第76話 おかあさんからの着信
ぴりりりり。
ぴりりりり。
古い折り畳み式の携帯電話が、俺の手の中で鳴っている。
見たことがない。
持っていた覚えもない。
この世界へ来たときも。
日本にいた最後の日も。
俺のポケットに、こんなものはなかった。
なのに。
小さな画面には、確かに表示されている。
『おかあさん』
「……母さん?」
自分で口にして。
喉が乾いた。
何年も呼んでいない言葉だった。
霧の鈴木が、俺の手元を見る。
『それ、出るのか』
「分からない」
『さっきは、知らない鈴木からの電話に出なかった』
「これはもっと分からない」
『でも、“おかあさん”だ』
「表示だけなら、何とでも書ける」
そう言いながら。
俺の親指は、通話ボタンの上で止まっていた。
白い部屋の少女。
俺と霧の鈴木と合わせて、識別情報が九十六パーセント一致した対象。
あの子が「あなたが忘れたところ」へ行きたいと言った直後に現れたガラケー。
偶然だと思う方が難しい。
「AI」
返事はない。
俺のスマホは、真っ暗なままだ。
「……AI?」
画面を叩いても、何も映らない。
仮面の男の端末も沈黙している。
未選択領域へ続く青い道も、薄くなっていた。
「通信が全部切れた?」
別都市のミナの映像も消えている。
白い部屋も。
扉も。
少女も。
何も見えない。
「男。何が起きた」
仮面の男は、首元の端末を押さえていた。
「……仮設経路は、切断されていません」
「じゃあ、何で見えない」
「外側から閉じられたのではなく――」
男は、苦しそうに言った。
「経路の内側に、別の接続が重なっています」
俺はガラケーを見る。
『おかあさん』
ぴりりりり。
「これか」
「可能性は高いです」
男の表情が硬い。
「ですが、制御者端末でも解析できません」
「つまり」
「誰の通信かも、どこへつながるかも不明です」
「いつものことだな」
『笑えないぞ』
霧の鈴木が言った。
「笑ってない」
それでも。
少しだけ笑いそうになった。
怖いときほど、馬鹿なことを言いたくなる。
---
ぴりりりり。
着信は止まらない。
着信拒否も。
電源を切る操作も。
画面には出てこない。
あるのは、緑と赤の二つのボタンだけ。
「出るか、切るか」
俺が呟く。
『赤い方を押しても、切れる保証はない』
「緑を押しても、つながる保証はない」
『どっちも嫌だな』
「さっきからそればっかりだな」
『嫌なものは嫌なんだよ』
「それ、俺の台詞だろ」
自分と話していると、本当に調子が狂う。
俺は深く息を吸った。
画面の文字を見る。
『おかあさん』
母親は、もういない。
少なくとも。
俺が知っている日本には。
何年も前に、葬式をした。
そのとき。
何を話したのか。
最後に何を言ったのか。
何を言えなかったのか。
急に思い出しそうになって。
思い出せなかった。
胸が痛い。
「……出たら、どうなる」
「不明です」
男が答える。
「出なければ?」
「不明です」
「役に立たないな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
俺は言った。
「今、分からないのは、お前のせいじゃない」
男が、少し驚いた顔をした。
俺はガラケーへ視線を戻す。
「ただし、勝手には出ない」
『誰に聞く』
「俺に関係する通信だとしても、ここにいる連中が巻き込まれるかもしれない」
霧の鈴木。
仮面の男。
今は見えないが。
アオイたち。
二人のミナ。
白い部屋の少女。
俺がボタン一つ押したせいで。
全員を、また危険な経路へつなげるかもしれない。
「まず、外へ逃がせるか確かめる」
「青い道が消えかけています」
男が言った。
「未選択領域の側とも、現在は通信できません」
「じゃあ、ここにいるのは」
『俺とお前と、そいつだけか』
霧の鈴木が仮面の男を見る。
「それと」
男がガラケーを見る。
「その、存在しないはずの電話です」
そのとき。
ガラケーの画面が、ふっと暗くなった。
着信音が止まる。
「切れた?」
誰も答えない。
次の瞬間。
画面に文字が出た。
『留守番電話 1件』
「……嫌な予感しかしない」
『俺もだ』
俺は古い携帯のボタンへ指を伸ばした。
まだ押していない。
それなのに。
勝手に、音声が流れ始めた。
『もしもし。鈴木?』
女の声だった。
聞き覚えがある。
でも。
すぐには、誰の声なのか分からない。
『今日は、ちゃんと帰ってきなさい』
その一言で。
頭の奥が、ひどく痛んだ。
「……っ」
暗い部屋。
テレビの音。
安い弁当。
玄関に脱ぎ捨てた靴。
そして。
台所に立つ、誰かの背中。
『聞いてる?』
音声の向こうで、女が笑う。
『返事くらいしなさい』
「……母さん」
俺の口から。
声が出た。
留守番電話は、返事をしない。
するはずがない。
なのに。
ガラケーの画面が光った。
『聞こえてるよ』
俺は固まった。
霧の鈴木が、俺の肩を掴む。
『録音じゃない』
「分かってる」
女の声が。
少しずつ変わる。
優しい声の奥から。
別の、幼い声が重なってくる。
『鈴木』
白い部屋の少女の声。
「お前か」
俺はガラケーを握り直した。
『あなたが忘れたところは、ここじゃない』
画面の文字が切り替わる。
『おかあさん:識別偽装』
「偽装……」
仮面の男の首元で。
消えていた端末が、弱く青く光った。
「解析反応が戻りました」
「何が分かる」
男は、表示を読む。
「外部からの通常通信ではありません」
「じゃあ何だ」
「あなたの識別情報に残る記憶を――接続の入口として利用しています」
「母さんの声を?」
「はい」
「本人じゃない?」
「少なくとも、現時点では本人だと判断できる情報はありません」
俺は、少しだけ息を吐いた。
安心したのか。
がっかりしたのか。
自分でも分からなかった。
そのとき。
ガラケーから、少女の声がした。
『ここにいる』
白いノイズが、小さなスピーカーから漏れる。
ざあああ。
そのノイズの中に。
少しずつ。
映像が浮かんだ。
白い部屋。
椅子。
そして。
少女。
「無事だったか」
少女は、少しだけ頷いた。
でも。
今度は、彼女だけではなかった。
椅子の後ろに。
誰かが立っている。
背の高い影。
顔は見えない。
白い服でもない。
仮面もない。
ただ。
俺はなぜか。
その立ち姿に、見覚えがある気がした。
「誰だ」
少女が。
ゆっくり後ろを振り返る。
『この人が』
俺の手の中で。
ガラケーが震える。
『あなたを、最初に分けた』
「俺を?」
霧の鈴木が、画面へ近づく。
『俺たちを分けたってことか』
少女は答えない。
代わりに。
背後の影を指した。
ガラケーの画面に。
青い文字が浮かぶ。
『対象照合中』
数字が流れる。
そして。
影の胸元に。
一行の文字が現れた。
『対象識別:鈴木』
俺の隣で。
霧の鈴木が、息を止めた。
白い部屋の少女も。
俺たちと同じ「鈴木」だった。
そして。
彼女の後ろに立つ人間まで。
同じ名前で識別された。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
ChatGPT




