第43話 さらば我が青春、こんにちは日雇い労働
翌朝、泥のような眠りから目覚めるのと同時に、枕元に転がっていたスマートフォンを手に取る。
画面は真っ暗なままだ。
昨夜は支払いをすませるだけで精一杯で、充電することすら忘れてベッドに倒れ込んでしまっていたのだ。
俺は寝そべったまま、ベッドの脇を手のひらでまさぐる。
壁のコンセントに差しっぱなしの充電ケーブルがあるはずだ。
指先に懐かしいビニールの感触、手応え通りにコードを手繰り寄せる。
スマートフォンの端子に差し込むと、しばらくして画面に光が灯り、お馴染みの起動ロゴが立ち上がった。
充電が開始されたということは、電気の供給も無事に再開されたという証拠だ。
アンテナのマークは、しっかりと電波を受信している。
俺は起き上がり、重い足取りでキッチンへと向かった。
水道の蛇口をひねる。
ゴボゴボと不気味な音を立てた後、勢いよく透明な水が流れ出した。
コンロのスイッチを回すと、パチパチパチという点火音と共に青い炎が綺麗な円を描く。
「……よし。一通り開通してるな」
張り詰めていた緊張が解け、心の底からホッと胸を撫で下ろした。
ひとまずは、最低限の生活環境を取り戻せたわけだ。
不意にタバコが吸いたくなった。
実を言うと、俺は普段は進んでタバコを吸う人間ではない。
いわゆる「飲み会限定の、付き合いスモーカー」というやつで、その場のノリで買い、数本だけ吸って残りを持ち帰る――そんなことを繰り返していた。
「確か、あの引き出しに……」
案の定、デスクの引き出しの奥に、数本だけ中身が残ったタバコの箱がいくつか転がっていた。
そのうちの一本を引っ張り出して咥える。
使い捨てライターの炎が爆ぜ、紫煙が揺らめいた。
深く吸い込み、肺に溜まった淀んだ空気を吐き出すようにゆっくりと煙を吐き出す。
ささくれ立っていた心が、落ち着きを取り戻していくのを感じた。
自分の部屋を改めて見渡す。
数ヶ月ぶりに戻ってきた我が家は、ひどく無機質で、どこか遠い過去の遺物のようだった。
それと同時に、奇妙な違和感が胸の奥で燻り始める。
ユキホは、俺のスマホを使ってこの部屋で三ヶ月近くも生活をしていたと言っていた。
ジャンクフードを貪り、動画配信サービスを一気見し、現代文明をこれでもかと謳歌していたはずだ。
それなのに部屋の中は、俺が転移したあの日から驚くほど何も変わっていない。
(……本当に、ユキホはここで暮らしていたのか?)
(そもそも、俺は本当に、あの戦国世界に行っていたのだろうか?)
すべては、長く都合の良い「白昼夢」だったのではないか。
そんな疑念が頭をもたげる。
昨日目覚めた時、俺が身にまとっていた服装は、スーツのズボンにワイシャツ、そしてくたびれたジャケットだった。
川の濁流に呑まれ、岩に激突したはずの身体には、その痕跡を示すような傷一つ残っていない。
机の上に置いたスマートフォンに目をやる。
ホーム画面に表示された日付が、視界に飛び込んできた。
【9月24日(木) 11:30】
俺があの世界に転送されたのは、確か五月の中旬、三十八歳の誕生日の夜だ。
あれから約四ヶ月の歳月が流れている。
ポストに溢れ返っていた数々の督促状を見れば、時間が経過していることは疑いようのない事実だ。
もし、俺がただ部屋のベッドで気絶していただけだとしたら、四ヶ月間も生き延びられるはずがない。
「……やっぱり、幻なんかじゃない。俺は間違いなく、あの世界にいたんだ」
あちらでのカヨやユキホとの生活が、朝秀たちと泥にまみれて笑い合った日々が……、どれほど現実味を欠いたファンタジーに思えようとも、俺は確かにあの戦国世界で生きていたのだ。
だが、どんなに過去を振り返ろうとも、俺は今、現代に戻ってきてしまった。
あっちの世界に飛ばされ、見知らぬ山奥の巨木の下で目覚めた時と、感覚的には全く同じだ。
右も左もわからない荒野に生身で放り出されたような、圧倒的な頼りなさ。
「さてと……。これからどうしよっかな……」
誰もいない部屋に独り言が落ちる。
これからのことを考えると、頭が痛い。
タバコの煙を、もう一度ゆっくりと吐き出す。
まず直面すべき現実は、仕事(会社)の件だ。
四ヶ月近くも無断欠勤したのだ。言うまでもなく、会社はとっくの昔にクビになっているに決まっている。
社会人のマナーとして、一報くらい入れるべきなのだろう。
多少なりとも心配をかけているかもしれない。
「……いや、無理。面倒くさいし、何よりちょっと怖い」
もし万が一、捜索願的なものが提出されていたとしたら、いずれ何らかの形で警察の世話になるはずだ。
その時はその時で、大人の事情という名の「流れ」に身を任せればいい。
今は自ら進んであのストレスの泥沼に飛び込む気にはなれない。
とにかく、最優先すべきは目先の生活費だ。
サブ口座の十五万円で今月の督促状はすべて処理できたが、それはあくまで過去の清算に過ぎない。
来月分の家賃、光熱費、日々の食費……。
タイムリミットは、すぐそこまで迫っている。
改めて、部屋の壁際に視線を向けた。
ふと、そこにある「莫大な資産」の存在に気がつく。
そうだ。俺は、スマホゲーム『戦国乙女☆プリンセス』の熱狂的なファンであり、自他ともに認める重度のアイテムコレクターだった。
約三十年間に渡る筋金入りのオタク人生。
部屋のクローゼットや棚には、今まではまってきたコンテンツの限定フィギュアやポスターをはじめ、これまで人生のすべてを捧げて買い集めてきた貴重なグッズの山が、厳重に保管されている。
「……どうしようかな」
一抹の寂しさと、自分の半身を切り売りするような躊躇いが襲ってくる。
これらは俺の青春そのものであり、心の拠り所だったのだから。
だが、背に腹は替えられない。生き延びるためだ。
俺はスマートフォンを操作し、ネットで出張買取店を検索した。
段ボールに詰めて送るタイプの店ではなく、部屋まで直接引き取りに来てくれる大手の買取サービスに、最短の日時で買取依頼を送信する。
「あとは……やっぱり、何でもいいから仕事をしなくちゃな」
今から普通に正社員の再就職先を探し始めるのも、色々な意味で現実的ではない気がする。
俺は再度スマートフォンを操作し、即日働けて、給与がすぐに振り込まれるという、今どきのアルバイト斡旋サービスにアカウントを開設した。
身分証の登録を済ませ、明日からでもすぐに働けそうな案件をいくつか見つけ、片端から申し込みのボタンをタップしていく。
画面に『応募が完了しました』という無機質な通知が表示される。
スマホの画面を消し、静まり返った部屋の中でぽつんと立ち尽くす。
督促状の処理、コレクションの売却手続き、そして明日からの日雇いバイトの確保。
「ああ……。俺、本当に、こっちの世界に戻ってきたんだな」
胸の奥から、諦めとも、納得ともつかない、深いため息が漏れた。




