第45話 完全に切れた糸と、生まれて初めての号泣
最悪の気分で日雇い仕事を終え、俺はトボトボと家路についていた。
アルバイト先の倉庫は最寄り駅のすぐ近くにあるため、バス代をケチる意味でも、いつも徒歩通勤だ。
どんよりとした頭でいつもの角を曲がり、古びた我がアパートが見えた、その時だった。
アパートの階段の手前に、一人の女性がぽつんと佇んでいた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
メガネをかけていて、服装は色の薄いジーンズにグレーのトレーナー。
遠目から見ても、お世辞にも華やかとは言えない地味な印象だ。
その女性はゴミ置き場の前に立ち、じっと斜め上――つまり、俺の部屋である203号室の窓を見上げている。
(……私服警察か? やっぱり捜索願が出されていて確かめに来たのか?)
背筋に嫌な汗が流れる。
俺はもちろん話しかけるような真似はせず、存在感を完全に消して彼女の脇を通り過ぎた。
アパートの狭い階段を、できるだけ足音を立てないように登る。
何事もなく自分の部屋のドアの前にたどり着き、鍵穴に手をかけた、まさにその時。
「あの……。佐藤さん、ですか?」
静かだが、ひどく切羽詰まったような声が背後から耳に飛び込んできた。
ゆっくりと振り返る。
いつの間にか階段を登ってきていた先ほどの女性が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
俺は、ついに年貢の納め時かと観念した。
「はい……。そうです、佐藤です。あの、色々とご迷惑をおかけしちゃってますよね……。その、ちょっと急な旅行というか、長旅に出ていまして、つい先日戻ってきたばかりなんです」
おそらくこれから警察署に連行されて、四ヶ月もの失踪についての事情聴取を受けることになるのだろう。
実家の両親や、クビになったはずの会社にも連絡がいって……、きっと大ごとになるに違いない。
あぁ、本当に面倒くさいことになったな……。
そうやって俯いていた俺に、彼女は思わぬ言葉をぶつけてきた。
「ユキホちゃん。ユキホちゃんは、一体どこに行ってしまったんですか!?」
「……え?」
脳の理解が追いつかない。
「私、ユキホちゃんとすごく仲良くしていたんです! でも、四ヶ月くらい前から、急に連絡が取れなくなってしまって……。私、またユキホちゃんに会いたいんです! お願いです、会わせてもらえませんか!」
「あの、すみません……。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
そう問いかけると、彼女はハッと我に返ったように深く頭を下げた。
「あっ、申し訳ありません! 田中と申します。田中未散です」
タナカミチル、タナカ……。
(あ、この人が……噂の『タナカさん』だ!)
よく見ると、近所のコンビニによくいるレジのお姉さんじゃないか。
「あのっ、ユキホちゃんは今、どこにいるんですか!?」
詰め寄ってくるタナカさんの瞳は、尋常ではないほど必死だった。
よっぽどユキホのことを気にかけてくれていたのだろう。
そりゃそうだ。
常識的に考えて、十歳前後の幼い少女が親の姿もなく、スマホ一つ持たされてたった一人で街をさまよっているのだ。
平日の昼間からコンビニに現れるということは、学校にすら行っていないということになる。
心配をするのは当然だ。
すると、タナカさんは急にその場にガクリと膝をついた。
彼女の目からは大粒の涙が溢れ、ボロボロと地面にこぼれ落ちていく。
「ユキホちゃん……ユキホちゃん……っ……」
嗚咽を漏らしながら、ただひたすらにユキホの名前を呼び続ける彼女の姿を見て、俺の胸の奥が、じんわりと温かいものに満たされていくのを感じた。
ああ、この人は。
ただの「迷子の子供を心配する大人」なんていう表面的な義務感じゃなく、もっと深いところで、純粋にユキホという一人の人間を大切に思ってくれていたんだな。
俺のいない三ヶ月間、ユキホはひとりぼっちだったわけじゃなく、この優しいタナカさんに救われていたんだ。
そう思うと、なんだか自分のことのように嬉しかった。
会わせてあげたいな、と素直に思った。
ユキホだって、ことあるごとに「タナカさんが、タナカさんが」って言っていたんだ。
もし再会できたら、絶対に、飛び上がって喜ぶはずだ。
ユキホにタナカさんを会わせてあげたい。
ユキホを喜ばせてやりたい。
ユキホの弾けるような笑顔が見たい。
俺がそう心から強く願い、タナカさんの姿を視界に納めたその時だった。
タナカさんが座り込む虚空の周りに、陽炎のような「光の輪」が出現した。
俺があの世界で宝箱を見つけアイテムを獲得した時、そしてお蘭ちゃんたちの前に「至高の苺ショート」を具現化させた時と、全く同じゲームシステムの光だ。
「え……? 何、これ……っ?」
涙を浮かべたタナカさんが、自分を包み込む光の輪に驚き、目を丸くする。
輪が閉じると同時に――地面にへたり込んでいたタナカさんの姿が、跡形もなく綺麗に消え去った。
「んなっ!?」
アイテム格納と同じ要領で、俺はタナカさんを、あの戦国システムの世界へと強制転送してしまったのか?
「うわぁぁぁ! タナカさん! 本当に、本気でごめんなさい……!!」
なんの断りもなく、心の準備すらさせず、地味なトレーナー姿のまま異世界へすっ飛ばしてしまった。
彼女にだって、現代日本に大切な家族がいるはずだ。
いつまでも帰ってこない娘を、親御さんがどれほど心配されるか。
親御さんに一言伝えるって言っても、そもそもタナカさんの家がどこにあるのかすら知らないし、仮にわかったとして「娘さんは私のチート能力の暴走で戦国時代に行きました」なんて言えるわけない。
俺の時は、どうも死んだら現代に戻ってこられたので、「だから、あっちで死んだら戻ってきますよ」なんて、そんな説明が通用するわけもない。
あー……マジでごめんなさい……。
せめて、飛ばされた先が、俺の時と同じような山奥じゃありませんように……。
……待てよ。
何だ、俺が現代に戻ってきたということは、代わりに誰かがあの世界に行かなければならなかったということなのだろうか?
戻ってきた俺の役割。
つまり最後の役割は、「新たな救世主」を、あの世界に送り届けることだったのではないか。
だとすれば。
俺のプレイヤーとしての、そして「救世主」としての役目は、これで名実ともに、完全に終わったのだ……。
戻れることはないと思ってはいた。
こうして現代のライフラインを繋ぎ、オタクグッズを売り払って日雇い労働に甘んじている時点で、あの異世界との繋がりの感覚は薄れてさえいた。
けれど、これでその糸が完全に切れたと、突きつけられた気がした。
もう二度と、無邪気な笑顔を見ることはできない。
もう二度と、あのモチモチした頬を愛でることはできない。
もう二度と、俺を「主」と呼んでくれる仲間たちの元へ還ることは叶わない。
擬態用ジャケットの袖で顔を覆った瞬間、目頭から、せき止めていたダムが決壊したかのように、涙がボロボロと溢れ出してきた。
静まり返ったアパートの玄関の前で、俺は生まれて初めて号泣した。




