第3話 神の呼吸を深く吸い込む。目覚めたら見知らぬ森の中
俺は彼女を促し、古びたアパートの階段を急いだ。
203号室。俺の城だ。
扉を開ける。
「どうぞ、汚いけど……って、あ」
言いかけて思い出した。
俺の部屋は、驚くほど整理整頓されている。
完璧な「擬態」が、図らずも今日この時のために役に立った。
これなら変態の住処だとはバレないはずだ。
「不思議な箱や、光る板がたくさんある……」
モニターや家電を珍しそうに見つめる彼女を、俺は紳士的な振る舞いでトイレへと誘導した。
「ほら、ここ。使い方はわかる?」
「はい。……あの」
「あ、いいよいいよ、気にしないで。お兄さん、あっちにいるから」
扉を閉め、俺はベッドに腰を下ろした。
静寂の中、微かな衣擦れの音が響く。
思わず、そちらへ全神経を集中させそうになり――ハッと我に返った。
いやいやいや。少女は崇高なものだ。いわば神格化された存在なのだ。神のプライベートを盗み聞きしようだなんて、それはもはや信仰に対する冒涜以外の何物でもない。
俺はブルブルと首を横に振り、湧き上がる犯罪的な衝動を物理的に遮断するため、両手でギュッと耳を塞いだ。
心臓が、耳のすぐ横で鳴っているようだ。
……やばい。やばすぎる。
38歳の誕生日に、俺は理想を煮詰め、受肉させたような美少女を部屋に連れ込んだ。
通報。逮捕。免職。
社会的な死の二文字が脳裏をよぎる。
だが、それ以上に「最高だ」という歓喜が全身を駆け巡っている。
水が流れる音が響き、しばらくして、彼女が勢いよくトイレから出てきた。
「凄いです! 銀色の取っ手を傾けたら、水が……勢いよく水が流れました!」
……え、そこ?
最近は全部センサー式の自動洗浄とかのほうが主流で、レバー式って珍しいのかな?
そんなことを考えながら、俺はスマートフォンの画面で最寄りの警察署の場所を確認する。
このまま留まらせるのは、流石に「擬態」の限界を超えている。
俺の人生を護るためには、心を鬼にして彼女を公的機関に委ねなければならない。
「……よし。あのね、ちょっと相談なんだけど。やっぱり警察に――」
「…………え?」
さっきまであんなに興奮していた彼女は、その場にぺたんと座り込み、壁に背を預けた状態で、規則正しい寝息を立てていた。
俺が一人で「通報か否か」と脳内会議を繰り広げている間に、彼女の体力は限界に達していたらしい。
「おい、大丈夫か? ……って、本気で寝てるわ、これ」
俺は「紳士」として、彼女を床に放置するわけにはいかない。
失礼するぞ。これは救助だ。断じてセクハラではない……。
自分にそう言い聞かせ、震える手で彼女の細い身体を抱き上げた。
軽い。
羽毛のように軽くて、そして驚くほど柔らかい。
甘いケーキの匂い、そして少女特有の、胸が締め付けられるような微かな体臭が鼻腔をくすぐる(嗅いだことはないが)。
俺は彼女をベッドに寝かせ、首元までガッチリと、鉄壁のガードで布団をかけた。
隙間一つ作らない。彼女を冷やしてはいけないからだ。
(……あ。やってしまった)
布団をかけた直後、俺は激しい後悔に打ちのめされた。
布団のせいで、中の服が……あわよくば見えたかもしれない服の中が、俺の、俺自身の手によって完全に遮断されてしまったのだ。
(馬鹿か俺は! もう少し、こう、膝あたりで止めておくとかあっただろ!)
だが、一度かけてしまった布団をめくる行為は「救助」ではなく「事案」だ。
俺は頭を抱えた末、ベッドの横に体育座りで鎮座した。
(せめて「匂い」だけでも……)
俺は、布団の隙間から彼女の熱を帯びた「聖なる空気」が漏れ出してきているのだと信じ、深く、深く、肺いっぱいに吸い込んだ。
――スー……ハァー……。
肺が浄化され、脳が蕩ける。
38歳の誕生日プレゼントとしては、あまりに過ぎた報酬だ。
明日になれば、彼女を警察に届けなければならない。
それまでの数時間、この刹那の「聖域」を、俺は一秒とも逃さず網膜に焼き付けようと決めた。
座ったまま、彼女の寝顔をじっと見つめ続ける。
あ……これだけはごめんなさい。本当にごめんなさい。
暗闇の中、液晶の青白い光が彼女の顔を微かに照らす。
――カシャ。
あと、すみません、これもすみません。
画面の中の光の枠が、眠る彼女の輪郭を静かになぞり、明滅した。
――ピ。
俺とユキナちゃんを魂レベルで繋げる行為。
念願かつ決して叶うはずのない悲願を、俺は達成してしまった……。
部屋の明かりを消し、暗闇の中で彼女の微かな寝息に耳を澄ませる。
俺は、いつの間にか微睡みの中に落ちていた。
◇
頬を、冷たい風が撫でた。
「……ん」
不快な湿り気。背中を突き上げる硬い感触。
エアコンの風が直に当たっているのかと思いながら、俺は重い瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、アパートの、あのシミだらけの天井ではなかった。
「……え?」
見上げる先にあるのは、鬱蒼と茂る巨大な木の枝葉。
その隙間から、見たこともないほど鮮やかな、突き抜けるような青空と日差しが差し込んでいる。
俺は飛び起きた。
辺りを見回すが、アパートの壁も、テレビも、パソコンも、さっきまでそこにいた「少女」の姿もない。
あるのは、苔むした岩と、太古の森を思わせる巨木の群れだけだ。
「……マジかよ。ここ、どこだ?」
38歳の誕生日の翌朝。
俺、佐藤平太の「擬態された日常」は、音も立てずに崩壊した。




