第88話 服を一枚、呼び名をひとつ
「いらっしゃいませ。お子さんのお洋服ですか?」
店の中から、明るい声がした。
マリの手に、きゅっと力が入る。
俺は握り返した。
「まず、値段を聞いてもいいですか」
「もちろん。普段着をお探しですか?」
「はい。動きやすくて、洗えて、その……丈夫なやつを」
「丈夫なのは大事ですね」
店員の女性は、俺のシャツの裾を見た。
昨日、サヨが繕ってくれた場所だ。
俺は思わず、手で押さえた。
「これは、まだ着られるので」
「お買い替えを勧めたわけじゃありませんよ」
後ろでセナが笑った。
入店してすぐ、守りに入りすぎた。
***
店には、色も大きさも違う服が並んでいた。
壁に掛けられた上着。
棚に畳まれたシャツ。
籠に入った靴下。
新品だけでなく、手直しされた古着もあるらしい。
マリは、入口の近くから動かなかった。
視線だけが、あちこちへ向いている。
「見ていいぞ」
俺が言うと、マリは自分の手を見る。
店員が、小さな布を差し出した。
「先に、手を拭きましょうか。そうしたら触って大丈夫」
マリは俺を見上げた。
俺が頷くと、布を受け取る。
指を一本ずつ拭いた。
それから、いちばん近くの袖へ触れる。
「やわらかい」
「それは、少し薄手ですね。今の季節なら、中に着るのにちょうどいいですよ」
店員は、マリの茶色いセーターへ目を向けた。
「そのセーターも着るなら、重ねられるものがいいかしら」
「まだ、きれる」
マリが、裾を押さえた。
店員は、すぐに頷いた。
「ええ。捨てなくていいのよ。着るものが増えたら、洗う日に困らなくなるでしょう?」
マリの手が、少し緩む。
俺も、助かった気がした。
新しい服を買うことが、今までの服を取り上げる話にはなってほしくなかった。
***
先に、値段を聞いた。
俺は硬貨の入った袋を、懐の上から押さえる。
今日の仕事代。
宿代。
飯代。
明日の仕事を受けるなら、その間に必要なもの。
それに、登録にいくらかかるかも分からない。
セナへ、小声で聞いた。
「宿の値段、だいたいどれくらい残せばいい?」
「安いところなら、このくらい。でも、食事が別のところもあるから、少し多めに」
教えてもらった額を、スマホのメモへ入れる。
画面に文字が出た。
『宿泊費、食費、予備費を除いた購入上限を表示しますか』
「頼む。登録の分も、多めに残したい」
『未確認の費用として、予備費を確保します』
画面の数字を見る。
店員に教えてもらった値段と、もう一度比べる。
豪華なものは買えない。
でも、一枚なら選べる。
俺は息を吐いた。
「この範囲で、お願いできますか」
店員は金額を聞いて、すぐに頷いた。
「では、こちらを。飾りは少ないですけど、縫い目はしっかりしています」
出してくれたのは、くすんだ青色の長袖の服だった。
膝の少し上まで丈があり、裾の左右には小さな切れ込みが入っている。
袖口は折り返せる。
胸元には、結ぶための紐がついていた。
チュニックのような形で、これ一枚でも着られそうだ。
俺は布の端へ触れた。
柔らかいが、頼りなくはない。
「こういうので、いいんだ」
「こういうのが、一番よく着ますからね」
店員が笑った。
「隣の緑も、同じ形ですよ」
マリは青と緑を見比べた。
俺は口を出しかけて、やめる。
汚れが目立たないのはどっちか。
長く着られるのはどっちか。
そういうことを言う前に、本人へ聞こう。
「マリは、どっちが好きだ?」
マリの指が、青い方へ伸びた。
途中で止まる。
「こっち、たかい?」
「同じ値段だって」
店員が頷く。
「ええ。どちらでも」
マリは、今度は迷わず青い袖を掴んだ。
「これ」
「じゃあ、着てみようか」
***
店の奥には、布で仕切った場所があった。
セナがマリと一緒に入ってくれる。
俺は外で待った。
何となく落ち着かず、棚の靴下を見る。
値段を聞く。
そっと戻す。
今度はベルトを見る。
値段を聞く前に戻す。
店員が苦笑した。
「今日は、お子さんの分だけで大丈夫ですよ」
「……顔に出てました?」
「ええ」
どうして、行く先々で顔を読まれるのか。
しばらくして、奥からセナの声がした。
「できたよ」
布が開く。
マリが出てきた。
青い服。
折り返した袖。
少し長い裾。
白銀の髪が、肩のところで揺れている。
マリは服を掴み、俺を見た。
「へん?」
俺は首を横に振った。
「似合ってる」
その返事が早すぎたのか、マリはもう一度自分の服を見る。
少しだけ、口元が緩んだ。
店員が横へしゃがむ。
「腕を上げてみて」
マリが両手を上げる。
「今度は、しゃがめる?」
膝を曲げる。
裾が床につく前に、店員が長さを確かめた。
「ここは少し上げた方がよさそうですね。袖も、折ったところが落ちないように留めましょう」
「手直しの分は、いくらですか」
俺が聞くと、店員は顔を上げた。
「このくらいなら、さっきのお値段に含みますよ」
「助かります」
思ったより、心からの声が出た。
店員はマリの肩のあたりを軽く整える。
「お父さん、少し大きめを選んで正解ですね。この子、これから育ちますから」
俺の口が、半分だけ開いた。
お父さん。
訂正するなら、今だった。
いや、父親というわけではない。
そう言いかけて、マリが俺を見ていることに気づいた。
何かを期待しているのか、それとも意味が分からないのか。
俺には、まだ分からなかった。
結局、訂正する言葉は出てこなかった。
店員は気づかず、裾へ目印を付けている。
「動きやすくしておきますね。少しお待ちください」
「……お願いします」
俺は、それだけ答えた。
***
手直しを待つ間、マリは元のセーターへ着替えた。
青い服は、店員の膝の上にある。
針が布をすくう。
糸が引かれる。
マリは、その手元をじっと見ていた。
サヨが俺のシャツを直したときと、同じ顔だった。
俺は、店の隅で硬貨を数えた。
必要な分を出す。
残す分をしまう。
もう一度、数える。
セナが隣へ来た。
「大丈夫?」
「ああ。泊まって、食って、窓口で話を聞く分は残る」
「よかった」
「俺の服は、もう少し働いてからだな」
セナは繕われた裾を見る。
「それ、まだ着られるんでしょ?」
「そうなんだよ。本人が一番分かってる」
二人で、小さく笑った。
店員が服を持ち上げる。
「できました」
マリの顔が上がった。
***
受け取る前に、もう一度着せてもらった。
袖は手首の少し上。
裾は歩いても邪魔にならない長さ。
マリは、その場で一歩動く。
もう一歩。
自分の袖を振って、俺を見る。
「うごける」
「ああ。よかった」
店員が、古いセーターを畳んでくれた。
「こちらは包んでおきますね。今日は、新しい方を着て帰りますか?」
俺はマリへ聞いた。
「どうする?」
「きてる」
「分かりました」
代金を払う。
掌から、硬貨が離れていく。
少し心細い。
でも、惜しいとは思わなかった。
荷を数えた。
縄を締め直した。
坂で止めてもらった。
最後の籠まで、落とさず届けた。
その仕事代が、今はマリの着ている服になっている。
「ありがとうございました」
店員から包みを受け取る。
マリも、小さく頭を下げた。
「ありがと」
「よく似合っていますよ。またいらしてくださいね」
俺たちは店を出た。
***
外の音が、一度に戻ってきた。
車輪。
人の声。
焼いた食べ物の匂い。
マリは店先で、自分の腕を伸ばした。
青い袖が、日の光に当たる。
何度も見ている。
「気に入ったか」
「うん」
「よかった」
俺は包みを持ち直した。
古いセーターも、ちゃんと入っている。
勝手に置いてこなかったと分かるように、マリへ見せる。
マリは頷いて、それから俺のシャツを見た。
「スズキの、つぎ?」
「そうだな。まず、もう少し稼いでから」
セナが、通りの先を指さす。
「宿は、こっち。混む前に行こう」
「分かった」
俺は歩き出そうとした。
そのとき。
マリが、袖を引いた。
「……スズキ」
「何だ」
マリは、俺の顔を見た。
服の裾へ視線を落とす。
口を開く。
閉じる。
俺は急かさず待った。
セナも、少し先で足を止めていた。
「さっき」
「ああ」
「おとうさん、って」
俺の指が、包みの布を握った。
「店の人が、そう言ったな」
マリが頷く。
通りを、荷車が一台通っていく。
音が遠ざかるまで、二人とも黙っていた。
「……よんで、いい?」
胸の奥で、何かが詰まった。
いいのか。
俺みたいなおっさんで。
稼いだ金を数えて、一枚の服を買うのにも少し緊張して。
明日の仕事だって、まだ返事をしていない。
ちゃんとした大人かと聞かれたら、自信はない。
でも。
そう考えている間に、マリの手が少し下がった。
俺は、慌ててその手を取った。
「ああ」
声が、少し掠れた。
もう一度、言い直す。
「マリが、そう呼びたいなら」
マリは俺の手を握った。
青い袖の先から、小さな指が出ている。
しばらくして。
聞き逃しそうなくらい、小さな声がした。
「……おとうさん」
俺は、すぐに返事をした。
「うん」
それしか出なかった。
でも、マリは笑った。
新しい服を見たときよりも、ずっと大きく。
俺は空いている方の手で、鼻の下をこすった。
セナは、先を向いていた。
何も言わないでいてくれるのが、ありがたかった。
***
宿へ向かう道で、マリは二度、俺を呼んだ。
一度目は、道端の看板を指さすため。
二度目は、特に用事がなかった。
「おとうさん」
「何だ」
「……うん」
「用事、ないのか」
マリが頷く。
俺は少し笑った。
「呼んだだけでも、いいよ」
また、手に力が入る。
俺はその歩幅に合わせた。
宿を確かめる。
登録の窓口へ行く。
明日の仕事の返事をする。
やることは、まだある。
でも、急に全部できる人間になったわけではない。
一つずつだ。
セナが足を止めた。
「ここだよ」
宿の看板。
その向こうの通りには、人の出入りが多い建物があった。
「あっちが、冒険者の窓口」
俺は建物を見た。
武器を持った人。
荷袋を背負った人。
泥のついた靴で、報告らしいものをしている人。
中から、受付の声が聞こえた。
「新規登録と探索講習の案内は、受付で確認してください!」
俺は、マリの手を握り直した。
今日、服を一枚買えた。
明日も食べて、その先も暮らしていくには、仕事を続けなければならない。
「宿のあと、話を聞いてみよう」
マリが俺を見上げる。
「おしごと?」
「ああ。今度は、探す方の仕事だ」
スマホが、ポケットの中で一度震えた。
今は見ずに、宿の扉へ手をかける。
「まずは、今夜の寝床からだな」
マリが頷いた。
「うん。おとうさん」
その呼び方には、まだ慣れない。
だから、今度もちゃんと返事をした。
「ああ。一緒に入ろう」
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
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