第41話 元保育士コンビニ店員、夜番終わりの秘密の散歩
「380円です。お会計は――Suicaですね。では、こちらが光りましたらタッチをお願いします」
自動ドアのチャイムと、機械的なレジのビープ音。
今日のシフトは十七時から二十二時までの夜番だ。かつて保育士をしていた頃は、こんな遅い時間帯に働くことなんてまずなかった。
短大を卒業して約七年間、それなりにやりがいを持って勤めていた保育園を、一昨年に諸事情あって退職した。
その後は実家に引きこもり、「家事手伝い」という名の自宅警備員を決め込んでいたのだが、さすがに見かねた両親が、家から徒歩十分の距離にある、このコンビニのバイトを勝手に決めてきた。
近所付き合いの延長線上で行われた、強制的な職業斡旋というやつである。
「田中さーん。そろそろ時間だから上がっていいよ」
バックルームから店長の声が響く。
待ち構えていた。
不意のお声がけでも何でもない、私は五分前から時計を見つめ、退勤へのカウントダウンを刻んでいたのだ。
「お疲れさまです!」
素早く制服から私服に着替え、店の外へと滑り出す。
夜の二十二時過ぎ。
駅前でもなんでもないこの辺りは、人通りは少なく、街灯の灯りだけが静かに伸びている。
私は自宅と反対方向に歩き出す。
防犯的な観点から言えば、女性の夜の独り歩きは推奨されない。
働き始めた当初は私もまっすぐ家に帰っていた。
どうせ帰ったところで、夕食はバイトの休憩時間に廃棄寸前のコンビニ飯ですませてしまっているし、あとはお風呂に入って寝るだけ。
退屈な日常だ。
表向きの理由は、運動がてらの散歩だ。
コンビニ飯中心の生活になってから、お腹のあたりが本格的に気になり始めたから、少し遠回りしてカロリーを消費しようという魂胆である。
けれど、私にはもう一つ、どうしても自宅と反対方向に足を向けずにはいられない理由があった。
お店から三十メートルほど進んだ十字路を右に曲がる。
右手側に見えてくる古い木造アパート。
建物の前には、住人のマナーが悪いのか、いつも不用品やゴミが出しっぱなしになっているゴミ置き場がある。
私はその前で、スニーカーの紐を結び直すフリをして立ち止まる。
そして、二階の一番手前の部屋――203号室を見上げる。
窓は閉ざされ、明かりはついていない。
「ユキホちゃん……」
私の胸を今も締め付けるのは、約四ヶ月前にコンビニのレジに突然現れた、一人の小さな女の子のことだ。
初めて彼女を見たとき、私の心臓は綺麗に撃ち抜かれた。
両手いっぱいにコンビニスイーツを抱えてレジにやってきた彼女は、まるでお人形さんのように整った容姿をしていた。
けれど、そのお会計の際、持参した現金では足りず、彼女は何か困ったようにずっとモジモジしていた。
その手には、一台のスマートフォンがしっかりと握られている。
そんな彼女に、スマホ決済の使い方を教えてあげたのが始まりだった。
それからというもの、彼女は毎日のように店にやってきた。
最初は、単調なアルバイト生活における「清涼剤」のような扱いだった。
けれど、あまりの頻度に少し心配になって、「ねえ、お家の人はどうしたの?」と尋ねたとき、彼女は寂しそうにこう答えたのだ。
『お父さんはいるけれど……帰ってくるのがとても遅いんです』
ピンときてしまった。
いや、元保育士としての能力なのか、解ってしまったのだ。
「間違いない、育児放棄だ!」と。
こんなに幼くて可愛い子を、毎日真っ暗な部屋でひとりぼっちにさせるなんて、その父親とやらは一体どんな神経をしているのだろう。
怒りと共に、私の保護欲メーターが限界突破した。
それから約三ヶ月間、私はバイトの休みの日をほとんど彼女と過ごすことに費やした。
一緒に街へ買い物に出かけ、「お腹が空いた」と言う彼女を連れて、黄色い看板のガッツリ系ラーメン屋にも行った。
信じられないことに、彼女はニンニクがマシマシになった太麺を、小さな口で幸せそうに完食してみせた。
最近の動画配信サービスの使い方を教えてあげたら、目を輝かせて喜んでいた。
『次は、映画を見に行きたいわ!』
そう言って笑う彼女と、翌週の約束も交わしていた。
私は男性へのまともな愛情を経験する前に、母性を大爆発させてしまったのかもしれない。
本気でそんなことを考えるほど、彼女の存在は私の一部になっていた。
それなのに彼女は、何の前触れもなく急に姿を消した。
何度か家まで送り届けたことがあったから、私は彼女の住まいを知っている。
このアパートの二階、一番手前の部屋だ。
あれから、仕事が終わるたびにこうして散歩と称してチェックしている。
けれど、彼女がいなくなって以降、この部屋の窓から明かりが漏れていたことは、ただの一度もない。
お父さんと一緒に、どこか遠くへ引っ越してしまったのだろうか。
それとも……。
考えても答えの出ない不安が、夜の冷気と相まって私の足元から這い上がってくる。
「……バカお父さん。ユキホちゃんを、ちゃんと幸せにしてあげてよね」
明かりのない部屋に向かって、私は小さく毒づいた。




