第60話 五人で帰るために
白い霧の中。
俺たちの前に開いた出口は、四人までしか通さない。
俺。
ユラ。
セナ。
青い服の少女。
そして、霧の中に残された、もう一人の鈴木。
五人。
また、一人多い。
また、誰か一人を置いていけと言われている。
「でも、五人で帰れる可能性はある」
俺は黒いスマホを握った。
画面に浮かぶ文字。
『二人の鈴木を、一つの接続対象として統合しますか』
その下には、嫌な文字が並んでいた。
『推定成功率:三十一パーセント』
『記憶情報の混合』
『人格情報の競合』
『一方または双方の反応消失』
「……ろくなことが書いてないな」
俺が言うと、霧の中の鈴木が乾いた声で笑った。
『三十一パーセントもある』
「“も”じゃない。“しか”だ」
『さっきまで十五とか十八だっただろ』
「比較対象がおかしい」
『白い仮面に連れていかれるよりは高い』
「連れていかれるって言うな」
『同じだろ』
「気持ちの問題だ」
白い霧の向こう。
仮面をつけた者たちが、ゆっくり近づいてくる。
一人。
二人。
三人。
全員が白い杖を持っていた。
杖の先には、淡い光が集まり始めている。
「未選択対象を回収します」
平らな声が響いた。
青い服の少女が、俺の服を強くつかんだ。
「いや」
「大丈夫だ」
「ほんと?」
すぐには答えられなかった。
ここで「絶対に大丈夫」と言うのは、ただの嘘になる。
「怖い」
俺は正直に言った。
「俺も怖い」
少女が俺を見る。
「失敗するかもしれない」
「……うん」
「でも」
俺は、その小さな手に自分の手を重ねた。
「お前をまた一人にする方が、もっと嫌だ」
ユラが隣で頷く。
「わたしも」
セナも、青い服の少女の反対側に立った。
「みんなで行く」
霧の鈴木が、俺たちを見ていた。
『……そういうの』
「何だ」
『前の俺には言えなかった』
「じゃあ今言え」
『何を』
「一緒に行くって」
霧の鈴木は黙った。
白い仮面の一人が杖を持ち上げる。
「接続処理を開始します」
白い光が、霧の地面を走った。
青い服の少女の足首へ。
ユラの首元へ。
セナの腕へ。
そして、俺と霧の鈴木へ。
「急げ!」
俺が叫ぶ。
霧の鈴木が俺を見る。
同じ顔。
同じ声。
でも、俺とは違う時間を過ごしてきた男。
『……一緒に行く』
「ああ」
俺はスマホの画面へ触れた。
『統合を開始します』
白い霧が、俺ともう一人の鈴木を包んだ。
「うっ……!」
息が詰まる。
頭の中へ、知らないはずの記憶が流れ込んできた。
狭い部屋。
閉じたカーテン。
古い机。
食べ終わったコンビニ弁当。
冷めた缶コーヒー。
誰からも来ない通知。
俺の部屋だった。
いや。
俺の部屋だったはずだ。
でも、どこか違う。
見たことがあるのに。
思い出したくなかった夜のように感じる。
『帰りたかった』
霧の鈴木の声が、頭の中で響く。
『何でもいいから、あの部屋に戻りたかった』
「……ああ」
分かる。
それは、俺の気持ちでもある。
異世界に来た直後。
腹が減った。
寒かった。
何が食べられるかも分からなかった。
獣がどこにいるのかも分からなかった。
火さえ起こせなかった。
あの頃なら。
誰にも必要とされなかった部屋でも。
何もなかったと思っていた生活でも。
帰れるなら帰りたかった。
次の記憶が流れ込む。
白い霧。
泣いている青い服の少女。
小さな手。
鈴木の手が、その手を握っている。
『帰ろう』
俺の声。
霧の鈴木の声。
もう、どちらの記憶なのか分からない。
白い門が開く。
画面に文字。
『通過可能対象:一名』
その下に並ぶ名前。
『鈴木』
『未選択対象』
指が震えている。
帰りたい。
でも。
少女を置いていけない。
「違う」
俺は頭を押さえた。
「こんな画面、俺は覚えてない」
『俺は覚えてる』
霧の鈴木が言う。
『お前は帰りたかった』
「お前だって俺だろ」
『だから責めてる』
「自分をか」
『そうだ』
白い霧の中。
霧の鈴木の顔が、はっきり見えた。
俺と同じ顔。
でも、ずっと疲れている。
長い間。
誰も来ない場所で。
一人で、自分を責め続けた顔。
『俺は、あの子の手を離さなかった』
青い服の少女が、俺たちを見ている。
『門が俺を切った』
「今の俺を帰すために?」
『そうだ』
「じゃあ、お前は」
『置いていかれた』
胸の奥が痛む。
「少女は?」
『残った』
「二人とも?」
『でも、一緒じゃなかった』
「どういう意味だ」
『未選択領域は一つじゃない』
俺は息をのんだ。
『同じ場所に残されても、繋がらないことがある』
「それで、この子はずっと一人だった」
『……そうだ』
「お前も」
『そうだ』
青い服の少女も。
もう一人の鈴木も。
同じ「未選択領域」に捨てられながら。
互いに会うことさえできなかった。
だから、少女にとって鈴木は「自分を置いて消えた人」。
鈴木にとって少女は「助けられなかった子」。
どちらも間違っていない。
どちらも、全部は知らなかった。
『統合進行率:四十二パーセント』
AIの文字が浮かぶ。
「まだ半分もいってないのか」
『記憶情報の競合を検出しています』
「何が競合してる」
『帰還に関する選択情報です』
その瞬間。
別の映像が流れ込んだ。
コンビニ前。
ミナ。
赤い警光灯。
日本。
『スズキ、くる?』
ミナの声。
俺は手を伸ばす。
行きたい。
今すぐ行きたい。
元の世界。
ミナ。
そこへ戻れるなら。
その瞬間。
霧の鈴木が、俺の腕をつかんだ。
『そっちを見るな』
「ミナがいる」
『分かってる』
「助けたい」
『分かってる!』
「なら離せ!」
『今は、こっちの子を置いていくな!』
青い服の少女が見える。
セナが、その手を握っている。
ユラもいる。
白い仮面たちは、もうすぐそこまで来ている。
まただ。
一人を選べ。
一つの世界を選べ。
帰る場所を選べ。
選ばなかったものを捨てろ。
「違う」
俺は叫んだ。
「今回は違う!」
霧の鈴木が俺を見る。
『何が違う』
「お前がいる」
『は?』
「俺一人じゃない」
俺の頭に、次々と顔が浮かんだ。
マリ。
ハルキ。
サヨ。
ゴウダ。
ナギ。
ユウ。
ミナ。
ユラ。
セナ。
助け出した子どもたち。
日本側でミナを守ってくれている、スマホを持った男。
警察の人たち。
そして。
目の前にいる、もう一人の俺。
「最初の俺は、一人だった」
『……』
「だから、一人で決めた」
『そうだ』
「でも今は違う」
俺は霧の鈴木の腕をつかんだ。
「一人で選ばない」
『門はそんな理屈を聞かない』
「だったら、聞かせる」
『どうやって』
「知らん」
『知らんのかよ』
「でも、やる」
霧の鈴木が、呆れたような顔をした。
俺と同じ顔で。
その顔が少しだけ笑う。
『……変わったな』
「お前もな」
白い仮面の杖が光った。
「統合対象を停止します」
白い線が、俺たちへ伸びる。
「AI!」
『はい』
「統合を急げ!」
『記憶情報の競合が解消されていません』
「なら、統合するな」
『指示内容を確認します』
「二人の鈴木を、一つにするんじゃない」
霧の鈴木が俺を見る。
『何を考えてる』
「二人で、同じ道を通る」
『それじゃ五人だ』
「分かってる」
『出口は四人だ』
「それも分かってる」
『じゃあどうする』
「二人で一人分になればいい」
『統合と同じだろ』
「違う」
『何が違う』
「消えるために一つになるんじゃない」
俺は言った。
「二人とも残ったまま、一つの接続枠を使う」
AIの文字が流れる。
『接続定義が不明確です』
「人間の言葉で言えば」
俺は霧の鈴木を見る。
「一緒に帰る」
『それ、説明になってないぞ』
「分かってる」
『お前、本当に俺か』
「たぶんな」
ユラが、こんな状況なのに少しだけ笑った。
セナも。
青い服の少女も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
だが。
AIの表示は変わらない。
『現在の経路上限:四』
「くそ」
俺。
霧の鈴木。
ユラ。
セナ。
青い服の少女。
やっぱり五人。
そのときだった。
「あの」
青い服の少女が言った。
「何だ」
「これ」
少女の足元。
白い霧の中に、黒いものが落ちていた。
スマホ。
霧の鈴木が、さっき落とした端末だった。
『触るな!』
霧の鈴木が叫ぶ。
だが。
少女はもう拾っていた。
「大丈夫か!」
「うん」
黒い画面が、白く光る。
そこに文字が浮かんだ。
『接続対象を分割せず、経路上限を拡張しますか』
「何だ、それ」
俺のスマホも反応する。
『未選択領域側の管理要求を検出』
「管理要求?」
『領域内に残留する接続対象を固定点として利用することで、経路上限を一時的に解除する処理です』
「つまり?」
AIの表示が一瞬止まる。
『一人が残れば、他の全員を通過させられる可能性があります』
「またそれかよ!」
俺は叫んだ。
また一人。
また誰かを置いていく。
「押すな!」
俺は少女へ手を伸ばす。
だが。
少女は画面を見ていた。
その下に、新しい文字。
『実行者は帰還経路に残留します』
「だめだ!」
俺と霧の鈴木が同時に叫んだ。
少女が顔を上げる。
「でも」
「押すな!」
「みんな、帰れる?」
その問いに。
俺は一瞬、答えられなかった。
それがいけなかった。
少女は、俺の沈黙を答えだと思った。
「じゃあ」
小さな指が、画面へ伸びる。
「わたし、ここ、知ってるから」
「知ってるから何だ!」
「みんなより、こわくない」
「嘘つけ!」
少女の目から涙が落ちる。
「……こわい」
「だったら来い!」
「でも」
「でもじゃない!」
俺は走ろうとする。
白い仮面の杖から伸びた線が、足へ絡みつく。
「くそ!」
少女が泣きながら笑った。
「みんな、ひとりじゃないから」
「お前もだ!」
「……うん」
「なら来い!」
少女は画面を見た。
そして。
指を置いた。
ぴ。
小さな音。
白い霧の中へ、青い光が走った。
「何をした!」
霧の鈴木が駆け寄ろうとする。
だが、地面から伸びた白い腕が足をつかんだ。
『上限解除を確認』
俺のスマホに文字。
『実行者:未選択対象』
「取り消せ!」
『実行者本人による解除が必要です』
「解除しろ!」
少女は首を横に振った。
「嫌」
「何で!」
「今度は」
少女が俺を見る。
「ちゃんと、自分で決めたから」
その言葉に、胸が詰まった。
「そんな決め方をするな!」
「でも」
「子どもが自分を置いていく選択をするな!」
「スズキも、した」
「俺は大人だ!」
「でも、こわい」
言葉が止まった。
少女は泣いている。
「スズキも、こわいのに、みんな助ける」
「だからって」
「わたしも、助けたい」
白い仮面たちが、さらに近づく。
出口の光が急速に広がる。
四人分だった細い経路が。
五人。
六人。
それ以上。
何人でも通れそうなほど、大きくなる。
『経路上限解除』
『未選択領域の封鎖を開始』
「封鎖?」
『実行者が領域固定点となります』
「固定されたらどうなる!」
『領域外への移動は困難になります』
「そんなの駄目だ!」
俺は白い線を引きちぎろうとする。
霧の鈴木も、地面の腕を蹴る。
『おい!』
少女を見る。
『俺が残る!』
「だめ」
『俺はもともとここにいた!』
「でも」
少女は霧の鈴木を見る。
「あなたも、帰りたい」
『俺はいい!』
「よくない」
霧の鈴木が黙る。
俺が何度も言った言葉を。
今度は少女が言った。
「置いていかない」
少女の身体を、白い霧が包み始める。
「待て!」
俺は叫ぶ。
「お前の名前も、まだ聞いてない!」
少女が少し笑う。
「忘れた」
「じゃあ思い出せ!」
「無理かも」
「なら新しい名前を一緒に考える!」
「……うん」
「だから来い!」
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無職のおっさん
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