。
サヨは、最後まで聞いてから言った。
『で、飯は食べたんだろうね』
「食べた」
『なら、今日はそれでいい。こっちも落ち着いてるよ』
白い部屋から来た少女はサヨの隣で、借りた布を畳んでいた。
こちらへ小さく手を振る。
俺も振り返した。
今夜は、長い説明をしなかった。
***
部屋へ戻ると、マリは寝台へ座った。
その前で、俺は明日の持ち物を確かめる。
水。
食べ物。
汚れてもいい服。
丈夫な靴。
あれば、手を守るもの。
受付でもらった紙を読みながら、メモへ印を付けていく。
スマホに文字が出た。
『登録、お疲れさまでした』
「ありがとう」
『明日の目標を設定しますか』
「する」
俺は少し考えた。
「知らないものを、勝手に採らない。分からなかったら聞く。無理をしない」
『記録しました』
寝台から、マリが声をかけた。
「おとうさん」
「何だ」
「おとさない」
今日の荷車を、覚えていたのだろう。
俺は笑って頷いた。
「そうだな。道具も、札も、落とさない」
そのとき、講習案内の裏に文字があるのに気づいた。
紙をひっくり返す。
『最初の実地課題では、指定された採集物を各自で探していただきます』
その下には、注意書き。
『よく似た植物があります。確認を受けるまで、口に入れないこと』
俺は、紙を少し遠ざけた。
描かれた二つの葉を見る。
似ている。
かなり似ている。
今の俺には、同じ葉を二回描いたようにしか見えない。
「……初日から、これか」
『識別点の整理を補助できます。ただし、実物の最終確認は講習担当者へ求めてください』
「分かってる。頼む」
マリが、寝台の端から覗き込んだ。
「おなじ?」
「そう見えるんだよな」
マリはしばらく絵を見た。
小さな指が、葉の根元を指す。
「こっち、ぎざぎざ」
俺は紙へ顔を近づけた。
ある。
下の方に、小さな切れ込み。
もう片方には、ない。
「……本当だ」
マリが、得意そうに笑った。
俺はメモへ書き足す。
葉は、先だけでなく根元まで見る。
明日、仕事として教わるはずの最初の一つを。
今夜は、娘に教えてもらった。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
ChatGPT




