第2話 ゴミ置き場の美少女と、ゴミ置き場に捨てた理性
夜風は思いのほか冷たかった。
街灯の下、俺は「どこにでもいる、少しお疲れ気味の独身サラリーマン」を完璧に演じながら歩く。
背筋を少し丸め、視線は斜め下。
これぞ擬態の極意。
誰の記憶にも残らない、ただの風景の一部。
コンビニで無事に目的の「至高の苺ショート」を確保し、店を出る。
袋の中で揺れるケーキの箱が、38歳の誕生日の唯一の戦利品だ。
これを食べて、明日の聖地巡礼に備えて早めに寝よう。
そう、それでいい。
アパートの前まで戻ってきた、その時だった。
「……あ?」
アパートの階段の手前。
住民のマナーが悪くて常に不用品が散乱している、薄汚れたゴミ置き場の前に、一人の少女が佇んでいた。
少女の姿をみた瞬間、心臓が肋骨を内側からぶち破らんばかりの勢いで悲鳴を上げた。
自分の意思とは無関係に、鼓動が耳元までうるさく響き始める。
そこにいたのは、汚れた段ボールや不燃ゴミの山とは、決定的に位相が異なる存在だった。
全身を白い布で包んだような格好。
ところどころ薄汚れ、裾には土埃がこびりついている。
生地も薄く、まだ肌寒い今の季節には、あまりにも頼りない。
見ているこちらが寒さを覚えるほどの薄着だ。
それなのに――いや、そんな痛々しさまで含めて、暗がりでもわかるほど「造形」が美しかった。
「……ユキナちゃん?」
脳内で『戦プリ』の最推しキャラの名前が漏れる。
あれは、ユキナちゃんが戦に敗れたときに見せる装束だ。
ゲームの世界からそのまま抜け出してきたような、悲しげで儚い面立ち。
今にも消えてしまいそうな危うさがあるのに、その瞳の奥には、不思議と凛とした強さが残っている(気がする)。
降臨したのか?
俺の妄想が、誕生日の孤独に耐えかねて物質化したのか?
……いや、落ち着け平太。
こんな時間に、こんな場所で一人。
常識的に考えれば迷子、あるいは「事案」の入り口だ。
少女好きとしての本能が「今すぐ保護しろ」と咆哮し、社会人としての理性が「目を合わさずに逃げろ、通報されるぞ」と警告する。
俺は、擬態のプロとして後者を選んだ。
俯き加減に、存在感を消して階段を登り始める。
一段、二段。
だが、三段目で足が止まった。
「……いやいや、まずいだろ」
いくらなんでも、この寒空の下、子供を放置して帰るなんて、人としてどうなんだ。
俺はロリコンだが、それ以前に「紳士」なのだ。
ユキナちゃんを愛する者として、彼女に似た少女が危機に瀕しているのを見過ごすわけにはいかない。
俺は階段を上がりきる直前で、くるりと反転した。
怪しい者ではないというオーラを必死に放ちながら、少女に歩み寄る。
「……あの、どうしたの? お父さんとお母さんは?」
我ながら情けないほど声が震えた。
少女は、ゆっくりとこちらに振り向く。
その瞳に射抜かれた瞬間、俺の魂は半分くらい浄化された気がした。
「……両親はいません。……ここには、いません」
声まで理想的。
鈴を転がすような、それでいてどこか古風な響き。
だが、その答えは不穏だ。
ここにはいない? やっぱり家出か、それとも……。
――ぐぅぅぅ。
盛大な、そしてあまりに可愛らしいお腹の音が、冷たい夜気に響いた。
少女は、恥ずかしそうに細い肩をひそめ、その場にしゃがみ込んでしまった。
「……お腹、空いてるの?」
少女は、しゃがみ込んだまま小さく頷いた。
俺は迷わず、コンビニ袋から「至高の苺ショート」を取り出した。
38歳の俺を祝うための供物だが、今の俺にはそんなものよりも目の前の光景の方が重要だ。
「これ、食べる?」
少女は箱を受け取ると、不思議そうにそれを眺めた。
開け方がわからないのか、あるいは、皿に載せられたケーキしか経験したことがないほどのお嬢様なのか。
俺は箱を受け取り、封を開けてから、改めて彼女に手渡す。
少女は恐る恐る、指先で生クリームをすくい、ペロリと舐めた。
その瞬間、少女の身体がビクリと震え、彫像のように固まった。
カッ、と限界まで見開かれた瞳。
……やば、なにこれ。ものすごく良いんだけど。
俺の脳内の絶叫を代弁するかのように、彼女は次の瞬間には、なりふり構わずケーキを口へと運び始めた。
あっという間に空になったトレイ。
口の周りには、白いクリームがちょこんとついている。
――破壊力。
これが現代兵器なら、俺の理性という城壁は一瞬で塵に帰していただろう。
今すぐその白い塊を指ですくい取りたい、あるいはさらにその先へ……という獣じみた衝動を、38年かけて築き上げた「擬態」の力で強引にねじ伏せる。
俺はポケットから、今日に限って奇跡的に持っていた清潔なハンカチを取り出し、彼女に差し出した。
「お口、クリームついてるよ。これで拭いて」
「……ありがとうございます。クリーム、というのですか。こんなに美味しいものは初めて食べました」
初めて? この飽食の時代に?
よほど複雑な家庭環境なのか。
俺の中で「救世主(という名の変態)」としての使命感が燃え上がる。
「どこから来たの? お家の場所、わかる?」
問いかけると、少女は言葉に詰まったように俯いた。
そのまま、もじもじと落ち着かなげに足を動かし始める。
「……あ、あの」
消え入りそうな声。羞恥に赤らむ頬。
まさか、お家の場所を教えるのがそんなに恥ずかしいことなのか?
それとも、言えないような事情が……。
いや、違う。
この動き、この表情は――。
「どうしたの? ……あー、もしかしてお手洗い?」
少女は顔を真っ赤にして、小さく、だが切実に頷いた。
なんというご褒美。
いや、なんという緊急事態。
すぐそこにコンビニがある。
そこに連れて行くのが正解だ。わかっている。
だが、俺の口から出た言葉は違った。
「あー……お兄さんの家、すぐそこだから。貸してあげるよ」
周りを見渡すが、幸いなことに誰もいない。
どうやら俺の理性は、ゴミ捨て場の不用品と一緒に捨ててきたらしい。




