第79話 原本とは、まだ呼ばない
『保持情報:身体情報・原本候補』
ガラケーの小さな画面に、その文字が浮かんでいた。
俺は、自分の手を見る。
擦りむいた手のひら。
影を引っ張り出したときに痛めた指。
腹には、少女が頭から飛び込んできたときの鈍い痛みが、まだ残っている。
「……原本?」
青い亀裂の向こうで、機械音がした。
ぴっ。
ぴっ。
一定の間隔。
その合間に、人の声が聞こえる。
「鈴木さん。聞こえますか」
俺は、亀裂へ顔を近づけた。
「おい。呼ばれてるぞ」
『聞こえてる』
五番目の鈴木が答える。
『さっきから、ずっと』
「返事しろよ」
『できない』
「何で」
『口が動かない』
隣にいた霧の鈴木が、しゃがみ込んだ。
『身体は?』
『動かない』
「目は開くのか」
『開かない』
「じゃあ、どうやって俺たちと話してる」
『知らん』
「お前もそれかよ!」
『俺だぞ』
「……そうだったな」
少しだけ笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
亀裂の奥に見える手は、青い縁を掴んだままだ。
その指は、確かに動いている。
「今、見えてる手は?」
『分からん。動かしてるつもりはある。でも、向こうの身体は動かない』
仮面の男が首元の端末を見る。
「経路に現れている姿と、日本側にある身体が、同じ状態とは限りません」
「霧の鈴木みたいなものか?」
「似ている可能性はあります。ただ、まだ照合できません」
分からないことが、また増えた。
俺はガラケーの表示を指で叩く。
「じゃあ、これも確定じゃないんだな」
「はい」
男が頷く。
「原本候補です。原本と判定されたわけではありません」
「候補って、誰が決めた」
「照合処理です」
「そいつ、俺の腹の痛みも調べたのか?」
「……いえ」
「じゃあ、俺の身体を勝手に二番手にするな」
霧の鈴木が吹き出した。
『原本かどうか、腹で決めるのか』
「今いちばん確かな情報だろ!」
俺の隣で、救い出した少女が俯いた。
「ごめんなさい」
「違う違う! お前のせいって話じゃない!」
慌てて手を振る。
少女は俺の腹を見て、それから自分の頭を見下ろそうとした。
見えるわけがない。
その仕草に、霧の鈴木がまた笑う。
少しだけ。
地下の空気が緩んだ。
ごとん。
青い亀裂が、ひと回り狭くなった。
「経路が閉じます」
仮面の男が言った。
俺は身を乗り出す。
「待て。預かった役目はどうなる!」
五番目は、影から領域保持の役割を引き受けている。
影はこっちへ出た。
白い部屋は崩れた。
それなのに、助けてくれたこいつだけが戻れない。
『部屋を支える処理は、もう終わった』
亀裂の声が答えた。
『ただ、終わったことを確認する処理が残ってるらしい』
「誰が確認するんだ」
『知らん。だから調べてくれ』
「お前も調べろよ」
『動かない身体で、やれる範囲ならな』
俺は黙った。
五番目の声は、ふざけているようで、疲れていた。
さっきまでの影と、少し似ている。
「場所は分かるか」
『病院みたいなところだ』
「名前は」
『聞こえてない』
「今、何日だ」
『それも分からない』
「覚えてる最後のことは?」
少し、間があった。
『スマホを見てた』
俺の手が止まる。
『何かを、押そうとしてた気がする』
「何を?」
『思い出せない』
俺も、異世界へ来た前後を全部は説明できない。
白い廊下。
青い門。
ミナの小さな手。
最近見え始めたものが、自分の記憶なのかさえ分からない。
亀裂が、さらに細くなる。
「五番目」
『その呼び方、嫌だな』
「じゃあ何て呼ぶ」
『鈴木』
「俺も鈴木だ」
『知ってる』
「面倒くさいな!」
『お互いにな』
亀裂の奥で、声が少し笑った。
「次につながったら、呼び方を決めよう」
『ああ』
「それと、勝手に消えるな」
『お前に言われたくない』
「俺も消えない」
言い切ると、五番目は黙った。
それから、低く返した。
『じゃあ、俺も努力する』
「そこは約束しろよ」
『俺だぞ』
「……そうだったな」
青い縁を掴んでいた手が離れる。
向こうで、誰かがまた呼んだ。
「鈴木さん」
亀裂が閉じる直前。
五番目の声が、はっきり聞こえた。
『こっちにも、俺の身体がある』
俺は自分の膝に触れた。
『でも、それで、お前を偽物にするなよ』
青い光が消えた。
あとには、冷たい石の床だけが残った。
俺は、その床へ座り込んだ。
「休憩」
誰に言うでもなく、宣言する。
「異論は認める。でも立てない」
『異論なし』
霧の鈴木が隣へ座った。
仮面の男も、少し迷ってから腰を下ろす。
救い出した影は壁にもたれた。
少女は俺の袖を掴んだまま、隣に座る。
「……鈴木、いっぱい」
少女が言った。
「数えなくていい」
『数えないと取り違えるぞ』
「取り違えたら、本人が怒れ」
『全員、お前と同じ顔とは限らないだろ』
俺は少女を見る。
少女も俺を見る。
「そうだった」
彼女が、少し笑った。
今度は、ちゃんと分かった。
助け出したときの泣き顔じゃない。
ここに座って、俺たちの馬鹿な会話を聞いて笑っている。
「名前、どうする?」
俺が聞くと、少女の指に力が入った。
「まだ、分からない」
「じゃあ、まだ決めない」
「名前、なくてもいい?」
「呼び方は、そのうち一緒に考えよう」
「うん」
それで、今は十分だった。
全部を確かめる必要はない。
少なくとも、今すぐには。
ぴ。
スマホが鳴った。
『通常機能の一部を復旧しました』
「AI、お疲れ」
『復旧処理を継続します』
「先に状況を」
画面に一覧が出る。
『アオイ由来反応:四十七件、接続索引を確認』
『外部複製済:九件』
『未複製:三十八件』
「閲覧に参加した十二件は?」
『閲覧接続は終了しています。異常な転送反応は検出されていません』
俺は、ようやく肩の力を抜いた。
別都市の映像もつながる。
二人のミナが、閉じた扉の前に座っていた。
『そっち、立てる?』
別都市のミナが聞く。
「立ちたくない」
『こっちも』
「じゃあ、しばらく座ろう」
彼女が頷く。
その隣のミナも、小さく頷いた。
スマホの一覧の一番下に、新しい項目が増えた。
『日本側・医療施設らしき接続地点』
「五番目か」
『微弱な反応が残っています。ただし、現在つながっている日本側と同一世界かは未確認です』
「記録しといてくれ」
『了解しました』
「原本って呼ぶのは、まだなしだ」
『仮称を設定しますか』
「本人に聞いてから」
『了解しました』
「鈴木」
壁にもたれていた影が、口を開いた。
「何だ」
『第五対象との接続で、戻った情報がある』
俺はスマホから顔を上げる。
影は自分の手を見ていた。
『私の記憶と、処理の記録が合わない』
「どこが」
『私は、お前を分けたと思っていた』
「さっき、自分でそう言っただろ」
『そう認識していた』
影の胸元に、弱い青い光が浮かぶ。
『だが、私が処理を実行する前に、複数の鈴木が記録されている』
霧の鈴木が、笑うのをやめた。
「じゃあ、お前は何をした」
『分割ではなく、配置だった可能性がある』
「配置?」
『すでに分かれていた対象を、それぞれ別の場所へ送る処理だ』
俺は腕を組んだ。
「つまり、お前が俺たちを作ったわけじゃない?」
『少なくとも、最初に分けた者ではない可能性が高い』
「じゃあ、誰が最初に分けたんだ」
『分からない』
「またそれか」
『ただ、一つだけ覚えている』
影が、ゆっくり顔を上げた。
『ミナを連れて帰ろうとした』
「日本側にいるミナか?」
『そこまでは分からない』
『小さな手を掴んでいた。白い光が迫ってきた。そして、私は配置処理を実行した』
「ミナを助けるために?」
『そのつもりだった』
影の声は、慎重だった。
さっきまでのように言い切らない。
『だが、その前に何があったのかは、今の記憶では分からない』
俺は、少女を見る。
少女は袖を掴んだまま、影を見ていた。
俺たちが知らない過去。
何度も現れる鈴木。
違う場所にいる、同じ顔の子どもたち。
誰かが意図的に分けたのか。
それとも、門の異常で分かれてしまったのか。
「AI」
『はい』
「最初の分割記録は残ってないのか」
『現在の端末内には、確定できる記録がありません』
「じゃあ、五番目の身体にあるかもしれない?」
『可能性があります』
「病院のスマホか」
『第五対象との接続時に、映像情報の一部を取得しています』
俺は顔を上げた。
「今、見られるのか」
『表示可能です。ただし、記録の日時と取得元は未確認です』
「現在の映像じゃないかもしれないんだな」
『はい』
俺は男へスマホを向けた。
「映像を見るだけだな?」
『はい。新規転送は行いません』
「よし。見る」
画面が白くなる。
病室らしい場所。
ベッド。
横たわる男。
顔は、角度が悪くて見えない。
その脇に、小さな台がある。
一台のスマホが置かれていた。
俺のものと、よく似ている。
白い画面に、文字。
『分割処理を開始しますか』
その下へ、手が伸びていた。
小さな手。
子どもの指。
「待て」
俺は思わず言った。
映像なのか。
今、起きていることなのか。
分からないまま。
「押すな」
指が止まった。
誰も喋らなかった。
機械音だけが聞こえる。
ぴっ。
ぴっ。
俺の隣で、霧の鈴木が画面へ顔を寄せた。
『……今の声、届いたのか?』
『判定できません』
AIの文字が、画面の端に出る。
小さな手の持ち主が、ゆっくり顔を上げた。
白銀の髪。
幼い顔。
俺は息を止める。
「……マリ?」
岩と倒木の拠点にいるはずの子。
眠いと言っていた子。
村で俺の帰りを待っているはずの子。
同じ顔の少女が、病室でこちらを見ている。
だが、マリ本人とは限らない。
ミナにも、同じ顔の少女が何人もいた。
アオイに至っては、四十七件もの反応が残っている。
この子も、別の反応体なのかもしれない。
そう思ったのに。
画面の少女が、唇を動かした。
『スズキ』
俺の袖を掴む少女の手に、力が入る。
病室の少女は、スマホから指を離した。
そして、怯えた目でベッドの方を見た。
『わたし、まだ押してない』
ベッドの男の手が、ゆっくり動いた。
画面が暗転した。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
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