episode 110
「いない、そんな馬鹿な!!」
春都は、目の前の事実に愕然とした。
確信を持って飛び込んだコアラ館では、榊原燕鼠との壮絶なバトルを予想していたのだ。
しかし、予想に反して室内は全くもぬけの空である。
「くそっ!」
(まだ間に合うのか?!それとも、もう既に……)
外に飛び出した彼は、やりきれない思いを外壁にぶつけていた。
そんな彼の元に近付いてくる、一羽の鳥がいた。
それは、アフリカ園ではぐれたハズのワライカワセミだった。
近くの枝にとまったカワセミは、肩を落としている春都に向かって唐突に言葉を発した。
『何を落ち込んでいるの、早くいかないと間に合わないわよッ!!』
「うわっ!」
いきなりそう話し掛けられた春都は、度肝を抜かれた。
ただの野鳥と思っていたカワセミが喋ったという事よりも、その話し方や内容にである。
一方のそれは、全く意に介さない様子で言葉を続ける。
『アキはまだ生きている。でも……もうすぐ最後の儀式が始まってしまうわ!!』
「お前……河崎か?」
そう聞かれたカワセミは、ピタリと沈黙した。
それを肯定と受け止めた春都の中に、また新たな怒りが沸き起こってくる。
「河崎も『獣祠道』でそんな姿に変えられちまったのか……榊原燕鼠、許さねえッ!!」
彼の怒りに対して、一瞬複雑な表情を見せた河崎柚香は、踵をかえして飛び立った。
「そっちか!」
彼女の飛んでいく方向に敵がいると理解した彼は、すぐに後を追って坂道を駆け上がった。
コアラ館から、約200メートル程坂を上った場所。
そこは、園内の最西部に位置しており、一番高い場所の一つでもある野外広場であった。
木々に囲まれた50メートル四方のスペースは日中も薄暗いのだが、深夜ともなると、尚更陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
「……時は満ちた」
広場の中央にある親子のコアラ像の前で、影は全身を覆ったローブの端から両手をつき出して叫んだ。
「生贄を……前に!」
その後ろに控えていた巨大な影が、のっそりと歩み出る。
像の横手に設えた祭壇の上に、抱えていた秋希をそっと下ろした。
彼女は、何かの術で眠らされているのだろうか……時折苦しそうに顔をしかめているが、目を覚ます気配は全くない。
「では、只今から人獣交換の儀を行う」
影は、祭壇の後ろにそびえている大きな檻を見上げた。
暗幕にすっぽりと覆われた内部を窺い知る事は出来ないが、獣祠道の対象となる獣が入っている事は間違いない。
「この術が成功すれば、ようやく積年の願いが成就されるのだ」
感慨に浸っている影の手に、ギラリと銀色に光る短剣が握り締められた。
「まずは、生贄である乙女の脳を引きずり出す事にしよう」
倒れている秋希の元に歩み寄った影は、勢い良く短剣を振り上げる。
その時、広場内を一条の光が走った。
「待てっ!!」
「うぬっ?!」
腕にいきなり衝撃波を受けた影が、苦々しい声を上げる。
視界の正面に、階段を駆け上がって来た春都が現れた。
「やっと見つけたぞ、榊原燕鼠!!」
短剣を取り落としている全身フードの影が黒幕であると判断した彼は、呼吸を整える時間も惜しく一気に差を縮める。
先制攻撃が効いているうちに相手に更なるダメージを与え、その隙に秋希を取り戻そうという作戦だった。
「エアーハンド!!」
最高出力の気弾が、影に襲い掛かる。
咄嗟に躱した影だったが、その風圧で顔を覆っていたフードがバッと撥ね飛ばされた。
「……あんた?!」
中から現れた予想外の人物の素顔に、春都の動きが一瞬止まる。
その時、いきなり左ボディに強烈なフックパンチを喰らった彼は、一気に広場の端まですっ飛んでいった。
背中から巨大な立ち木に激突する。
「がはッ!!」
肺に詰まっていた空気が吐き出され、数秒間呼吸が寸断された彼は、徐々に口の中へと広がっていく血生臭いモノを感じた。
(一撃で脇腹に思い切りダメージを喰らった……なんて馬鹿力だ)
彼の目には、こちらに向かってのっしのっしと近付いてくる巨大なコアラの姿が映っていた。




