第七話 ひなたの転校ノート
ひなたのノートを見たのは、偶然だった。
木曜日、三時間目のあとの休み時間に、しおりが図書室から教室に戻ると、ひなたの机の上に一冊のノートが開いたまま置いてあった。ひなたはまだ戻っていなかった。
しおりは自分の席に座ろうとして、ふと目が止まった。
ノートのすみに、名前がいくつも書いてあった。岡田さん、中村くん、李さん。その横に、小さな丸や星のしるしがついている。授業のメモではなさそうだった。
しおりはすぐに目をそらした。
見てはいけないものを見てしまった、という感じがした。でも、一度見た字は消えなかった。あれは、友だちの名前を書き留めたものかもしれない。たくさんの学校の、たくさんの名前。
ひなたが転校を繰り返してきたことは知っていた。でも、名前を書き留めているということを、しおりは知らなかった。
四時間目が終わり、給食の時間が過ぎた。
昼休みになると、ひなたはいつもなら真っ先に「ひみつ図書室行こう」と言いに来る。けれど今日は、すぐに教室から出ていった。しおりは少ししてから、一人でろうかに出た。
ひなたは昇降口の近くのベンチに座っていた。足元にランドセルを置いて、中を何度も探していた。
「ひなたちゃん」
ひなたは顔を上げた。いつもと同じ明るい顔を作ろうとして、でも少し遅かった。
「あ、しおり。ごめん、今日は図書室行けないかも。ちょっと探しものがあって」
「探しもの?」
ひなたは足元のランドセルをぎゅっと押さえた。
「転校ノート」
「転校ノート?」
「前の学校の友だちのことを書いてるノート。名前とか、好きだったこととか、最後に話したこととか」
しおりは、机の上に開いていたノートを思い出した。
「机の上にあったノートじゃないの?」
ひなたの顔が、一瞬固まった。
「見た?」
「少しだけ。名前が書いてあるところだけ。ごめんなさい」
ひなたは、ランドセルに視線を落とした。
「それは、ただのメモ。転校ノートに書く前に、忘れないように書いてたやつ」
「じゃあ、探してるのは、そのノートじゃないんだ」
「うん。本当の転校ノート。ずっと使ってる方」
ひなたは少しの間、だまっていた。それから、ベンチの横をぽんと叩いた。
「座っていいよ」
しおりはとなりに座った。
ひなたはランドセルを膝の上に置いたまま言った。
「転校、何度もしたんだ。幼稚園の頃から、ほぼ毎年。お父さんの仕事の都合で」
「うん」
「最初の頃は、転校するたびに友だちが増えるって思ってた。新しい学校に行けば、また新しい子に会えるから」
しおりは何も言わずに聞いていた。
「でも、段々わかってきた。増えるんじゃなくて、置いてくるんだって。また会えるって思っても、だんだん連絡も減って、結局いなくなる。だから書き留めることにしたんだよね。忘れたくないから。でも、書けば書くほど、また増やすのが怖くなって」
「怖い?」
「ここが好きになりすぎたら、また離れるときにつらい。だから、最初からあんまり好きにならなければいいって、どこかで思ってた」
しおりは、ひなたが毎日明るく笑っているのを思い出した。
初日からクラスになじんで、誰にでも話しかけて、楽しそうにしていた。でもその明るさの裏に、こういう気持ちがあったのか。
「転校ノート、昨日から見当たらなくて」
「どこかに置き忘れたの?」
「かもしれない。でも、ランドセルの中に入れてたはずで」
「それ以外は?」
「……分からない」
しおりはひなたに「少しだけひみつ図書室に行ってくるね」と言って、その場所に向かった。
ページに話すと、房がゆっくり揺れた。
「ひなたちゃんのノートがなくなったみたいで」
『知っておる』
「どこにあるか、分かりますか」
ページは少し間を置いてから、文字を浮かべた。
『なくした場所と、なくした理由は、別のことがある』
しおりはその言葉を繰り返した。なくした場所と、なくした理由は、別のこと。
「つまり……ひなたちゃんは、なくしたくてなくしたかもしれない?」
ページは何も書かなかった。金色の房が、ゆっくり一度揺れた。
しおりは、ひなたが話してくれたことを思い出した。好きになりすぎるのが怖い。また離れるときがつらい。だから最初からあんまり好きにならなければいい。
でも、ひなたはこの学校が好きになっていた。ノートに名前を書き続けていた。それが怖くなって。
「自分で、どこかにしまった。見たくなくて」
ページはまた、ゆっくり房を揺らした。
しおりはひなたのところへ戻った。
ひなたはまだベンチにいた。
「ひなたちゃん、一つだけ聞いてもいいですか」
「なに」
「ノート、本当になくなったの?」
ひなたは、しおりを見た。
しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。笑いたくて笑ったのではない、という顔だった。
「……ランドセルの一番奥に入れた。見ないようにしようと思って」
「うん」
「でも、見ないようにしたら、なくなった気がして、余計に怖くなって」
しおりはうなずいた。
「隠したつもりが、本当になくなる方が嫌だった」
「そうだね」
「しおりに分かるの、そういうの」
「少し分かる気がする」
ひなたはランドセルを見た。
「あたし、また転校するかもしれない。まだ決まってないけど。今までの経験上。だから怖くて」
しおりは少しの間、どう言えばいいか考えた。大丈夫、と言うことは簡単だ。でも、それは本当のことかどうか分からない。転校するかもしれないことは、大丈夫じゃないかもしれない。
「ひなたちゃんが転校しても、わたしは忘れないよ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。でも、本当のことだから、取り消さなかった。
「わたし、ノートに書くほどちゃんと覚えられるか分からないけど。でも、ひなたちゃんのことは忘れない」
ひなたは下を向いた。
しばらく何も言わなかった。
それから、少し泣きそうな顔で、笑った。
「しおり、またすごいこと言ってる」
そのあとノートをランドセルから出して、膝の上に置いた。
「捨てるのは嫌だったんだよね、本当は。ただ、見るのが怖かっただけで」
「うん」
「このノート、続けて書いていいかな」
「もちろんだよ」
ひなたはノートを開いた。一番新しいページに、ゆっくりと書き始めた。
しおりは横から覗かなかった。でも、ひなたの手が動いているのは見えた。
放課後、ひみつ図書室でページに報告した。
「ノート、見つかりました。というか、最初からあったんですけど」
『そうじゃな』
「ページは知ってたんですか、最初から」
『知っておった』
「なぜ教えてくれなかったんですか」
『読書係が自分で気づかねば、意味がない』
しおりは少し考えて、「そうですね」と言った。
ページに答えを教えてもらっていたら、ひなたに聞くことができなかった。聞かなければ、ひなたが話してくれることもなかった。
「ひなたちゃん、またそのうち転校するかもしれないって言ってました」
ページは少しの間、静かにしていた。
『それでも、今ここにおる』
「うん」
『今ここにおる者のことを、今ここで考えるのが、読書係の仕事じゃ』
しおりはその言葉を、ゆっくり受け取った。
先のことを心配するより、今日のひなたが少し楽になったなら、それでいい。それが、今日できたことだった。
窓の外に、夕方の光が伸びていた。だいだい色のカーテンが、やわらかく揺れていた。




