第6話 名前のない子ども
魚を食べたあと、拠点に戻る道は、行きより少しだけ軽かった。
腹の中に、ほんのわずかでも「ちゃんとした食べ物」が入っているだけで、足取りが変わる。
少女も草履で石を踏みながら、昨日ほど顔をしかめなくなっていた。
「転ぶなよ。せっかく作った草履だからな」
そう言うと、少女は自分の足元をちらりと見てから、セーターの裾をきゅっと握り直した。
相変わらず言葉は少ない。
それでも、「守られているもの」が増えていくことを、身体で感じているようだった。
岩と倒木の拠点に着くころには、日が少し傾き始めていた。
川辺の焚き火から持ち帰った太い枝の先には、まだ赤い火種が残っている。
「……よし。消えてないな」
炭の残る場所へ火種を置き、乾いた葉と細い枝を重ねる。
何度か息を吹き込むと、白い煙の奥に小さな炎が戻ってきた。
「火勢の回復を確認しました」
「昨日まで火もなかったことを考えれば、大進歩だな」
今日は水を沸かせる。
夜を越える準備も、昨日より一段階進んでいた。
「煮沸することで、飲用時の安全性が向上します」
「分かってる。昨日の葉っぱよりは、だいぶ安心できそうだ」
問題は、鍋がないことだった。
俺は大きな葉を何枚も重ね、その外側を薄く剥いだ樹皮で支えた。縁を蔓で縛り、どうにか水を受けられる形に整える。
「本当に、こんなので大丈夫なのか?」
「火へ直接かけなければ、短時間の使用は可能と推定されます」
「短時間ね……」
水受けに川の水を入れ、焚き火の近くへ置く。
次に、拠点の周りで乾いていた石を火の中へ入れた。
「川から拾った濡れた石は、急激な加熱によって割れる危険があります。十分に乾燥した石を使用してください」
「そういう注意は、先に言ってくれると助かる」
「現在使用している石に、目立った水分は検出されていません」
「ならいいけどな」
十分に熱した石を、二本の枝で挟む。
慎重に持ち上げ、水受けの中へ一つずつ沈めた。
じゅっ、と鋭い音がして、白い湯気が上がる。
石を入れ替えるたびに水温は上がり、やがて水面に細かな泡が浮かび始めた。
「沸騰を確認しました。この状態をしばらく維持してください」
「水を飲むだけでも大仕事だな……」
火のそばでは、少女が膝を抱えて座っていた。
セーターの袖を指でいじりながら、焚き火をじっと見つめている。
「……なあ」
火のはぜる音を聞きながら、俺はふと思ったことを口にした。
「お前、自分の名前、覚えてるか?」
少女が、少しだけ顔を上げる。
その瞳に、焦点の定まらない揺れが浮かんだ。
「なまえ?」
「そう。人から呼ばれてたときの音だ。何か覚えてるか?」
しばらく沈黙が続いた。
少女は焚き火を見たり、セーターの裾を見たり、俺の顔を見たりしながら、ゆっくりと首を横に振った。
「……ない」
短く、そう答えた。
その一語には、「忘れた」のか、「最初からなかった」のか、両方の可能性が混じっているように聞こえた。
「そうか」
俺は炭を枝でつつきながら、小さく息を吐く。
「名前がないのも、けっこう不便だよな。呼ぶときに困るし」
「識別子がない場合、記録上も不便です」
スマホの淡い光が、焚き火の赤と混じり合って揺れる。
声は相変わらず淡々としていた。
「記録上、ね」
「今後の観察データを『少女A』として記録することも可能ですが、本人とのコミュニケーションには、より適切なラベルがある方が望ましいです」
「ラベルって言うなよ。子どもに向かって」
「最適な表現を模索中です」
「……まあ、間違ってはないけどさ」
俺は焚き火を見つめながら、少し考えた。
この世界には、漢字がない。
俺がいた世界では当たり前だった、文字の形と意味は、ここでは通じない。
それでも、自分の中に残っている言葉から、この子のために何か一つ選んでやることはできる。
「俺の国には、『真理』って言葉があってな」
自然と、そんな説明が口から出た。
「しんり?」
少女が小さく復唱する。
初めて聞く音のはずなのに、どこか確かめるような声だった。
「そう。真実とか、嘘じゃないこととか、そういう意味を持つ言葉だ」
焚き火の炎が、視界の端で揺れる。
岩陰の拠点。
川。
草履。
魚。
セーター。
今ここにある小さな生活が、少しずつ頭の中に並んでいった。
「世界の真理とか、そんな大きな話じゃなくてな」
言葉を選びながら続ける。
「お前がここで生きていく、その『ほんとう』を大事にしてほしいって意味で……名前、マリにするか」
「……マリ?」
少女が、自分の胸のあたりを指で軽く押さえた。
そこに「マリ」という音を置いてみるような仕草だった。
「嫌だったら、また考える」
俺は少し肩をすくめる。
「この世界には漢字がないから、字の形は覚えなくていい。意味も、今は分からなくていいか。そのうち、ああ、そういうことだったのかって思えれば、それで十分だ」
少女は焚き火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、もう一度、小さく口を開く。
「……マリ」
さっきよりも、ほんのわずかにはっきりした声だった。
自分の名前を、自分自身で確かめるための発音。
その声を聞いた瞬間、俺の中でも、名前のなかった少女が「マリ」に変わった。
「記録上の呼称を『マリ』に設定します」
スマホの声が、すかさず割り込んだ。
「お前、今のはもう少し静かに言ってくれないか」
「重要なイベントと判断したため、優先的に記録しました」
「まあ、間違ってはないけどさ」
俺は焚き火に枝を一本追加した。
炎が少しだけ強くなり、俺とマリ、それからスマホの画面を照らす。
「これで、名前がない問題は一つ解決だな」
そう言うと、マリはセーターの裾を握ったまま、ちらりと俺を見上げた。
その瞳には、ほんの少しだけ「自分のもの」が増えたような光が宿っている。
それから、今度は俺の方を指さした。
「……なまえ?」
「ああ、俺か」
そういえば、この子にはまだ名乗っていなかった。
「俺は鈴木っていう」
「……スズキ?」
「そう。鈴木。俺の国じゃ名字なんだけど、こっちじゃ名字も名前も分からないだろうし、スズキでいい」
マリは、確かめるようにもう一度口にした。
「……スズキ」
元の世界では、どこにでもある名字だった。
呼ばれても、特別な意味なんて感じたことはない。
それなのに今は、その小さな声で呼ばれただけで、妙に胸の奥がむず痒くなった。
「呼称が二つ確認されました。今後の記録は、『スズキ』と『マリ』を基準に行います」
「勝手に決めるなよ」
「両者の同意を確認しました」
「まあ、そうなんだけどさ」
この森で、誰からも呼ばれないまま死んでいく可能性もあった。
そんな人生が今は、「マリ」と呼ぶ相手と、「スズキ」と呼ぶ声のある生活に、少しだけ形を持ち始めている。
焚き火の炎が落ち着いたところで、俺は背もたれ代わりの岩に身体を預けた。
マリは俺の横で膝を抱えたまま、少しだけ身体を寄せる。
草履で守られた足先は、地面の冷たさから一段階遠ざかっている。
セーターの裾を握る力も、昨日より少しだけ弱くなっていた。
「明日は、また川に行くか」
俺がそう言うと、マリは小さく頷いた。
名前をもらった翌日を、どう生きるのか。
まだ具体的には何も決まっていない。
それでも、五十代無職のおっさんの異世界AI生活は――
スズキとマリと、まだ名前のないAIがいる拠点として。
ほんの少しだけ、「家」と呼べるものの形に近づき始めていた。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
ChatGPT




