2-18
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翌日から、ダニアは誰がどんなに誘っても外に出ようとしなくなった。それだけではない、部屋の外に出ようとしなくなったのだ。
「私がお部屋に行っても、扉も開けてくれないんです」
ムティアラは困惑した様子でザカリーに報告した。最初、ザカリーは旅の疲れが出たのかもしれないからそっとしておいてほしい、とムティアラたちに伝えた。だが、五日も出てこないとなると話は違う。
ロンやフィルが声を掛けても、もう少しだけ待って、と言って顔も見せないのだという。ザカリーは嫌な予感がした。ロンに協力を頼もうと思って部屋を出たところで、ロンに出会した。ロンもザカリーに話があるという。
「どう考えてもおかしい。だが、あのままではダニアの様子が分からない。弁償はするので、ダニアの部屋の扉を壊す許可をもらいたいんだ」
ロンの目には久しく見なかった焦りの色があった。そうだ、こんなにロンが焦っているのは、ダニアがハティのレックスに誘拐されてサルミスにいた時以来だ。
「構いません。扉は直ぐには直せないでしょうから、他の部屋を用意させておきます」
「すまない」
「いいえ、ダニアさんは大切なお客様です。そのダニアさんに何かあったなら、それは当家の責任です」
「ありがとう。早速行くよ」
ザカリーも立ち会うために、ロンと歩く。
「もし何か嫌なことがあったのであれば、滞在を切り上げることになる」
「もちろんです」
ロンとザカリーは、ダニアの部屋の前にたどり着いた。扉の前に立っていたフィルが、困ったように言った。
「泣いているみたいなんだ」
「泣いている?」
ロンの目が扉越しのダニアに向けられる。
「ダニア、どうした?開けてくれ。開けないなら、扉を壊す。ザカリーにも許可は取ったから、脅しじゃないぞ」
「駄目、開けないで!」
「駄目じゃない、開けなきゃ駄目だ。もう何日食べていないか分かっているのか?」
「いや、来ないで!」
「駄目だ、開けるからな!」
ロンはフィルに教えてもらった魔術で自分の力をかかとに集中し、増幅させた。
「扉から離れていろよ!」
三つ数えてから、思い切りかかとで扉を蹴れば、扉の真ん中に大きな穴が空いた。
「これ、結構厚い一枚板なんですが、ロン様の手にかかればこうなるんですねえ」
少々呆れたようにザカリーが言うのも聞かずに、ロンは穴からダニアの部屋に入り込んだ。フィルも入って内側から鍵を開ける。
「ダニア!何をしているんだ!」
ダニアは腕をゴシゴシと布で拭き続けている。何カ所か血が出ている。
「嫌なの、気持ち悪いの」
涙声で、それでも手を止められずに、ゴシゴシと手を、腕を、ダニアは拭き続けている。
「ダニア、このままだと料理ができない手になるけど、それでいいの?」
フィルの言葉に、拭くのをやめられないのだとダニアは泣きながら言った。
「フィル、これって……」
「ああ、強迫性障害だな」
「強迫性障害、ですか?」
「ああ。強い不安などが原因で、やっても意味のないことだと分かっていながら、不安を打ち消すためにやめられなくなる、心の病気だ」
「どうして……」
ザカリーにはこれと言って思い当たるようなことはない。だが、ロンとフィルは気づいたようだ。
「まずは手を止めさせないと。フィル、眠らせることはできるか?」
「ああ、やるよ」
フィルが魔術式を展開すると、ダニアの体がくたりと床にくずおれた。ロンがそっとベッドの上に運ぶと、フィルが所々血が滲む白い腕を見て眉を顰めた。
「まずは冷やすか」
フィルが「温度変化」でダニアの腕の周りの空気を冷やす。こすれて熱を持っていた腕が、通常の体温に戻っていく。
「冷湿布みたいなもの、ある? あと、包帯も」
『冷湿布と包帯を持ってきてくれ』
『かしこまりました』
騒ぎを聞いて駆けつけた使用人たちに、ザカリーが指示を出してくれた。
ロンは眠ったまま泣いているダニアを見て、歯を食いしばった。
「なあ、ザカリー。女性の手に触れるのはノトスの男にとって当たり前のことだと言っていたよな」
「ええ、そうです」
「ダニアは市場に行った日に、見知らぬ男たちから手や腕を触られて嫌がっていた。ダニアが拭き続けた場所は、おそらく男たちから触れられた所だ。どうやらダニアは心を壊すほど不快で嫌な思いをしたようだ」
「そんな……」
「文化の違いだよ。クラウデンでは許可なく本人に触れるのはマナー違反だとされている。異性に触れさせる者はふしだらだと見なされる。ノトスにいるならばとダニアも我慢したようだが、ザカリーに触れられてもこんなにならなかったダニアが拒否感を示したとなれば、それは初対面の男たちにあちこちで手を捕まれたり腕を触られたりしたせいだとしか思えない」
「そう、ですね」
「ノトスの食文化は、ダニアにとって有益なものだ。だが、ノトスの人間関係の距離感は、ダニアにとって苦しいもの……そこを理解してくれないだろうか」
「そう、します」
フィルとロンとムティアラにダニアのことを任せると、ザカリーは自室に戻った。ソファに座ると、久しく流していなかった涙が頬を伝うのを感じた。
大好きな人を、辛い目に遭わせてしまった。
それが辛いことだと、自分には分からなかった。
ロンとフィルが、ダニアに触れようとする男たちを牽制していた。それを、それも文化だから目くじら立てないでください、なんて暢気に言っていたのはザカリー自身なのだ。もしダニアがザカリーを選んでくれたとしても、手や腕に触れることを当然とするノトスではダニアは生活していけないだろう。外に出られないダニアではボルシュ商会の女主人としては不合格だと言われ、ダニアは針の筵の上に座り続けることになる。
「私は、あなたに選んでもらえる男ではないのですね」
一人つぶやいた言葉に、また涙が落ちた。仕事に手が付かずに夕日が沈んでいった。
ロンはダニアの手当をすると、フィルとムティアラを下げた。フィルからは、三十分ほどでダニアは目覚めると聞いている。
「ん……」
「起きた?」
「……ロン……」
「手当をさせてもらったよ」
「……うん」
「触られたのが、よほど嫌だったんだね」
「そうみたい。市場から帰ってきたら、急に自分の腕がなんだかすごく汚いものに思えて、いくら洗っても駄目だったの」
「俺が触っても、嫌?」
「そんなことはない……でも」
「でも?」
「こんなことで感情がコントロールできなくなる私に、幻滅しない?」
「しないよ。人の心は繊細なんだ。どこで、何がきっかけで、心のバランスが崩れるかは分からない。人によっても違うんだ。だから、ノトスの『触れることが敵意のなさと親しみをあらわす』という文化と、クラウデンの『勝手に他人に触れるのはNG』という文化の間で、ダニアは疲れただけ。俺が上書きしてあげるよ」
ロンがそっとダニアの包帯を巻いた腕を優しく何度も何度も撫でる。
「ダニアの腕は、他人に触らせるためにあるんじゃない。料理をするため、それから」
ロンはダニアの手首にキスをした。
「俺に触れるためにあるんだ。だから、俺を抱きしめて?」
優しくダニアを抱きしめると、おずおずとダニアがロンの背に腕を回した。
「そう。ダニアの腕は、こうやって俺を抱きしめるためにある。そうだろう?」
「ロンっ」
ダニアはそのままロンにしがみついて泣き始めた。自分が情けないと思っていたが、それは仕方がないことだとロンに言われてほっとしてしまったのだ。
「ダニア、戻ろう。欲しかったものを買って、アルテューマに帰ろう」
ぐすんぐすんとダニアがしゃくり上げながら、小さく頷いている。
「市場には行かない。ボルシュ商会の在庫から買っていこう。なかったら、次回ザカリーがアルテューマに来る時に持ってきてもらおう。な?」
ダニアの心を守るためなら、多少の不義理も致し方ない。それに、これしきのことでボルシュ商会との縁を切るつもりもない。
それに、今回のことで、ザカリーはダニアがノトスでは生きていけないと理解したはずだ。 ロンはザカリーの心も心配だが、何よりもダニアの方が大切なのだ。ダニアは自分が守る。ザカリーは他の女を守ればいい。
泣き疲れて今度こそ眠ってしまったダニアを、そっとベッドに横たえる。ダニアの目が覚めるまで、ロンはその手を離さずに、ダニアの頭をなで続けたのだった。
読んでくださってありがとうございました。
強迫性障害は、本人がどんなにやめたくてもやめられない上、生活に支障が出ます。やめろと言ってもやめられないことに、本人が一番辛いと感じていると聞きます。同様の症状を持つ方、心が落ち着いて早く治りますように。
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