第4話 すごく気持ち悪いんだけど……まあ、もうこのおじさんでいいか
(なんなんだ、このおじさんは。人の顔をジロジロと見て。しかも、何か平べったくて黒い板のようなものを取り出して、こちらに向けている。なんだか、ものすごく気持ちが悪い……)
雪穂は、男のベッドの上で必死に寝たふりを続けながら、内心で激しく身悶えしていた。
トイレを借りた後、極度の緊張と疲労が解けたせいで、その場に倒れ込んでしまった。
けれど、男に抱きかかえられてこの不気味なほど柔らかいベッドへ運ばれたときには、すでに意識は戻っていた。
戻っていたのだが……目を覚ますタイミングを完全に失ってしまっていた。
なぜなら、自分を運んだ男──平太が、あまりにも異様な熱を孕んだ視線で、じっと自分を見つめ続けていたからだ。
雪穂には使命があった。
滅びの危機に瀕した己の国を救うため、異界から「救世主」となる人間を選び出し、送り届けること。
その大役を担ってこの見知らぬ世界へやってきたものの、現実は甘くなかった。
右も左もわからない世界。
身を寄せる宿はおろか、食べ物ひとつ口にできない。
挙句の果てには、紺色の服を着て妙な帽子を被った役人のような男(警察)に、執拗に追いかけ回される始末。
雪穂は空腹といつ捕まるかわからない恐怖に怯え、ほとほと疲れ果てていたのだ。
(父上、こういう大事なことは、ちゃんと教えておいてよ……!)
本当なら、じっくりと時間をかけて、救世主にふさわしい、心優しく勇敢な者を選ぶべきなのだろう。
けれど、今にも行き倒れそうな自分に、そんな余裕があるはずもない。
そもそも、この世界の人間を観察したところで、その者が本当に「ふさわしい人」かどうかなんて、どうやって見分ければいいというのか。
そんな限界の状態で立ち尽くしていたとき、たまたま声をかけられたのが、この男──平太だった。
男は、見ず知らずの自分を邪険にせず、冷たくて甘い不思議な菓子を差し出してくれた。
さらに、快くトイレまで貸してくれ、今は柔らかいベッドに寝かされている。
そこだけを切り取れば、間違いなく彼は悪い人ではない。恩人と言ってもいい。
だけど──。
ベッドに横たわる自分を、トロンとした締りのない目で見つめ続けている今の状況は、どう好意的に解釈しても「気持ちが悪い」の領域に達していた。
雪穂の胸の内で、激しい葛藤の嵐が吹き荒れる。
(なんだかすごく気持ち悪いんだけど……。でも、もうこの人でいいんじゃない? 少なくとも食べ物をくれたし、悪い人ではない……はず。別の人を探すなんて、今の私には絶対に無理だよ……)
本当にこの男で大丈夫なのだろうか?
こんな奇妙な男に、一国を救うなんて大それた真似ができるのだろうか?
雪穂はまつ毛の隙間から薄目を開けて、改めて平太の様子を確認した。
男は相変わらず、気味の悪い薄笑いを浮かべ、こちらを見つめ続けている。
実は、救世主を送ったからといって、雪穂が元の世界に戻れるわけではない。
こちらの世界から人間を送り出した後、送り出した人間と同じ世界へ渡るための条件。
それは、送られた人間が、あちらの世界で雪穂のことを求め、呼び出してくれること。
(この、穴が空くほど私を見つめ続けている男なら……)
これほど執念深く自分を見つめ続けているのだ。
あちらの世界に飛ばされた後も、自分のことを忘れずにいてくれるに違いない。
できることなら、自分も元の世界へ帰りたい。
再び薄目を開けて様子を伺うと、平太はベッドの端に突っ伏し、静かに寝息を立てていた。
どうやら、眠ってしまったらしい。
無防備に晒された男のつむじを見つめながら、雪穂は小さく息を吐き出した。
(……もう、いいか。この人で)
覚悟を決めた雪穂は、頭の中で静かに呪文を唱え始める。
すると、平太の体の周りに、陽炎のようにゆらゆらと歪む光の輪が現れた。
光の輪は平太の体を優しく包み込み、次の瞬間、吸い込まれるようにして、平太の姿は寝室から完全に消失した。
静まり返った部屋。
雪穂はゆっくりと身体を起こし、平太が寝ていた場所にぽつんと残された「黒い平たい箱」に手を伸ばし、それを取り上げてみる。
不意に、平たいガラスの画面がピカリと光を放った。
そこには『5月15日(金)22:30』と表示されている。
不思議に思いながら、指先でその画面に触れてみる。
すると、まるで魔法のように画面が瞬時に切り替わり、今度はカラフルな四角い絵が、板の上にずらりと並んで浮かび上がった。
「わあ……。すごい、けど……何これ?」
指を動かすたびに滑らかに反応する未知の道具を前に、雪穂の胸に感動に近い好奇心が湧き上がった。
しかし、それも長くは続かない。
極限に達していた身体の疲労が、怒涛の勢いで彼女を襲ってきたのだ。
「……だめ。もう、限界……」
手に持ったスマートフォンを枕元に置くと、雪穂は温かい布団の中に潜り込み、吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。




