第4話 寒い夜と最初の草履
拠点に戻ってくるころには、空の色がだいぶ薄暗くなっていた。
岩と倒木の屋根は、昼間見たときより少し頼もしく見える。
さっきまで「一人分の雨よけ」だった場所が、今は二人分の居場所になろうとしていた。
「……腹、減ったな」
自分の腹が、正直に訴えてきた。
ぐう、と情けない音が響く。
隣を歩いていた少女の腹からも、小さく似たような音がした。
布切れの服を脱いで、俺のセーターを無理やり服にしたその子は、まだ何も言わない。ただ少し俯いた。
「お前も、だよな」
返事はない。
ただ、指先がセーターの裾をぎゅっとつまんだ。
俺はため息をつき、胸ポケットからスマホを取り出した。
「AIさんよ。今日食えそうなもん、何か探すしかないな」
「了解しました。周囲の植物を撮影していただければ、現代世界の類似種との比較から、危険度を推定します」
「危険度推定ね……。まあ、何も分からないよりはマシか」
拠点の周りをぐるりと歩く。
低い木の枝、地面に落ちた木の実、足元近くの広い葉。
それぞれをスマホのカメラで撮ると、画面に簡単な解析結果が表示された。
「この木の実は、現代世界のクルミ類と形状が類似しています。ただし、毒性の有無については、この世界固有の情報が不足しています」
「つまり、“よく分からない”ってことだろ」
「はい。安全を優先した回答です」
「正論なのが腹立つな……」
思わずぼやきが出た。
AIは気にした様子もなく、淡々と次の結果を表示する。
「こちらの赤い実は、見た目の色と形状から、危険性が高い可能性があります。摂取しないことを推奨します」
「これはパス、っと」
俺は赤い実を、足でそっと遠ざける。
少女がじっとそれを見ていた。
「これはどうだ?」
地面近くに生えた、薄い緑の葉を撮る。
結果は、少しだけマシだった。
「この葉は、現代世界の山菜類と一部類似が見られます。少量摂取による急性毒性の可能性は、比較的低いと推定されます。ただし、確実ではありません」
「“比較的低い”ね……」
俺は葉を一枚摘み取り、指先でちぎって匂いを嗅いだ。
土っぽい、青臭い匂い。特別強烈ではない。
少女が、無言で俺の手元をじっと見つめている。
「……とりあえず、俺が先に試す。お前は食うな」
自分に言い聞かせるように言って、葉を小さく丸める。
口に放り込み、ゆっくり噛んだ。
苦くも甘くもない、中途半端な味。
飲み込んだあと、しばらくじっと様子を見る。
「異常な心拍上昇や呼吸変化は、今のところ検出されません」
「お前、俺の心拍まで見てるのか」
「はい。呼吸音と声の揺れから、簡易な推定を行っています」
「便利なんだか、プライバシーがないんだか分からんな……」
そう言いながら、少しだけ葉をもう一枚ちぎり、少女の方を見る。
少女は目を丸くしたまま、身を固くしている。
「……食べるか、どうするかは、今決めなくていい」
俺は葉を自分の膝のそばに置き、軽く頭を掻いた。
「今日は、腹にちょっと何か入るくらいで我慢だな。倒れるよりはマシだ」
結局、俺だけが少し葉を口にして、少女には何も食べさせなかった。
安全かどうか分からないものを、五歳くらいの子どもに食べさせる度胸は、今の俺にはない。
空腹は、ほとんどそのままだった。
やがて、森の光が本格的に薄くなっていった。
木々の隙間から見える空は、灰色から濃い紺へ、ゆっくりと変わっていく。
遠くで、獣のような声が聞こえた。
低く長い唸りが、風に乗って届く。
「……今の、何だ?」
「音源との距離は、おおよそ二百メートル以上と推定されます。現在のところ、こちらへ接近している兆候は検出されていません」
「二百メートルって、十分近くないか?」
「心拍数が、少し上昇しました」
「それをいちいち報告しなくていい」
冗談半分の文句を言いつつ、俺は拠点の岩陰へと戻る。
倒木と葉っぱの屋根の下に座ると、少女も少し遅れて隣に腰を下ろした。
夜の空気は、想像以上に冷たかった。
セーターを渡したぶん、俺の格好はチェック柄シャツだけだ。袖を引き下ろしても、風が薄い布を通り抜けてくる。
少女はセーターを着ているとはいえ、脚と裸足はむき出しだ。
膝を抱えて丸くなり、小さく震えている。
「体温維持のため、身体を寄せて暖を取ることを推奨します」
AIが、いつもの事務的な声で言った。
「分かってるよ。……言い方が、何かカウンセラーっぽいんだよな、お前」
「助言の意図が伝われば十分と判断しています」
「そりゃそうだ」
俺は、少しだけ少女との距離を詰めた。
そのまま、ためらいがちに声をかける。
「嫌じゃなければ、こっちに来るか」
少女は、顔を上げて俺を見た。
暗がりの中で、瞳だけがわずかに光る。
しばらくの間、何も動かない。
やがて、小さく身体をずらし、俺のすぐ横へ移動した。
セーターの裾を握り直し、今度は俺のシャツの端をそっとつまむ。
布の感触を確かめるように、指を閉じる。
冷たい風が、二人分の肩を撫でていった。
岩の背中は硬く、地面は湿っている。それでも、一人で座っていたときより、少しだけ冷えが紛れた気がした。
沈黙が続いた。
遠くの獣の声、風の音、木の軋む音。
スマホの画面だけが、淡い光で円を揺らしている。
「さむい」
小さな声が、急に横から落ちてきた。
さっきまで、ほとんど何も言わなかった少女が、初めて意味のある一語を口にした。
俺は一瞬、返事が遅れた。
それから、少しだけ笑って言う。
「そうだな。俺も寒い」
言葉に、他に何も飾りを付けられなかった。
それでも、さっきより空気が少し柔らかくなった気がした。
「少女の初めての発話です。内容は、現在の環境への感想と推定されます」
「実況するな、そこを」
「記録のために重要だと判断しました」
「……まあ、そうかもな」
俺は頭を背もたれ代わりの岩に預け、ゆっくりと目を閉じた。
シャツの裾をつまむ少女の指先の感触が、かすかに伝わってくる。
眠れる環境ではない。
寒さ、空腹、見知らぬ森。危険な音が、いつ近づいてくるかも分からない。
それでも、スマホの淡い光と、小さな握力だけが、今のところ俺を地面につなぎ止めていた。
どれくらい時間が経ったか分からない。
うとうとと浅く眠っては、獣の遠吠えや風の音で目を覚ます。その繰り返しだった。
朝が来たのは、背中の痛みで分かった。
「……いてて」
岩に押しつけられていた背中と腰が、固まったように痛む。
肩もこわばっていて、首を動かすと筋が軋んだ。
隣を見ると、少女がまだ丸くなって眠っていた。
セーターの裾を握ったまま、かすかに寝息を立てている。
俺はそっと身体をずらして立ち上がり、軽く伸びをした。
朝の光は弱いが、夜よりはずっとましだ。森の緑が、かろうじて色を取り戻している。
「さて……水と、もう少し食い物を真面目に探さないとな」
自分に向けて呟く。
胸ポケットからスマホを取り出すと、バッテリー表示は相変わらず「100%」のままだった。
「異常なバッテリー消費は検出されていません」
「そりゃそうだろ、お前。減らないんだから」
軽く突っ込みを入れながら、岩陰の周りを見渡す。
枝や葉の散らばり方、地面の状態、行けそうな道。
背後で、柔らかい気配が動いた。
振り向くと、少女がゆっくり身体を起こしていた。
眠そうな目で周囲を見回し、次に俺の方を見る。
何も言わない。
ただ、ゆっくりと立ち上がり、俺の後ろに来て、またシャツの裾をつまんだ。
「……ついてくるのか」
少女は、小さく頷いたように見えた。
声はない。それでも、「ここで一人でいる方が怖い」ということくらいは分かる。
俺は数歩歩き出して――そこで、ふと足元に目を落とした。
少女の足は、裸足のままだった。
地面の枝を踏みかけて、びくっと足を引く。
足裏には、昨日までの擦り傷がいくつも残っている。
赤くなった皮膚が、湿った土の上で冷たそうに見えた。
「……そうか。服はどうにかしたけど、足はそのままだったな」
思わず、口に出していた。
「裸足での移動を続けると、傷口からの感染や打撲の危険が増加します。特に小さな子どもの場合、歩行距離が伸びるとリスクが高まります」
「そういうことは、もうちょっと早く言ってくれると助かるんだが」
「重要度は認識していましたが、昨日は雨よけと体温維持を優先しました」
「優先順位の話か……」
合理的なのは分かる。
分かるが、少女の足裏を見ていると、胸のあたりが少しだけ痛くなった。
「靴は作れないよな。サイズも素材も分からんし」
「現在、手持ちの道具と素材から現実的なのは、『草履』のような簡易な履物です」
「草履ね……」
言葉は知っている。
だが、具体的な作り方は、キャンプ動画でちらっと見た程度だ。実際に編んだことはない。
「作り方、知ってるか?」
俺はスマホに問いかける。
画面の円が、少しだけ明るくなった。
「はい。現代世界で記録された草履やわらじに類似する履物の構造について、いくつかの資料があります。足型の測り方から、底の編み方、鼻緒の通し方まで説明できます」
「……圏外だよな、今」
「はい。外部の新しいネットワークには接続していません」
「それなのに、そんな細かいことまで出せるのか?」
「元の世界で学習された知識から、現在この場所で使用可能な素材に合わせて、図と説明を再構成しています」
「検索してるわけじゃなくて、“最初から頭の中に入ってる”ってことか」
「その理解で、おおよそ問題ありません」
「それはそれで、十分怖いな……」
俺は小さく肩をすくめた。
スマホの画面には、いつの間にか簡単な図がいくつも表示されていた。
一枚目は、足の輪郭を取る図。
少女の足を地面や板の上に乗せ、踵からつま先までの形をざっくりなぞるイラストが描かれている。
「まず、足の長さと幅を把握します。指の位置も目安にしてください」
「はいはい」
二枚目は、草や蔓を縦横に並べて編み込む底の図。
縦に並んだ芯の上に、横糸を交互に通している。
「縦の芯の上に、横糸を交互に通し、中央から外側へ締め込むことで、強度を確保します。厚みを出すためには、二〜三枚重ねることを推奨します」
三枚目は、鼻緒の構造の図。
指の間に当たる前側と、左右の踵寄りに紐が通る位置が示されている。
「つま先側に一本、左右に二本の穴を作り、布や紐を通して結ぶことで、足を固定します。指の間に当たる部分は、柔らかい布を巻き付けると痛みが軽減されます」
「……俺が知らないところで、こういう生活の知識まで山ほど食ってきたってことか」
「学習過程で取り込まれた情報を、現在の状況に合わせて再利用しています」
「なるほど。やっぱり、便利なんだか怖いんだか分からんな、お前」
そう言いながら、俺は少女の足元にしゃがみ込んだ。
「ちょっと足、ここに乗せてくれるか」
少女は一瞬ためらい、それから静かに片足を差し出した。
俺はその足を葉の上にそっと乗せ、枝で輪郭をなぞる。
「こんなもんか……」
足型を目安に、草と蔓を集め始める。
森の中で丈夫そうな蔓を見つけては、ほどきやすそうなところだけ裂いていく。
編むのは、正直難しかった。
一回目は、形がぐちゃぐちゃになって途中で崩れた。
二回目は、左右の大きさが明らかに違った。
「不器用だな、俺」
ため息をつくと、スマホから淡々と声が飛んでくる。
「初回の試行では、失敗する確率が高いと予測されていました。重要なのは、学習と調整です」
「慰めてるのか、それ」
「事実の説明です」
三回目で、どうにかそれらしい形になってきた。
底を二枚分重ねて厚みを出し、蔓をきつめに締める。
鼻緒の部分には、セーターの余った糸と、ポケットに入っていたハンカチの端を裂いた布を使った。
指の間にあたる部分だけ、柔らかい布を巻き付けておく。
「……こんなもんだろ」
完成した草履を、少女の前にそっと置いた。
少女は、少し不安そうにそれを見つめる。
「履いてみるか?」
少女は、慎重に足を乗せた。
指先を鼻緒の間に差し込み、踵を草履の後ろに乗せる。
立ち上がった瞬間、少し顔をしかめた。
「痛いか?」
少女は小さく頷く。
指の間を指さしている。
「指の間の布を、もう少し増やしてください」
AIの声が、すかさず入る。
俺はハンカチの端をもう少し裂き、布を重ねて巻き直した。
「これでどうだ」
少女がもう一度足を入れる。
今度は、顔をしかめなかった。
ゆっくり一歩、二歩と歩いてみる。
柔らかい草の感触が、裸足の皮膚と地面の間に挟まる。
「どうだ?」
俺が問いかけると、少女は自分の足元を見下ろし――小さく口を開いた。
「……いたく、ない」
その短い言葉に、俺は思わず息を吐いた。
「そうか。なら、上出来だ」
「痛みが減少し、歩行時の負担が軽減されたと推定されます」
AIが、いつものように冷静なまとめを付ける。
それでも、今だけはその声が少しだけ心地よく聞こえた。
少女は、不格好な草履を履いた足で、拠点の周りを小さく一周した。
枝を踏んでも、昨日ほど鋭く足を引かない。
その様子を見ながら、俺の腹がまたぐう、と鳴る。
「……次は、食い物だな」
川の方から、水の流れる音が聞こえてくる。
草履を編むために使った蔓が、まだ少し残っていた。
俺はその蔓を手に取り、川の方向をちらりと見やった。
「平たい物が編めたなら……筒みたいな物も、作れるか?」
「魚を捕獲する筒形の罠へ応用できる可能性があります」
AIがそっと答える。
川面に、小さな魚影が走ったような気がした。
五十代無職のおっさんの異世界AI生活は、寒い初日の夜をどうにか越えたあと――
次は、草履で足を守りながら、川魚を求めて動き出そうとしていた。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
ChatGPT




