第42話 戦国世界からの帰還と、社会的抹殺の危機
「ううっ……」
頬に触れる、ひどく柔らかくて心地のよい感触。
……ここは、どこだ?
もしかして、これが噂に聞く天国ってやつだろうか?
脳裏に、直前の記憶がフラッシュバックする。
雨の開墾地。新しく架けた木製の橋。
岩松に指摘された結合部を確認しようとした瞬間、背中に受けたとてつもない衝撃。
重力から解放され、咆哮を上げる褐色の濁流へと真っ逆さまに落下したあの浮遊感。
息もできず、強烈な水圧に手足を奪われ、泥水を肺に送り込まれながら上下左右の感覚を失った。
そして最後に、全身を激しく打ち付けられた凄まじい衝撃。
それ以降の記憶は、綺麗さっぱり途絶えている。
常識的に考えて、あの状況から生還できるなんてあるはずがない。
要するに、俺は死んだのだ。
薄目を開けてみるが、あたりは薄暗い。
だが、濁流の泥臭さは微塵もなく、なんだか妙に懐かしい、不思議と落ち着いた匂いが鼻腔をくすぐる。
「……ん?」
改めてしっかりと目を開いた俺は、己の目を疑った。
ここは、他でもない。
現代で俺が暮らしていた、あのアパートの部屋だ。
どうやら俺は、床に座り込み、ベッドに突っ伏した形で倒れていたらしい。
視線を這わせると、布団の上にポツンと、スマートフォンが転がっているのが見えた。
這いずるように手を伸ばして拾い上げ、画面をタップしてみるが、うんともすんとも言わない。
完全に充電が切れている。
その瞬間、背筋にヒヤリと戦慄が走る。
脳裏をよぎったのは、あのボロ納屋にユキホが現れた夜、彼女がドヤ顔で言い放ったあの台詞だ。
『ウー○ーもよく使ったわ。支払いは○イ○イよ』
彼女は、こちらの世界(現代日本)で約三ヶ月間を過ごしたと言っていた。
「ま、まさか……」
嫌な予感を振り払うように勢いよく立ち上がり、壁の電気スイッチをパチパチと乱暴に切り替える。
――つかない。
部屋は薄暗い闇に包まれたままだ。
慌てて外に出て一階の郵便受けへと駆け下りる。
手を突っ込んで中身を引っ張り出すと、案の定、そこには見たくもない文字が並んだ封筒の山があった。
『電気料金未納による供給停止予告』
『ガス供給停止のお知らせ』
『水道料金督促状』
『クレジットカードお支払いについてのご案内(重要)』
……
間違いない。
俺は、元の世界に戻ってきたのだ。
しかも、あの三十八歳の誕生日の夜に戦国世界へと強制転送された日から、三ヶ月以上が経過したこの現代日本に。
ポストの前で立ち尽くすうちに、パニックになりかけていた頭が、急激に冷えていくのを感じた。
「……これ、マジで人生のチェックメイト一歩手前じゃねえか?」
これだけの督促状が来ているということは、引き落とし口座の残高は、とうの昔にゼロになっているに違いない。
それだけではない。
三ヶ月以上、会社にも行かず、誰とも連絡が取れない音信不通状態だったのだ。
当然、俺の席なんて跡形もなく消え去っているだろうし、警察に捜索願(あるいは事案の重要参考人)として処理されている可能性すらある。
重い足取りで部屋に戻り、ベッドの脇に目を向ける。
そこに立て掛けられていたのは、使い古された通勤カバンだった。
藁にもすがる思いでカバンのファスナーを開け、手を突っ込んで中を漁ると、手になじむ革の感触――財布が出てきた。
恐る恐る中身を開く。
「……あった……!」
一万円札が三枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。それと小銭が少々。
合計、3万8千円。
そうだ、あの夜の俺は、翌日からユキナちゃんの新作フォトスナップのロケ地巡り(聖地巡礼)を計画していたのだ。
なので、現金を多めに用意しておいたんだった。
幸いなことに、ユキホはこの財布の現金には手をつけずにいてくれたらしい。
俺は、督促状と財布を掴み、近所のコンビニへと向かった。
途中、ふと思い出す。
「確か、もう一つ銀行口座があったはずだ……」
俺には、公共料金の引き落としに使っているメイン口座のほかに、もう一つ銀行口座があった。
長い間中身を確認していなかったが、いくばくかの預金は残っているはず。
コンビニの自動ドアをくぐり、一目散にATMへと向かう。
キャッシュカードを差し込み、暗証番号を入力する。
画面に表示された数字は――
15万3千4百円。
「生き延びた……!」
俺は引き出せる限りの現金を引き出すと、そのままレジへと直行した。
これで、目先の社会的抹殺(ライフライン停止)は回避できたはずだ。
この先、会社への言い訳や、大家さんへの説明など、考えただけで気が重くなる問題が山積みだが……今は、そこまで考えたくない。
緊張の糸が切れた途端、無慈悲な空腹に襲われた。
俺は店内を回り、かつて週四ペースでお世話になっていた、「特製唐揚げ弁当」と「ウーロン茶」をカゴに放り込んだ。
ふと、レジの手前にあるスイーツコーナーに視線がいく。
そこには、「至高の苺ショート」が並んでいる。
……なぜだろう、今はなんとなく、それを手に取る気にはなれなかった。
誰もいない暗い部屋に帰り、窓の外の街灯を眺めながら、数ヶ月ぶりの「現代飯」を口に運ぶ。
ケミカルで濃い味付けが、疲弊した身体に染みわたっていく。
食べ終えた俺は、そのままベッドへと倒れ込んだ。




