第3話 森で泣いていた子ども
川から離れて、拠点へ戻る道を歩いていたときだ。
背中にまとわりついていた「視線のようなもの」は、拠点に近づくにつれて薄れていった。
それでも、さっき川向こうで見た影のことが頭から離れない。
「……獣か、人か。どっちでもいいけど、今は絡まれたくないな」
独り言のつもりで呟くと、胸ポケットのスマホが小さく震えた。
画面の中央で、淡い円が揺れる。
「先ほどの影について、追加解析を行いましたが、結論は変わりません。『何かがこちらを見ていた可能性』があります」
「慰めになってないぞ、それ」
半分冗談で返してから、俺は息を吐く。
岩と倒木の簡易屋根も、近くまで戻ると、それなりの安心感を持って目に入ってきた。
座れる場所がある。
雨をしのげる見込みがある。
水場の位置も分かった。
この世界での「最初の一日」としては、上出来な方かもしれない。
そう思った瞬間、森の奥から、別の音が聞こえた。
水のせせらぎでも、風でも、鳥でもない。
もっと細くて、掠れていて、切れ切れな声。
泣き声だ。
大人のものでも、獣の唸りでもない。
喉が詰まったような、高い音が、木々の間からふらふらと漏れてくる。
「……子どもか?」
足が、勝手に音の方へ向いていた。
拠点とは反対側。川の近くでもない、小さな獣道の先だ。
「探索範囲外へ移動しますか? 現在地から東に約十五メートル先で、音源が検出されています」
「する。……しないわけにもいかないだろ」
自分に向けて言いながら、枝をかき分けて進む。
足元の根と石に気をつけながら、少しずつ音が大きくなる方へ。
やがて、開けた場所に出た。
そこには、一人の子どもが座り込んでいた。
ぼろぼろの布を、ただ身体にかぶせただけのような服。
袖も裾もほつれ、泥と葉っぱにまみれている。裸足の足は、擦り傷と冷えで赤くなっていた。
顔は俯き、肩を震わせている。
声は出ているのに、言葉にはなっていない。
「……おい」
思わず声が出た。
子どもはびくりと肩を跳ねさせ、顔を上げる。
年の頃は、五歳くらいか。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に、焦点の合わない視線が浮かんでいる。
俺と目が合った瞬間、子どもの身体が、さらに強く縮こまった。
「大丈夫か。……って、言っても大丈夫じゃなさそうだな」
どう声をかけていいか分からず、ついそんな言い方になる。
子どもは返事をしない。喉からは、ぐずぐずした音だけが漏れている。
スマホの画面が、胸ポケットの中でほんの少し熱くなった気がした。
「体温低下と脱水のリスクがあります。まず、刺激の少ない声がけと、水分の提供が有効です」
「分かってるけどな……」
分かっていても、実行するのは別の話だ。
俺は、距離を詰めるかどうかで一瞬迷う。
関われば、責任が生まれる。
連れて帰れば、守る必要が出てくる。
正直、今の俺には、誰かを抱え込む余裕なんてない。
自分の今日の寝床と水だけで、手一杯だ。
「見なかったことにして、拠点に戻る選択肢もあります」
AIが、平然ともう一つの選択肢を口にした。
それは、たぶん、合理的な案だ。
ここで子どもを抱え込めば、俺の生存確率は下がる。
異世界に来てまで、無職のおっさんが子育てを始める義務なんてない。
――それでも、目の前で布切れみたいな服を着た子どもが震えているのを、見なかったふりができるほど器用でもない。
「……お前、こっちに来られるか?」
俺は、少しだけ膝を曲げて声をかけた。
子どもはびくりと身体を縮め、首を横に振るでもなく、縦に振るでもなく、ただ俺をじっと見つめる。
喉から、小さく「ひっ」と音が漏れた。
「歩けるか?」
今度は足元を見る。
傷はあるが、折れてはいなさそうだ。
子どもは、足をぎゅっと抱え込んだまま、ほんの少しだけ肩を上下させた。
返事なのか、単なる震えなのか分からない。
「距離を詰めてもいいですか?」
AIの声が、珍しく「質問形」で響いた。
俺は小さく頷く。
「ゆっくり、手を見せながら近づいてください。急な動作は、恐怖を増幅させます」
「はいはい、カウンセラーみたいなこと言うなよ」
冗談めかして返しながら、一歩ずつ、手のひらを見せたまま近づく。
子どもは逃げない。ただ、目だけが俺の手と顔を行ったり来たりする。
距離が縮まったところで、俺は腰を下ろした。
地面は冷たい。膝が悲鳴を上げる。
「ここから、岩のところまで行けるか。雨をしのげる場所がある」
子どもは、また小さく喉を鳴らした。
言葉にはならない。それでも、俺の声は耳に届いているようだ。
しばらく沈黙が続いたあと、子どもはゆっくりと片方の手を伸ばした。
布の袖の下から出てきた小さな指が、俺の服の裾をそっとつまむ。
引っ張りも、握りもしない。
ただ、「そこにいてほしい」とでも言うように、布の端をつまんでいる。
「……行くか」
それで十分だった。
俺は立ち上がり、速度を落として歩き始める。
子どもは、まだ裸足のまま、よろよろと後をついてくる。
服の裾を、ずっとつまんだままで。
「転びそうになったら、すぐ言えよ」
そんなことを言いながら、拠点への道を戻る。
倒木と岩の簡易屋根が見えてくると、さっきより少しだけ違う意味を持って目に入ってきた。
ここは、今日一晩だけ、二人分の雨をしのぐ場所になる。
「この場所なら、最低限の雨よけと休息が可能です。ただし、子どもの体温低下を防ぐため、布の追加が必要です」
「布ねぇ……」
見渡しても、そこにあるのは木と葉っぱと土だけだ。
まともな布は、今着ている俺の服と、子どものぼろ布だけ。
視線を落とすと、セーターとシャツのうち、どちらかを脱いだら寒さが厳しくなりそうな時間帯だということが分かる。
夜が来れば、森の冷え込みはさらに増すだろう。
「今ある資源の中で、『布』として使えるのは、あなたの衣服です」
「言うと思ったよ、お前」
AIの冷静な分析に、苦笑が漏れた。
それは分かっている。ただ、分かったからといって嬉しいわけでもない。
少しだけ迷ってから、俺はセーターの裾をつまんだ。
「……しょうがないか」
頭からセーターを脱ぎ、広げる。
子どもが、目を丸くしてそれを見ている。
「これ、ちょっといじれば、お前の服になるだろ」
自分でも驚くくらいぶっきらぼうな言い方になった。
子どもは返事をしない。ただ、視線だけがセーターと俺の顔を行ったり来たりしている。
「袖の長さは、折り返して調整できます。おなかの部分を紐で絞ることで、小柄な体型にも適合しやすくなります」
「家庭科の授業みたいだな」
AIの助言に従い、俺はセーターの袖を指でつまんで何度か折り返した。
手首が埋もれないくらいまで折って、無理やり長さを調整する。
「不器用だな、俺」
自嘲気味に呟きながら、セーターのおなかのあたりに細い紐を通す。
森で見つけた丈夫そうな蔓を裂いて、仮のベルト代わりにする。
作業のあいだ、子どもは一歩も動かずに見ていた。
泣き声は止まっている。代わりに、じっとした視線だけが作業を追いかけている。
「……こんなもんか」
即席のワンピースもどきができあがった。
決して綺麗でも上手でもない。それでも、布切れよりはずっと厚くて丈夫だ。
俺はそれを、子どもの前にそっと差し出した。
「元の服よりはマシだと思う。着るか?」
子どもは、少しの間、セーターと俺の顔を見比べていた。
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、布に触れる。
指先が、ためらいがちにセーターの表面を撫でる。
柔らかさを確かめるように、何度か繰り返し――そのまま、ぎゅっと抱きしめた。
その動作に、言葉はない。
それでも、「要らない」と言われたわけではないことくらいは分かる。
「着方、分かるか?」
子どもは小さく首をかしげた。
俺はため息をついて、背を向けながら言う。
「じゃ、ちょっとだけ手伝う。前を向いてろ」
布切れの服を脱がせ、新しいセーターをかぶせる。
袖を折り、紐を軽く結ぶ。身体に合っているとは言い難いが、少なくとも肩が出たり、膝が丸出しになったりはしない。
作業が終わったところで振り返ると、子どもは少し驚いたように自分の服を見下ろしていた。
さっきまでのぼろ布よりは、明らかに暖かそうだ。
「保温性が向上しました。子どもの体温低下リスクが減少しています」
AIが、いつもの調子で報告する。
続けて、もう一言。
「あなたの服の保温性は、約三〇%低下しました」
「そこは報告しなくていい」
苦笑しながら、俺は自分のシャツを引っ張ってみる。
セーターを失ったぶん、夜の冷え込みは直撃するだろう。
それでも、目の前の子どもが震えを少しだけ弱めたことの方が、大事だと思えていた。
子どもは、新しい服の袖をつまみながら、ちらりと俺を見上げる。
まだ言葉はない。ただ、さっきより視線に「恐怖一色」ではないものが混じっている気がした。
「……ちゃんとした服は、いつか買ってやる」
気づけば、そんなことを口にしていた。
未来の話なんて、異世界に来てから初めてしたかもしれない。
「そのためには、収入源が必要です。衣服の購入には、現地通貨が必要になります」
「分かってるよ」
AIの現実的な一言に、肩をすくめる。
異世界無職のおっさんが、森で子どもの服を整えたところで、財布の中身は増えない。
ポケットの中身を思い浮かべる。
スマホ、くしゃくしゃになったレシート、使い道のない家の鍵、少しの小銭。
この世界では、どれもただの金属片か紙切れだ。
川の水。森の木。スマホとAI。
今あるのは、それだけだ。
でも、そのうち森の拠点に「誰かの相談」と「ちょっとした仕事」が流れ込んでくることを、まだこのときの俺は知らない。
今日のところは、岩の陰で二人分の寝床を作るだけで精一杯だ。
布切れみたいな服を脱いだ子どもが、新しいセーターの裾をつまんだまま、俺の隣に座る。
五十代無職のおっさんの異世界AI生活は、いつの間にか「自分の服を削ってでも守る相手」を、一人抱えることになっていた。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
ChatGPT




