第29話 選べない名前
『認証対象:鈴木』
『帰還経路候補:接続可能』
『同伴者を選択してください』
白い画面に浮かんだ文字を見た瞬間、時間が止まった。
帰還。
帰れる。
元の世界へ。
冷蔵庫があって、電気があって、雨の日に壁のある部屋で眠れる世界。
五十代無職で、何も持っていないと思っていたあの世界。
それでも、マリをさらおうとする男たちはいなかった。
薬草を乾かさなければ食べ物も手に入らない、なんてこともなかった。
「スズキ!」
ハルキの声が聞こえる。
「何してる! 動け!」
でも、身体が動かなかった。
画面には、見たことのない一覧が浮かんでいる。
文字は読める。
読めるのに、どこかおかしい。
『単独帰還』
『同伴者一名』
『同伴者複数:条件不足』
その下に、名前を入力するためらしい空欄。
空欄が、何度も明滅している。
同伴者一名。
たった一人。
「……ふざけるな」
俺は思わず呟いた。
マリを連れて帰れるのか。
それとも、帰るのは俺だけか。
ハルキを。
サヨを。
村の人たちを。
門の前にいる子どもを。
誰か一人しか選べないと言っている。
「AI!」
画面に向かって叫ぶ。
「何だこれ!」
返事はなかった。
いつもなら、すぐ淡々と答える声が出る。
今は沈黙している。
「AI!」
スマホの画面が、わずかに揺れた。
『接続要求を解析中』
『外部干渉を検出』
『音声応答機能:一時停止』
「外部干渉?」
石の門が、スマホに干渉している。
俺が選ばされているんじゃない。
門が、俺に何かを選ばせようとしている。
「スズキ!」
今度は、別の声だった。
石の前にいる子ども。
「……こわい!」
その叫びで、頭が戻った。
白い光の中で、子どもは足元を見て立ちすくんでいる。
罠の縄。
門から漏れる光。
近くには、混乱した男たち。
「ハルキ!」
「子どもを先に!」
ハルキは、倒れた男を避けながら叫んだ。
「俺が縄を見る! お前はその光を何とかしろ!」
「何とかしろって!」
「お前の道具だろ!」
「俺も今、初めて見た!」
白い画面が、また明滅する。
『同伴者を選択してください』
その表示が、子どもの影へ重なった。
まるで、今ここにいる誰かを選べと言っているように。
「違う」
俺はスマホを握り直した。
「選ばない」
画面は反応しない。
「聞こえてるか。俺は、誰か一人だけ選んで帰るために、ここまで来たんじゃない」
白い光が、少しだけ強くなる。
石の門の周囲で、男たちが悲鳴を上げた。
「止めろ!」
「玉が壊れたんじゃないのか!」
「案内人はどこだ!」
布で顔を隠した男は、光の玉の近くに立ったままだった。
こちらを見ている。
動揺していない。
むしろ、待っていたように見えた。
「鈴木」
男の声が、光の中でもはっきり届く。
「選べ」
「嫌だ」
「帰りたいだろう」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
「帰りたい」
俺は言った。
「でも、一人じゃない」
「お前は理解していない」
男は、ゆっくり首を振った。
「門は、一度に多くを通さない。帰還を望む者は一人。連れる者も一人。それが条件だ」
「誰が決めた」
「門だ」
「門に決められてたまるか」
男は、少しだけ笑った。
「では、ここに残るか?」
画面の文字が変わる。
『帰還経路候補:残り時間 00:01:48』
数字が減っていく。
「時間制限まであるのかよ」
手が冷たくなる。
一分四十八秒。
選ばなければ、何が起きる。
門が閉じるのか。
光が暴走するのか。
帰還の機会は、もう二度と来ないのかもしれない。
元の世界へ帰れる。
今、ここで。
頭の中に、昔の部屋が浮かんだ。
使いかけの洗剤。
テレビのリモコン。
冷蔵庫の中の、食べかけの惣菜。
何も特別じゃない生活。
それが、急に遠くて、眩しい。
でも、次に浮かんだのは。
「……スズキ」
焚き火の前で、初めて俺を呼んだマリの声だった。
「……スズキ」
森の中で、名前を覚えようとしていた声。
「スズキ」
村で、少し怖がりながらも俺の横を歩いていた声。
「……帰れない」
口から、言葉が出た。
画面の数字は、まだ減っている。
『00:01:21』
「俺は帰れない」
そう言うと、胸の奥がずきりと痛んだ。
未練がないわけじゃない。
帰りたくないわけでもない。
でも、マリを置いて帰ることはできない。
そして、マリだけを連れて帰ることもできない。
今、目の前にいる子どもを見捨てて。
ハルキやサヨや、村を置いて。
そんな帰り方をしたら、元の世界に戻っても、俺は何も取り戻せない。
「AI」
俺は画面へ言った。
「帰還を拒否する」
スマホは、しばらく反応しなかった。
それから、機械的な文字が表示される。
『帰還を拒否しますか?』
「する」
『単独帰還の権利を放棄しますか?』
「放棄する」
『確認:再接続の保証はありません』
「分かってる」
嘘だった。
分かっているようで、全然分かっていない。
二度と帰れないかもしれない。
でも、それでも。
「俺は、誰かを置いて帰らない」
画面が、白く弾けた。
『帰還経路候補:拒否』
石の門が、低く唸る。
ごおおおお……。
光が、一瞬だけ俺から離れた。
「何をした!」
布の男が、初めて声を荒げた。
「門を閉じたのか!」
「知らねえよ!」
「貴様!」
男が、こちらへ手を伸ばす。
「鍵が拒否すれば、門は不安定になる!」
石の円の内側で、光が乱れ始めた。
白い線が地面を走り、周囲の縄を焼くように切っていく。
ぱんっ。
子どもの足元にあった縄の一部が切れた。
「今だ!」
ハルキが飛び出した。
光に目を細めながら、子どものところへ走る。
見張りの一人が止めようとしたが、レオが投げた石が足元へ当たる。
「うわっ!」
男がよろめく。
ハルキは子どもの腕をつかんだ。
「走れるか!」
子どもは、震えながら頷く。
「走れ!」
二人が、右側の茂みへ走る。
「逃がすな!」
布の男が叫ぶ。
男たちが追おうとした、その瞬間。
石の門の中央から、白い光が大きく跳ねた。
どんっ。
地面が揺れる。
男たちの足が止まる。
白い玉を持っていた男が、光に弾かれたように後ろへ倒れた。
「玉を戻せ!」
「無理だ! 門が勝手に!」
白い光が、石の円をなぞるように走る。
そして、中央の黒い穴のような場所が、一瞬だけ別の景色を映した。
見慣れた蛍光灯。
白い壁。
棚に並んだ商品。
コンビニだった。
「……日本?」
声が漏れた。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、元の世界が見えた。
自動ドアの向こうを、誰かが歩いている。
何も知らない人たちが、普通に買い物をしている。
そこに戻れるはずだった。
でも、次の瞬間には光が歪み、景色は消えた。
石の門の中心が、黒く沈む。
門が閉じ始めている。
「スズキ!」
ハルキの声が、茂みの向こうから聞こえる。
「こっちだ!」
俺はスマホを握り、走り出した。
背後で、布の男が怒鳴る。
「逃がすな! 鍵を捕まえろ!」
男たちが動く。
でも、石の門が最後に大きく光った。
白い線が地面を走り、男たちの間を分断する。
倒木が一本、光に焼かれたように崩れ落ちた。
逃げ道が開く。
「レオ!」
「先へ!」
レオが俺の腕を引く。
俺たちは、茂みの中を走った。
背後で怒鳴り声がする。
追ってくる足音もある。
だが、門の光が消えると同時に、森は急に暗くなった。
闇が、追手と俺たちの間を切り離す。
しばらく走って、ようやく大きな岩の陰へ身を寄せた。
ハルキが、助け出した子どもを抱えるように支えている。
子どもは息を荒くしていたが、大きな怪我はなさそうだった。
「大丈夫か」
俺が尋ねる。
子どもは、俺を見る。
「……スズキ」
「そうだ」
「マリ、いる?」
心臓が、もう一度強く鳴った。
「マリを知ってるのか」
子どもは小さく頷いた。
「……いっしょ、だった」
「どこで」
「しろい、ところ」
ハルキとレオが、顔を見合わせる。
「白いところ?」
俺は、子どもの肩へそっと手を置いた。
「名前は?」
子どもは、少し考える。
忘れていたものを探すように。
昔の音を拾うように。
「……ナギ」
短い声だった。
「ナギ」
俺は繰り返す。
「そうか。ナギだな」
ナギは、目を閉じかけながら言った。
「マリ、まだ、あそこ?」
「ああ。村にいる」
「よかった」
その言葉を最後に、ナギは力が抜けたようにハルキへ寄りかかった。
「寝たか」
「たぶん、気を失った」
ハルキが言う。
「村へ戻るぞ。相手が追ってくる前に」
俺は頷いた。
だが、歩き出す前に、スマホが震えた。
画面には、さっきまでなかった表示が浮かんでいる。
『帰還経路候補:拒否済み』
『門の記録:一部取得』
『新規データを検出』
その下に、短い文字が表示された。
『接続先:複数』
俺は画面を見つめた。
一つだけじゃない。
この世界と元の世界をつなぐ門は、あの石の場所だけではない。
そして、その先にいる誰かが――。
まだ俺たちを見ている。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
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