第18話 火の中の異音
朝から、マリの様子がおかしかった。
といっても、泣いたり震えたりしているわけじゃない。
むしろ逆で、やけに落ち着きがない。
拠点の周りを何度も見回して、火のそばに座っても、すぐ立ち上がる。
「どうした」
「……おと」
「音?」
マリはうなずいた。
昨日の夜から、森の奥で時々、ぱきっと乾いた音がしていたらしい。
「獣かもしれないし、枝が折れただけかもしれない」
「……でも」
「気になるか」
「うん」
その返事は短いが、前よりずっとはっきりしていた。
今のマリは、気づいたことを気づいたまま言う。
それが、ちょっと頼もしい。
今日は村へ薬草を持っていく日ではなかった。
空き小屋の補修を少し進める予定だったが、俺も妙な胸騒ぎがしていた。
理由は分からない。
けれど、ただの気のせいと片づけるには、昨日から森が静かすぎる。
俺はスマホを取り出し、昨日の夜から拾えていた音の記録を確認した。
「何か残ってるか」
「夜間に複数回、乾いた枝折れ音に類似する音を記録しています。ただし、自然落下、動物、人間の歩行のいずれかは断定できません」
「いつものやつか」
「はい。断定不能です」
「だろうな」
スマホを胸ポケットに戻しながら、俺は森の奥を見た。
「少しだけ見る。深追いはしない」
「……どこ」
「音のした方だ。危なそうならすぐ戻る」
「うん」
マリは草履の紐を結び直し、俺の少し後ろへついた。
この距離感は、もうお互いに慣れている。
森の奥へ入ると、すぐに異変が分かった。
地面がわずかに荒れている。
枝が折れた跡も新しい。
それに、木の根元に、見覚えのない布の切れ端が引っかかっていた。
「……これ」
俺はそれを拾い上げた。
村で見た布より、少し粗い。
色も違う。
誰かの服の一部らしい。
「スズキ」
「静かに」
マリが息をのむ。
俺はさらに先を見た。
少し開けた場所に、小さな焚き火の跡がある。
しかも、まだ完全には冷えていない。
灰の下に、ほんの少しだけ赤いものが残っている。
誰かが、ついさっきまでいた。
「人だな」
「……だれ」
「分からん」
俺は膝をつき、焚き火の跡をスマホで撮った。
「記録しておく。村で聞いた方がいい」
「灰の温度と煙の残り方から、使用後それほど時間は経過していない可能性があります」
「今も近くにいるかもしれないってことか」
「その可能性があります」
そのとき、火のそばの土に、何か長いものが落ちているのが見えた。
近づいてみると、それは折れた細い木の棒だった。
先端に黒い煤がついている。
「何か燃やしてたのか」
俺がそう言った瞬間だった。
少し離れた茂みが、がさりと動いた。
「っ」
マリが俺の袖をつかむ。
俺は即座にしゃがみ、彼女を後ろへ押した。
枝の陰から、小さな影が飛び出す。
ウサギだった。
だが、ただのウサギじゃない。
後ろ足に何かが絡んでいる。
細い縄だ。
それも、蔓を適当に結んだものではなく、ちゃんと輪になるよう作られていた。
「罠か」
「……うさぎ」
「そうだ。誰かが仕掛けたんだろう」
ウサギは足を引きずりながら、茂みの奥へ逃げていった。
それを追うか、一瞬だけ迷った。
だが、俺は動かなかった。
罠があるということは、近くに仕掛けた人間がいる。
迂闊に動けば、今度はこちらが見つかる。
そのとき、森の向こうから低い声がした。
「おい、そっちに行ったか」
男の声だった。
若い。
ハルキより少し荒い。
聞き覚えはない。
「……隠れろ」
マリを木の陰へ引く。
俺たちは息をひそめた。
やがて、枝をかき分けて二人の男が現れた。
一人は痩せ気味で、もう一人は肩が広い。
どちらも村の人間ではなさそうだった。
服装が違う。
村で見た布より、少し荒く、汚れも目立つ。
「逃げたな」
「足にかかったはずだろ」
「緩かったんだよ」
痩せた男が足元の罠を見て舌打ちする。
「せっかくここまで来たんだ。薬草の場所くらい見つけて帰らないと割に合わねえ」
その言葉で、俺は理解した。
こいつらは、村の人間じゃない。
村の外の、別の連中だ。
しかも、ただ迷い込んだのではない。
森の資源を探している。
「……スズキ」
「声を出すな」
マリは俺の服をきゅっとつかんだ。
普段なら黙って見ているところだが、今はかなり危険を感じているらしい。
男たちは焚き火の跡を見てから、周囲をざっと探った。
そのうちの一人が、地面に落ちていた別の布切れを拾い上げる。
「誰か通ったな」
「村のやつか?」
「さあな。けど、最近ここを使ってるやつがいる」
「先に見つかってたら面倒だな」
そのやり取りだけで十分だった。
こいつらは、薬草採りの村人を警戒している。
つまり、村の採取場を狙っている可能性がある。
俺は背中に冷たいものを感じた。
これまでの「森の外の気配」は、ただの不穏ではなかったのかもしれない。
男たちが少しこちらへ近づいた、その瞬間。
マリが、足元の小石を踏んでしまった。
カラン、と乾いた音がした。
森の中では、やけに大きく響いた。
「……っ」
男たちの動きが止まる。
「誰だ」
痩せた男がこちらを見る。
次の瞬間、俺はマリの手を引いて走り出した。
「走れ!」
「うん!」
足場は悪い。
それでも、止まるわけにはいかない。
背後で男たちの声が重なる。
「おい、いたぞ!」
「待て!」
枝が顔をかすめる。
マリは転びそうになりながらも、必死でついてくる。
草履が泥をはね、息が荒くなる。
森の中を抜ける途中、俺は一瞬だけ振り返った。
男の一人が、何かを拾い上げようとしているのが見える。
だが、それより早く、前方の茂みが揺れた。
「伏せろ!」
俺が叫ぶより先に、別の影が飛び出した。
今度は一人じゃない。
村の人間だ。
棒を持ったハルキが、低い姿勢で男たちの前に立っていた。
「やっぱりいたか!」
その声は、怒っていた。
驚きと、確信の混じった怒りだった。
男たちは足を止める。
ハルキの背後には、サヨと、見覚えのある年配の男もいる。
どうやら、雨上がりの草と小屋の様子を見に来る途中で、騒ぎを聞きつけたらしい。
「鈴木、こっちだ!」
ハルキが叫ぶ。
俺はマリを引きながら、なんとか村の人間の側へ滑り込んだ。
息が苦しい。
だが、まだ終わっていない。
痩せた男が、舌打ちしながら後ずさる。
「ちっ、村の連中か」
「森で何してた」
ハルキが棒を構えたまま問う。
「罠を仕掛けて、薬草の場所を探ってたのはお前らだな」
「証拠でもあるのかよ」
言い返す声は強いが、目は泳いでいる。
どう見ても、長居する気はない。
そのとき、サヨが俺たちの横へ来た。
「怪我は」
「ない。けど、追われた」
「そう」
それだけ言って、サヨは森の奥を睨んだ。
そして、低く呟く。
「この辺り、最近変だったのはそいつらのせいか」
男たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
だが、次の瞬間には、森の奥へ退くように後ずさる。
「今日はやめだ」
「待て」
ハルキが一歩出る。
だが、相手はすでに距離を取っていた。
「場所はだいたい分かった。次は邪魔されねえようにする」
そう吐き捨てると、二人は林の奥へ消えた。
残った空気は、嫌なほど静かだった。
俺は膝に手をつき、荒い息を整える。
マリは俺の袖をつかんだまま、まだ目を見開いていた。
「大丈夫か」
「……うん」
「怖かったか」
「……うん」
「それでいい」
ハルキがこちらへ来る。
「無茶するなと言っただろ」
「言われた」
「言われたなら、もう少し逃げ方を考えろ」
「すまん」
「……まあ、無事ならいい」
ハルキはため息をつき、それから森の奥を見た。
「今の連中、村の外で薬草や獣を狙ってるやつらだ。前から気配はあったが、やっぱり近くに来てたか」
「村を狙ってるのか」
「正確には、村が使ってる場所を奪いたいんだろう」
その言葉で、今日の出来事が一気に線でつながった。
森の不穏。
足音。
焚き火の跡。
小さな罠。
全部、こいつらの影だった可能性がある。
「空き小屋、使えるね」
サヨが静かに言った。
「今日みたいなことがあるなら、あそこはただの保管場所じゃない。森の出入りを見る場所にもなる」
「見張りか」
「大げさに言えばね。少なくとも、気づく場所にはなる」
それを聞いて、俺は息をのんだ。
空き小屋は、ただ薬草を乾かす場所じゃない。
村の外れで、森から来る何かを見つけるための場所にもなる。
「鈴木」
ハルキがまっすぐ俺を見る。
「次から、薬草を持ってくるときは一人で森をうろつくな。村の外れでもいい。誰かと一緒に動け」
「分かった」
「本当に分かったなら、今度は無茶をするな」
「努力する」
「それが一番信用ならない」
その返しに、サヨが小さく吹き出した。
マリも、ようやく少しだけ息をつく。
帰り道、マリはいつもよりずっと静かだった。
でも、ただ怖がっているだけではない。
何かを見て、何かを覚えようとしている顔だった。
「スズキ」
「なんだ」
「……ひと、こわい」
「ああ」
「でも」
「でも?」
「まもる、いる」
その言葉に、俺は少しだけ喉がつまった。
「そうだな」
村の人間が来た。
追い払った。
けれど、森の奥にはまだ連中がいるかもしれない。
そして、空き小屋はただの仕事場では済まなくなった。
拠点へ戻るころには、もう夕方だった。
空は赤いが、気分は晴れない。
俺は火を起こし、スマホを開いて、さっき見た布切れや罠の形を記録した。
相手が何者か、まだ完全には分からない。
だが、少なくとも「敵意のある人間」が森の近くにいる。
「スズキ」
「ん?」
「また、くる?」
マリの声は小さい。
だが、怖がりきってはいない。
「たぶんな」
「……なら、こわい」
「怖いなら、備える」
「うん」
そのとき、焚き火の中で、枝がぱきっと鳴った。
ただの火の音。
そう思った直後、スマホの画面が静かに明るくなった。
「周辺音声の記録に、先ほどの会話以外の断片が残っています」
「何だって?」
「焚き火音と重なっており不明瞭ですが、複数の人声が記録されています。語句として、『場所』『小屋』『次』に近い音が含まれています」
俺の背中が、さっと冷えた。
小屋だ。
空き小屋のことか。
それとも、拠点の方か。
火のはぜる音だけが、小さく聞こえていた。
原案・構想
無職のおっさん
物語構成・本文作成
Perplexity
校正・文体調整
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