第87話 初仕事は、落とさないこと
仕事の朝は、目覚ましより先に目が覚めた。
寝坊したかと思って、スマホを見る。
まだ暗い。
早すぎた。
もう一度寝ればいい。
そう思った瞬間、寝過ごす自分の姿が浮かんだ。
「……起きるか」
『出発予定時刻まで、余裕があります』
画面に文字が出た。
「知ってる。でも、寝たら負ける気がする」
『睡眠を勝敗で判断することは推奨しません』
「朝から正論だな」
俺は、畳んでおいたチェック柄シャツを手に取った。
裾には、昨日サヨが繕ってくれた跡がある。
引っ張る。
大丈夫。
その縫い目を確かめてから、袖を通した。
***
昨夜の相談で、街へ向かうのは俺とマリ、それからセナに決まった。
セナには、自分の用事と、街までの道案内がある。
マリのことも、俺が仕事から離れられない間は見てくれる。
ただし、任せきりにはしない。
休憩では俺が戻る。
疲れたときは無理に歩かせない。
荷台に空きがなければ、勝手に乗せない。
白い部屋から来た少女は、今回は村に残ることを選んだ。
「ここ、まだ覚えてない」
そう言って、借りた部屋の入口を見た。
「先に、ここを覚えたい」
サヨが頷いた。
「私も残るよ。寝床と食事の相談もあるからね」
少女は、少しほっとした顔をした。
ユラとゴウダも村に残る。
仮面の男の話を聞くことや、端末の保全には、村の人たちとの相談が必要だった。
俺が街へ行くからといって、全部を放り出すわけじゃない。
連絡する時間と、急ぎのときに呼ぶ方法だけ決めた。
それ以上は、手を出しすぎない。
俺がいなければ何も進まない、なんてことはないのだ。
むしろ。
「向こうへ着いたら、ちゃんと寝な」
サヨにそう言われた俺の方が、信用されていなかった。
***
荷車のところへ行くと、昨日の男がすでに縄を持って立っていた。
「早いな」
「寝坊が怖くて」
「寝不足じゃないだろうな」
「そこは大丈夫です」
たぶん、と付けそうになって飲み込んだ。
男は俺の足元を見る。
「膝は」
「昨日よりましです」
「痛くなったら言え。歩けなくなってから運ばれる方が迷惑だ」
「はい」
厳しいが、分かりやすい。
仕事の説明も、昨日の続きからだった。
出発前の数の確認。
縄の緩み。
休憩ごとの荷台の確認。
荷下ろしのときは、勝手に渡さず、受け取り手と数を合わせる。
「道中で一番やるなってことは?」
男が聞いた。
「魔物に向かっていくことです」
「それもだが」
荷台を指さす。
「落ちた荷を、動いてる車の下へ拾いに行くな」
俺は車輪を見た。
大きい。
踏まれたら、痛いでは済まない。
「止めてから拾います」
「よし」
男が、荷札を渡してきた。
「まずは昨日と同じだ。数えろ」
俺は、一息ついた。
数を数えるだけ。
そう思って油断すると、二度数える。
見えていない奥を飛ばす。
だから、昨日決めた順番でやる。
手前から。
種類ごとに。
確認した束へ、目印の紐。
木札と照合する。
最後に、もう一度だけ見直した。
「合っています」
男は俺の置いた目印を見て、頷いた。
「じゃあ、次は縄だ」
俺は結び目へ手を伸ばした。
引く。
動かない。
これでいいかと思ったら、横から男の指が入った。
縄が、すっと浮く。
「あ」
「結び目が固いのと、荷が締まってるのは別だ」
俺は、もう一度荷台を見た。
縄の下に、籠の縁がある。
その隣は、柔らかい袋。
袋が沈めば、縄が緩む。
「なるほど……」
「分かったなら、やり直してみろ」
俺は頷いた。
出発前から、知らないことが出てくる。
でも、今なら聞ける。
落としてからじゃなくて、よかった。
***
荷の確認が終わるころ、セナとマリが来た。
マリは茶色いセーターを着て、小さな包みを抱えている。
水と、道中の食べ物。
サヨが持たせてくれた分だ。
「スズキ」
「おはよう。眠れたか」
「うん」
俺の顔をじっと見る。
「おしごと?」
「今、してる」
マリは荷台を見た。
昨日より少しだけ、俺を見る目が真剣だった。
男が荷の間を確かめる。
「後ろに少し空きがある。子どもは、ここへ座れる」
荷物に背を預けず、車の縁から手足を出さない。
乗り降りは、必ず止まってから。
俺とセナで、その約束をマリに伝えた。
マリは頷く。
「とまってから」
「そう」
「スズキも」
「俺も?」
「ひろうの、とまってから」
聞いていたらしい。
男が、横で笑った。
「よく覚えてるじゃないか」
「俺より先に信用を得てるな……」
マリを荷台へ乗せる。
セナが横について、座る場所を確かめた。
俺は、もう一度縄を見る。
さっき直したところ。
今度は、荷ごと動かない。
「よし。行くぞ」
男の声で、荷車が動き始めた。
車輪が、土を踏む。
俺も歩き出した。
初仕事の最初の一歩は、思ったより普通だった。
***
村の外へ出ると、風が少し冷たかった。
前には荷車。
横には道。
後ろでは、セナがマリへ畑の話をしている。
俺は荷の揺れを見ながら歩いた。
しばらくして、ポケットの中でスマホが震える。
『移動を確認しました。記録を開始しますか』
俺は荷車を見た。
今は、目を離したくない。
次の休憩でスマホを取り出し、短く入力した。
「開始。荷の数と確認した時刻を残したい」
『承知しました』
世界の仕組みを調べるためでもない。
誰かの識別を照合するためでもない。
荷物を、ちゃんと届けるための記録。
俺は入力した数字を、木札でも確かめた。
スマホに入れたから正しい、とは限らない。
間違えるのは、だいたい入力する俺だ。
セナが覗き込んだ。
「便利だね」
「覚えておくのは得意らしい」
「鈴木は?」
「忘れる方が得意だ」
「そこは頑張りなよ」
「だから記録してるんだろ」
休憩を終えて荷車が動き出すと、マリが荷台から身を乗り出しかけた。
セナが、そっと肩を戻した。
「見るのは休憩のときね」
「うん」
俺も荷車から少し距離を取った。
子どもだけに約束させて、自分が危ない場所を歩いていては格好がつかない。
***
最初の坂で、異変に気づいた。
から、と音がした。
石を踏んだ音かと思った。
だが、もう一度鳴る。
荷台の奥で、籠が少しずつ横へ動いていた。
朝、確認した場所とは別のところだ。
道の傾きで、荷の重さが片側へ寄っている。
俺は、思わず手を伸ばしかけた。
動いている車輪が目に入る。
手を引く。
「止めてください!」
前へ声を張った。
「荷が動いてます!」
荷車が止まった。
マリが、約束どおり座ったまま俺を見る。
男が後ろへ回ってくる。
籠を確認する。
「……ずれたな」
「すみません。朝、見落としました」
「俺も見た。全部あんたの見落としにするな」
男は縄を解いた。
「坂へ入って初めて動く荷もある。だから途中でも見るんだ」
俺は籠を押さえた。
男が位置を直す。
縄を通し直す。
今度は、籠の下へ薄い板を挟んだ。
「止めるのが遅けりゃ、下まで転がってた」
男が坂の下を見る。
俺も見た。
遠い。
拾いに行くことを考えただけで、膝が痛くなった。
「早めに言ってくれて助かった」
俺は、少しだけ顔を上げた。
怒られると思っていた。
仕事を止めたのだから。
だが、止めるのも仕事だった。
「……はい」
マリが、小さな声で言った。
「おとさなかった」
俺は荷台へ目を向ける。
「ああ」
大事件ではない。
誰も消えない。
世界も壊れない。
籠が、一つ落ちなかった。
今日は、それで十分だった。
***
昼の休憩で、俺は道端へ座った。
膝を伸ばす。
足首を回す。
朝より少し重いが、歩ける。
セナが水を渡してくれた。
「大丈夫?」
「今のところは」
「今のところ、が大事だよ」
「痛くなったら、ちゃんと言う」
マリが俺の前へ来た。
包みから、パンを一つ取り出す。
「スズキの」
「ありがとう」
受け取ると、マリは手を離さなかった。
「たべる?」
「食べるよ」
「マリに、わけない?」
俺はセナを見た。
セナは、知らないという顔で笑っている。
サヨから何か聞いてきたのだろうか。
「……今日は、これは俺の分だな」
マリが満足そうに頷いた。
俺はパンをかじる。
固い。
水を飲む。
それでも、うまい。
仕事の途中に食べる飯は、朝よりもうまく感じた。
荷の男が、少し離れたところへ座る。
「膝はどうだ」
「休めば、まだ歩けます」
「無理なら言えよ。街まで着けば、荷下ろしは人手がある」
俺は頷いた。
男はパンを割りながら、続けた。
「着いたら、登録に行くんだったな」
「はい。受けられる仕事を聞きたいと思ってます」
「だったら、今日やったことを、そのまま言えばいい」
「荷を数えて、縄を見て、止めてもらったくらいですけど」
「それができないやつもいる」
男は、何でもないことのように言った。
「初めてだって見栄を張らずに言えるやつは、教えやすい」
俺は返事を探した。
うまい言葉は出なかった。
結局。
「ありがとうございます」
それだけ言った。
***
午後になると、足より先に口数が減った。
朝は元気だったマリも、荷台で少し眠った。
セナが隣で支えてくれている。
俺は荷物を確認し、道を見て歩く。
難しいことを考える余裕はなかった。
でも、不思議と嫌ではない。
次の休憩まで歩く。
止まったら数える。
縄を見る。
水を飲む。
一つ終えたら、次をする。
やがて、道の先に大きな影が見えた。
木ではない。
建物。
その向こうに、さらに屋根が重なっている。
「見えてきたよ」
セナが言った。
俺は顔を上げた。
人が歩いている。
荷車が、別の道から合流してくる。
村より、ずっと多い。
声がする。
呼び売りの声。
車輪の音。
鍛冶場らしい、金属を打つ音。
マリが目を覚ました。
「まち?」
「ああ」
俺は答えた。
「もうすぐ着くぞ」
まだ門の手前だ。
仕事も、終わっていない。
それでも、胸の奥が少し弾んだ。
荷の男が振り返る。
「ここから混む。荷台の後ろを見ててくれ」
「はい」
俺は歩く位置を確かめた。
マリの顔から目を離し、荷の番へ戻る。
最後まで運んで、受け渡す。
今日の仕事は、そこまでだ。
***
街の中へ入ってからの方が、緊張した。
人と荷車の間を抜ける。
急に道を横切る子ども。
大きな声で挨拶を交わす商人。
焼いた何かの匂い。
マリが目を輝かせる横で、俺は荷ばかり見ていた。
店先で荷車が止まる。
荷を下ろす。
渡した数と、残った数を合わせる。
最後の籠を渡したところで、男が木札を裏返した。
「よし。全部だ」
俺は空になった荷台を見た。
落とさなかった。
壊さなかった。
数も合っている。
息が抜けた。
男が、小さな布袋から硬貨を出した。
約束した枚数。
俺の掌へ、一枚ずつ置く。
「今日の分だ」
俺は受け取った硬貨を見た。
手に、重さがある。
小さい。
でも、確かに重い。
「ありがとうございました」
「明日の追加の手伝いは、やるなら朝に来い。無理なら構わん」
「宿と登録の場所を確かめてから、返事してもいいですか」
「いいぞ。今日のうちにな」
俺は頷いた。
硬貨を、もう一度数える。
合っている。
それから、落とさないようにしまった。
今、いちばん落としてはいけない荷物になった。
***
マリが近づいてきた。
「おわった?」
「終わった」
「おかね?」
「もらえた」
マリは俺の顔を見た。
何か買ってほしいと言う前に、笑った。
「スズキ、できた」
俺は、少しだけ困った。
荷を運んだだけだ。
数を数えて、縄を見て、歩いただけ。
それなのに。
「……ああ」
声が、妙に出しにくかった。
「できたな」
セナが、街の奥を指さした。
「先に宿を確かめよう。それから登録。服の店も、途中にあるよ」
俺は懐の硬貨を押さえる。
宿代。
飯代。
仕事を続けるために必要なもの。
全部を、勢いで使うわけにはいかない。
でも、約束もある。
俺はマリの茶色いセーターへ目を落とした。
ほつれた裾を、マリが無意識に押さえる。
「……見るだけ、見ていくか」
マリが顔を上げた。
「ふく?」
「ああ。値段を聞くところからだ」
俺は手を差し出した。
マリが、その手を握る。
街の通りを、ゆっくり歩き出した。
少し先に、色の違う服が何枚も吊られた店があった。
扉が開く。
中から、明るい声がした。
「いらっしゃいませ。お子さんのお洋服ですか?」
マリの手に、きゅっと力が入った。
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