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第二章:機械人形

 第二章【機械人形(フォニー)



「いやだ! あたしもいっしょにいく!」

 遠空から聞こえる銃声と怒号。暗夜に抱かれた殺戮(さつりく)(しらべ)。空気が(はら)む緊張感と緊急事態。

 すぐ隣に現れた死神の吐息を肌で感じながら、幼い娘を部屋の物置に無理矢理押し込んだ父は、悲壮(ひそう)の決意と共に扉を閉めた。閉ざされた扉は幼女のか弱き力ではびくともせず、僅かな隙間から見えた父親の表情は、照明が足りないせいか、酷く(ゆが)んで見えた。その隣に見える金髪の女性が、手にした散弾銃のポンプを引く。

「ソフィア、父さんか母さんかがここに戻るまで、絶対にここから動くな。もし、もしも私達が戻ってこなかったら、その時は〝熾天使(セラフ)〟が助けに来るまでここでジッとしていなさい。怖いだろうけど声も上げては駄目だ」

「せらふ? なにそれ、やだ、ここを開けて、いかないでお父さん! お母さん!』

「ソフィア。お願いだから良い子にして」

 懇願(こんがん)する母親の口調に混じる焦燥(しょうそう)。少女は叫ぶ。だが両親は互いに何かに頷くと、娘を閉じこめた物置から遠ざかり、父が壁に立てかけられていた鉄塊を取る。細身の体にはとても似合わない突撃銃。

「生き残った方があの子を頼む」

「ええ、でも、……死なないで」

 そんな会話が最後に聞こえ、両親の声は段々と遠ざかる。息を潜めていた家屋の中、少女の眼前に悪夢の運び手が降り立ったのは、その十秒後だった。部屋の扉が弾け飛ぶ。窓際で奏でられる硝子(ガラス)の破砕音。転がり込んできた人型の影。父が獣のような雄叫びを上げて突撃銃を掲げると、鉛弾の驟雨(しゅうう)が招かれざる訪問者に浴びせられる。しかし侵入者は怯まない。瞬きをした次の瞬間に、影は父の前に立っていた。吐き出された空薬莢(からやっきょう)と、ひしゃげた弾頭が床に転がる。死を知らない硝子の双眸(そうぼう)が静かに両親を見据え、黒い影の手が、無造作に父の首を触れられた瞬後、圧壊音。少女の鼓膜を震わせる母の絶叫。そして引き千切られた首が放られると、残された体が鮮血(せんけつ)の噴水をまき散らして床に伏せた。

 直後、至近距離から影に放たれる散弾。影の姿がよろめくと、母は立て続けに散弾銃のポンプを引いた。憎しみを込められた銃口が再び影を照準する――そして、母の胸を巨大な衝撃が穿(うが)ち、高速回転する刃を纏った黒い腕が背中を突き抜けた。飛び散る臓器の破片が背後の壁にぶちまけ、空色の瞳から力が失われる。腕が抜かれると自制を失った体は父の横に倒れ伏す。それから影が姿勢を正すと、初めてその顔が露わとなる。人の肌色に混じる鈍色の光沢。散弾に剥ぎ取られた人造皮膚の下に覗かせる鋼鉄の骨格。

自己診断開始(セルフチェック・スタート)――終了(コンプリート)。損傷軽微、作戦行動に支障なし。索敵を再開する』

 隠れる少女の鼓膜を叩く鉄塊の響き。絶対零度を宿した瞳が、ゆらりと動いた。

 人間じゃ無い――機械人形(フォニー)。前文明から蘇った無血の殺戮者(さつりくしゃ)。少女は、物置の隙間を通して全てを網膜に焼き付けた。泣き叫びたい衝動に駆られたが、それを遙かに上回る恐怖が、少女から声と体の自由を奪う。だが意思の制御と反するように、小さな体はガタガタと震える。

 怖い怖い怖い怖い怖いこわいこわいこわいこわいコワイコワイコワイコワイ――

「ッ!」 

 そして偶然か意図的か、人形が少女の隠れる場所へ振り返った。いけないと思った時にはもう遅い。その僅かに漏れた悲鳴を、センサの精度を最大にしていた人形は聞き逃さない。引き抜かれた銃口が物置に向けられた。しかし引き金に掛けた指が止まる。

「目標を非殲滅対象と識別。投降せよ。十秒以内に武装を解き、この警告に従い投降(とうこう)せよ。以外の行動は敵対行動と見なし、殲滅対象として消去する。十……九……」

 投降すれば命だけは助かるだろう。しかし少女は物置で(うずくま)ったまま動かない。否、目の前の人型に対する恐怖と、幼い身には大きすぎた極度の緊張が、体の自由を許してくれなかったのだ。また幼すぎる彼女に、〝投降〟の意味が解るはずもない。しかし殺戮のみを命令された人形に、それを考慮する思考回路は積まれていなかった。少女は目の前の死神から目線を外せないまま、膝を抱えてて震え続けた。

「三……二……一……〇。-消去開始(デリート)

 直後、人形が手にした鉄塊が火を吹き上げ、物置の扉が四散する。そして少女の左腕が()ぜた。()せ返るような鉄錆の臭いと緋色の液体と共に、抉られた肉が周囲を舞った。

「アァアァアアァアァァァアアァアア!!!!」

 血が噴き上がる傷口を右手で押さえながら口腔から絶叫を迸らせ、少女は死を覚悟して硬く目を瞑る。聴覚が麻痺したかのように、無音の世界に放り込まれたのは、果たして何秒何分何時間だったのだろうか。しかし死の痛みは、いつまで経っても来なかった。

 死んだ人間は楽になるとどこかで聞いた。だからもう自分は死んでしまったのだと、幼い少女は恐る恐ると目蓋(まぶた)を開く。だが現実は動いていた。少女は千切れかけた片腕を抑えたまま(うずくま)り耳に、苦痛に耐える自分の喘ぎ声が消える。(なお)も続く激痛に意識は断続気味だが、鼓膜を震わす轟音が、辛うじて少女の意識を繋ぎ止めていた。もはや隙間と言えなくなった扉の向こう、拳銃を握る機械人形(フォニー)の肩が爆ぜて無くなっている。人形が窓辺の向こうを振り向いた刹那(せつな)、飛来した灼熱(しゃくねつ)豪雨(ごうう)が彼の体を削り取る。そして原形を留めないまでに破壊し尽くされた人形の破片が、血肉の塊と化した両親に降り注がれた。



 目蓋が開かれると、白みを帯びた月明かりに照らされた天井が目に入る。無音の空間。何度か瞬きをして、自分の意識が現在に帰ってきた事を確認する。そしてソフィアは、ゆっくりと上体を起こした。荒くなった呼吸を整えるため何度か深呼吸を繰り返す。脈打つ心臓が重く、お気に入りの緑の寝間着は、寝汗でぐっしょりと濡れて、気持ち悪くなっている。

 それでもソフィアは、もう落ち着きと取り戻していたし、その後の対応も熟知している。何年もそれこそ、月の痛みが始まる前から繰り返してきた事だ。先日の少年のように、布団を蹴り飛ばして跳ね起きたりはもうしないし、流し過ぎた涙はとっくに枯れ果てた。今では、この身と心を震わせる真夜中の冷気でさえも火照った体には心地よいと感じられるほど、心に余裕ができている――しかし、左腕だけは、いつまで経っても昔のままだった。

 まるで電流でも流されたかのように麻痺した左腕。

「まいったなぁ……」

 自嘲気味に呟く。グレンに引き取られた当時は毎晩のように魘された悪夢。それを久しぶりに見た。昨日は帰宅してから〝テスラル・キッチン〟で貰ったクッキーを晩ご飯の後に食べた。それから片付けをして明日の準備をして、入浴をすましてから、普通に寝たはずだった。もう自分は気にしていないのだと思い込んでいた。しかし自分の心の奥底は、未だに|やつら(機械人形)を拒否し続けている。

 ソフィアが二の腕の(そで)(まく)ると、上腕から肘に駆けた醜い裂傷(れっしょう)が現れる。五歳だった当時に負ったこの傷も、十七歳の現在ではいくらか小さく見えるが、当時の今よりも細かった腕は半分近くが削られ、切断を迫る半歩前の状況だったと後から聞かされた。退院後は、補助装具に頼らなくてはいけない生活を何年も余儀なくされ、常人並みの動作をようやく取り戻したのは、まだ数年前だ。

 ここまで回復したのは奇跡だと医者は言う。しかし奇跡では心の傷までは癒えなかった。そしてこれからも癒えきる事は無いのだと十二年が経って、ソフィアは漠然と感じていた。

 これからも、やつらと遭遇する度に蹲る日々が続くのだ。

 再び深呼吸。寝台の上に座ったままの姿勢でいると、左手の指先の方から少しずつ感覚が戻ってくる。ソフィアは、機械人形(フォニー)が大嫌いだ。自分から両親と、左腕の自由を奪った憎き存在。あの夢から後の事を少女は憶えていない。今にして思えば、きっと大量の出血で気絶したのだろう。次に憶えているのは、寝台の上から見上げた病院の白い天井。誰かに野戦病院へ運び込まれた後、そこから搬送された病院らしかった。半月近くも眠っていたらしい。その後、身寄りがみんな死んでしまったソフィアを、両親の友人だったグレン=バルファルが引き取り、今に至る。だから今の名字は二つ目で、ソフィア=リースから、ソフィア=バルファルに変わったのはその時だった。

「――ックシュン!」

 記憶を回想する少女の鼻をむず痒さが走った。背筋を通る寒気。肌にくっつく湿った感触。布団の外に出るのは辛いが、このまま寝台に潜り込むのも嫌だ。腕の疼きも治まった所で寝台から這い出ると、本格的な寒さが肌を凍らせる。早速、布団の中に引き返したくなったが、それでも衣装箪笥に向かい、代わりの寝間着を取り出して手早く着替え始める。

 下着を脱いだ所でふと、少女は今この部屋にいるのが自分だけじゃない事を思い出し、胸元を隠しながら背後の寝台を見やった。

「あれ……タート?」

 だが振り返ったそこに、一緒の寝台で眠っていたはずの少年の姿は無い。起きた時点で既にいなかった気がする。足下を見れば彼のスリッパも無くなっている。寝台に呼びかけた所で返事は勿論ない。慎重に周囲を見渡すが、少年の姿も影も見つけられなかった。

「誰も、いないの?」

 口に出して再認識したことが、より増して少女の不安感を(あお)る。その途端、冷気では無い寒さに体が震えた。そう言えば、汗をかいたせいか、とても喉が渇く。ソフィアは、あくまでも水分を補給するついでに少年を捜そうと――まるで何かから逃げ出すかのように――寝室を出て、居間へ向かう。途中でグレンの部屋に寄る事も考えたが、自分はあくまで飲み物を飲みに来たのだ。断じて、一人が恐いわけでは無い。

 真夜中の居間に顔を出すと、当然ではあるが照明は落ちており、そこには昼間と異なる真夜中の空間が座っていた。明確に別れない影が解け合い、普段見慣れているはずの家具がおぞましい物に見える。それは各所の明度が異なるからだろうと頭で理解しつつも、瞳は常に何かいないかと周囲を索敵してしまう。

「いないのタート? ……うきゃっ!」

 何か柔らかい物を踏みつけて重心を崩すが、リハビリの過程で身につけた運動能力は、普通の乙女のような転倒を許してはくれず、瞬間で持ち直す。だが少女は転びかけた以上に動揺していた。反射的に踏みつけた物を見やると、それは長椅子の上にあったはずの枕だ。

「あ、あ、あぶないな。おおおお脅かしやがって! 誰がこんな所におきっぱにしたのよ!」

 怒鳴ろうとしてみるが、その声は悲しいほど震えていた。ソフィアはそれを寒さのせいだと決め込んだ。悪夢を見た直後のせいか、今すぐにでも寝床に戻りたい。カチコチと無機質を刻む時計の音。不気味な色合いの居間がその衝動をより一層深める。

(……だからさ……)

「ひぃっ!」

 その時、まるで闇底から這い上がってきたような男の声がソフィアの鼓膜を叩き、背筋が飛び跳ねる。泣き出したいの我慢しながら息を潜めると、早鐘を打つ自身の鼓動が聞こえるようになる。そして徐々に、下の階の話し声に気がついた。

「グレン、さん?」 

 久々にあの男を名前で呼んでいたことにも気がつかないまま、ソフィアは手すりに掴まりながら足音を殺して階段を降りる。鼻腔を擽る良い匂いは珈琲(コーヒー)と紅茶の薫りだ。

「それで僕が結局引き取る事になったんだけど、ああ、あの頃のあの子は、もっと可愛げがあったんだけどなぁ。昔はあの子も僕の事を『グレンさん』って呼んでいたのに、今じゃ急に恥ずかしくなったのか、そっけない態度で『店長』だとさ。もう、何だか寂しい限りさ」

「そんなことがあったんだね」

 壁越しに恐る恐ると覗き込むと、窓板が締め切られた薄暗い店内は、カウンタ席の真上だけに照明が灯っていた。その下に見える黒縁眼鏡の長身の男と寝間着姿の青髪の少年が、手元に珈琲と紅茶を持ちながら並んで座っていた。今の会話から察するに、自分の過去話だろう。そしてとてつもなく失礼な事を言われたかも知れないソフィアは、拳を振るわせながらも耳を澄ます。するとそのタイミングを見計らったかのように、タートは呟いた。

「ソフィアお姉ちゃんって強いんだね」

 その瞬間、冷気にも似た錯覚が背筋を走る。

「へぇ、強いだって。そっか、強いって言うんだっけ?」

(強い? このあたしが?)

 ソフィアは階段の壁に背を預けたまま、二人のやりとりを聞いていた。しかし少女の胸に渦巻くのは、その評価に対する激しい自己嫌悪だ。

「……あたしは、弱いよ」

 誰にも聞かれないように、自分でさえ無意識に少女は呟いた。自分は機械人形(フォニー)が嫌いだ。だがそれ以上に、未だ恐怖する自分自身が嫌いだった。あれから十年以上が経ったと言うのに、気がつくと日常的にやつらを憎んでいる自分がいる。いや違う、本当は怯えているんだ。常日頃からやつら機械人形(フォニー)を。そんな事だから、いつまで経っても変わらない。変われない。肌が白くなるまで握りしめられた手の平の肉に、爪が食い込む。だがそれでも少女は硬く握り固める。血が出ても構わない物か。こんな自分ならば、一度壊れてしまった方が良いのだから。

「店長さんも強いね」

 ふと少年が発した何気ない言葉に、ソフィアは耳を傾けないではいられなかった。

 グレン自身も、(きょ)をつかれたかのように素っ頓狂な表情をしている。再び二人を盗み見ると、琥珀の瞳が黒縁眼鏡の男を見上げていた。

「だって、店長さんも家族がいなくて、独りだったんじゃないの?」

 少年の問い掛けで、ソフィアは今初めて気づいたかのように顔を上げていた。彼にも家族はいる。彼が人間である限り、それは当たり前の事だ。或いは恋人だっていたはず。グレンがモテないと評しているが、そこには|養女(自分)の存在も入っている。そう言えばグレンの家族話を聞いた事が無い。それどころかグレンの過去を、自分は全く知らない。

「そうだな、家族と呼べるかは解らないが、一人は確実にいたよ」

「どんな人だったの?」

「僕が僕として意識を持った時から横にいた人だった。その人は君と同じ色の瞳で、僕の姉みたいな人だったかな」

「みたいな人? 本当のお姉さんじゃなかったの?」

「そうだね、血は繋がってない。ソフィアと違って優しい人だった。それとよく笑っていた」

「お姉ちゃんも優しいよ?」

「言葉を少し間違えた。なんだか一緒にいるだけで安心できる人だったよ。強くてね」

「お姉ちゃんみたいな人だ」

 少年は相槌(あいづち)を打ちながらマグカップを持ちあげて、注がれた紅茶に口付ける。

「店長さんは、その人が好きだったんだね」

 男の横顔が一瞬だけ翳っても少年は気づかなかった。しかしそれもそのはずで、普段の彼はそんな感情に縁がなければ、今だってその表情はほとんど何も変わっていない。彼と長く過ごしているソフィアだからこそ分かった微細な変化。

「そうか、僕は、姉さんが好きだったのか」

 その呟きはソフィアの耳には小さすぎて聞こえなかった。聞こえたはずのタートも意味が解らず、不思議そう首を傾げる。

「その人は今どこにいるの?」

「近くにはいない。僕が永遠にたどり着けない場所に、いってしまったんだ」

 液体から昇る湯気の動きが観察できる間をおいてから、グレンはそう言葉を添えた。その横顔がこの世では無いどこか遠くを見ながら感傷に浸る。そしてふと、黒縁眼鏡の下から覗かせる黒瞳が、階段へと向けられた。

「で、忍者ごっこしているソフィアは、そろそろ出てこないのかい?」

 少年が驚いたように振り返り、観念したソフィアが階段の影から姿を現すと、グレンは苦笑混じりに言葉を重ねた。

「で? 君はどうしたのかな?」

「ふと起きたらタートーがいなかったんで、心配になって探しに来たんです」

「つまり一人っきりが怖かっブァ!」

 身をくの字に折った男の鳩尾に、理不尽としか言いようが無い拳がめり込んだ。

「急にどうされたんです? 大丈夫ですか?」

「そだ、てかたを、まちがえ、た」

「まあ大変。話が噛み合ってないわ。店長! しっかりしてください!」

 突然の出来事に目を点にしていた少年も、もうこの光景を見慣れたのか、次の瞬間には何事も無かったかのように、紅茶を口に含む。そしてソフィアも目頭に涙を溜める男をいい加減に無視して、マイカップに紅茶を注ぐとタートの隣へ腰掛けた。

「ひ、酷い。今日は君の方が酷いぞソフィア!」

「それよりも店長。店長の家族の話、あたしも聴きたいです」

 ふと、その一言で腹部を押さえていた男の呻き声がピタリと止まる。

「……え、何で?」

「だって店長、今まであたしには、なーんにも話してくれなかったじゃないですか」

 するとタートも興味津々なのか、二人はまるで姉弟のようにカウンタ席に並ぶと、異なる色の瞳がそれぞれ黒縁眼鏡の男を見上げた。しかし、

「ああ! 何と言うことだ! もう夜中の三時じゃないか! 知ってるかい? 八時間以上寝ないと成長できないんだってよ。さぁソフィア、タート君、君達、もう寝なさい」

「あ、店長、話の続き……それに今更寝ても八時間取れない」

「はいはい、それはまた今度。あ、もうすでに大人な僕は食器を洗ってから寝るから、先に寝なさい」

 普段ならば無駄に会話を長引かせようとするグレンが、会話を終わらせようとするなんて天変地異にも等しい。それが余計にソフィアの興味を(あお)ったが、同時に何か聞いてはいけない事を尋ねてしまったかのような背徳感もあり、気まずさが心の中で燻った。

「店長?」

「はいはい、何かなァ?」

 普段通りの返事。心の中でホッと胸を撫で下ろす自分がいる。

「……んーん、何でも無い、じゃぁ寝ます。タート、行こっか」

 こんな男だけど、やはり自分の知らない過去を持っている。ソフィアはタートを促して、部屋に戻ることにした。



 柔らかい光に満ちた空間で、頬を撫でる微風(そよかぜ)が過ぎった。

 整備された白い石畳の上の、ハヴォックの青い靴が歩調を鳴らす。ここは植物園か何かなのだろう。人工の光が降り注ぐ高い天井の下、白い少年を囲むのは、生い茂る木々と区画化された花壇。その一面に咲き誇る、赤、黄、青、緑、黒、桃、紫、橙、鮮やかな色彩。彼は人工が作りだした自然の群れの中で、何かを求めるように彷徨っていた。ハヴォックが身に纏うのは、金糸の刺繍(ししゅう)が張り巡らされた白い法服。だが少年の背丈が低いのか、その(すそ)は若干引きずり気味である。彼はふと、木々に視界を遮られた隣の区画に目を向ける。その先に何を見つけたのだろう。少年は道を外れると、周囲の目も気にせず、法服が汚れるのも構わずに植物の群れを掻き分けて、木々の奥深くへ進み始めた。その十数秒後、葉や枝を所々に引っかけながらガサゴソと出てきたのは開けた空間だ。その中央、噴水のせせらぎを背後に設置された長椅子に、白衣を纏った二十代半ばほどの女が座りながら、静かに読書をしている。

 少年が彼女の亜麻色の髪を見つめる、すると女の琥珀の瞳が、道無き道を横断してきたハヴォックに気づき、活字の上から離された。

「あらあら、ハヴォック。どうしたの、こんな葉っぱまみれで……あーあー、汚しちゃって、あとでリースさんに怒られるね、こりゃ」

 パタン、と今まで読んでいた本を栞で閉じながら、女は少年の体中についた枝葉を丁寧に払い落とし、少し咎める響きを口調に交えながらも、我が子を見守る母親の微笑で少年を見やる。

「……シェリーに、訊きたい事がある」

 だが対して、少年の口調には年齢に不相応な硬質の響きが含まれていた。

「あら、わたしに答えられるかは分からないけれど、それは何かな?」

 シェリーは目線に合うところまでしゃがみ込んで少年に問いかけた。肩まで垂れ下がった亜麻色の髪が、微風(そよかぜ)に吹かれて揺れた。ハヴォックはゆっくりと口を開く。だが言葉はなかなか出てこない。シェリーは、そんな彼の瞳を見つめたまま、静かに次の言葉を待っていた。

「シェリーは、人を殺したことがある?」

 その瞬間、穏やかだった彼女の表情が固まった。

「人を殺すとは、どういうことなのか、それを訊きに来た」

「ごめん。わたしは、……直接は、無いの」

 シェリーは、またあの苦しそうな笑顔を作った。見たくないと思ったのに、させてしまった。

 だから微笑みかけられたままであっても少年の心中は、穏やかになれない。それは自分を縛り付ける禁則事項を破る行為へ対する、得体の知れない寒気にも似た感覚だった。

「シェリーは開発部の人間だから実戦経験は無い。でも、どうしてもシェリーに訊きたかった。……シェリーなら、知ってる、そう思った」

 言葉が尻すぼみに小さくなっていく。少年は自分でも何が言いたいのかが分かっていないのか、その言葉はどこか要領を得ていない。シェリーは黙ったまま、考え込むように沈黙していた。否、そうでは無い。本当は悲しんでいたに違いない。しかしハヴォックはまだ、ポーズ以外の喜怒哀楽の全てを知らなかった。だから何も解らずに、彼女がただ黙していただけにしか見えなかった。それから彼女はゆっくりと立ち上がり、長椅子に腰を掛け直す。琥珀の瞳が向けられて、目に見えない何かの中でもがき苦しむ少年は、慈母の答えを待った。

「ハヴォックは、どう思うの?」

 そして尋ねられる。その時の彼女の瞳に宿っていた感情は何だったのだろうか。

「君は、人を殺すって、〝命〟を奪うって、どういう意味だと思う?」

「……わからない」

「そうだよね、君達はそう考えられないようにされちゃったもんね。昔、君のお兄さんも、同じ事を訊かれた時にね、同じ事を尋ねたの」

「【堕天狩り】ルシフェル? それとも【監視者】ヨースト?」

「ルシフェルの方。ヨーストは自分で答えを探してしまうからね。全く、手が掛からないけど、姉としてはちょっと寂しかったな」

「それで、ルシフェルは何て言った?」

「『私の存在理由だ』だってさ」

 おそらくは、そのルシフェルという、少年の兄の物まねなのだろう。目尻を上げて、声を低くしたシェリーが硬い口調で言い切った。しかし少年は何も反応を返せない。だからなのか、彼女の表情が、寂しそうに(かげ)る。そして続けた。

「だけどね、命を奪うっていうのは、そんな一方的な物じゃ無いんだ。わたしも全部を知っているわけじゃないけど、もっと、もっと色々とあるんだよ」

「例えば?」

 硬質の響きを保ったまま尋ね返した少年の両肩に、女の手が置かれた。それからシェリーは琥珀の瞳を覗き込んで、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「もう二度とね、その人とお話ができなくなるんだよ」

「二度と?」

 生命活動が停止すれば、会話ができなるのは当然だ。しかし思考でそうは思いながらも、己の口は気がつけば言葉の一部を復唱している。シェリーは頷いた。

「人間だけじゃなくてね、例えばあそこに咲いているお花だって、あれを殺したら、もう二度とあのお花は見る事はできなくなるんだ」

「あれと同種の花は、例えこの庭園の全てを除去したとしても、まだこの世には多く存在する」

「ううん、もう無いんだ。その殺してしまったお花と、同じ姿、形、経験、例えば日に当たった場所とか、水を受けた総量とか、それと全く同じお花は、もう無いんだ。人間もね、それと同じでさ、たった一人を殺しても、もうその人は二度と喋らないし、動かないし、物も考えない。その人の代わりと言うのは無いんだよ。そしてそれは、君も同じなんだ」

「どうして? だってボクは――」

 目の前の白衣の女性は、まるで自らの子供を愛おしく想うような眼差しを少年に注ぎ、それから囁く。すると今度は、少年が固まる番だった。細くて白い人差し指が、少年の言葉を止めるように唇に当てられる。それから白衣の女はかぶりを振った。

「君の複製(コピー)はいくらでも作れる。記憶(データ)が残っていれば記憶もそのままでいられる。でもねハヴォック。そうしたそれはもう、君であって君じゃない。ただの模造品(フォニー)なんだ。今、ここにいる君じゃなくなるんだよ」

 そっと、両肩から少年の体が抱き寄せられる。そして彼女の目蓋の両端から、一筋ずつの線を描き地面に零れ落ちた。シェリーはその言葉を誰に言っているのだろうと、少年は思う。

 本当に彼女は、自分に話しかけているのだろうか。

「君が 〝死〟 んだら、君はもういない……それを、忘れないでね」

 本当はその時、少年を抱き寄せたその声は震えていた。だが少年は気づかなかった。気づいたとしても理由は分からなかっただろう。

「シェリーの意見は、本当はよく解らない。だけど他の人間と違って、何かを教えてくれる。ありがとう。また聞かせてほしい」

「うん、また、いつでもおいで」

 フッと微笑んだシェリーの姿が薄れ、意識は奈落へ落ちていく。

 寝室に差し込む朝の光を浴びて、タートは目を覚ました。ゆっくりと上体を起こすと、既にソフィアの姿は隣にない。目覚まし時計のアラームは、二時間前に鳴り終わっている。でもタートが仕事に加わるのは、開店してからだから問題は無い。今日もまた一日が始まる。

 ポタリ。寝台から降りようとして突然、シーツの上に水滴が垂れた。

 慌てて天井を見上げるが、そこに水の気配は無い。どこから垂れたのだろう。少年は首を傾げてつつも洗面所に向かう。

 彼が、鏡に映った涙の跡を知ったのは、それから間もなくだった。



 雲が斑に散らばった空が橙に染まり、暦の上では秋の終演を迎える今日は、やけに乾燥した空気が旧市街を包んでいた。最後の客が店を出てから十数分。営業を終えた〝小さな羽根(リトルウィング)〟で、ソフィアは食器を磨きながら片付けを進める。

 一時はどうなるかと思ったが、表通りの〝風〟も街に馴染み始めると、元の常連が徐々に戻ってきた。その中の一人が曰く『メジャーにはメジャーの、マイナーにはマイナーの良さがある』らしい。その言葉に肩を落としながらも、ソフィアは今の生活を楽しんでいた。

 カランコロンと鈴が鳴くと、タートが自身の身の丈ほどもある立て看板を、引きずりながら入れた所だった。同時に吹き込んできた風は冷気を纏い、秋の終わりを語る。

 ふと、ソフィアは立て看板を見やると、既にチョークの粉は落とされた後だった。今日のデザインを明日も流用しようと思っていたのだが、タートに伝え忘れていたのだ。

「オネェちゃん、入れてきたよ」

 伝え忘れたのはあたし、と落胆を見せないように「ありがとう」と告げると、少年は達成感に笑顔を浮かべた。タートが家族の一員となって一ヶ月。最初は全てにおいてぎこちなかった彼も新しい生活にだいぶ慣れたのか、近頃では、こんな笑い方もよくする。

「次は、テーブル拭きよろしく」

 はーい、と元気な返事。タートは頼まれたことを嫌がりもせず、何でも素直にやってくれた。どこぞの給料泥棒に、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと、ソフィアは視線を動かす。

「……はっ、野郎がいねぇ! あの人間失格駄目男、また逃げやがったか!?」

 刹那(せつな)、仕事疲れの十割分が怒りへ変換され、握った拳が机を叩く。その般若の形相を、ソフィアの実父、ヘンリー=リースが見たら我が娘の成長っぷりにグレンの元へ化けて出るに違いない。すっかりあの男の定位置と化した卓席に放置された珈琲は、まだ湯気が立っていた。野郎が逃亡したのは今しがた。経営の最高責任者であるはずのあの男が客席にいた事には目を瞑ろう。しかし敵前逃亡は極刑だ。

「お、お姉ちゃん? ……恐いってば」

 呼びかけられて我に返ったソフィアは少しだけ冷静になり、疲れ切った溜息を付く。先日のアップルパイ事件で少しは懲りたかと思ったが、反省が見られない。全く、どうやればこうまで見事に抜け出せるのか。夕飯抜き百烈拳付きは確定として、帰ってきたらどうしてくれよう――出入口の鈴が不意に鳴いたのは、握り締めた拳が憤怒の炎を帯び始めたそんな時だった。

「「ソフィねーちゃーん!」」

 全く同質の声が重なった。固めていた拳を慌てて解き玄関を振り向くと、よく似た顔立ちの男の子と女の子の姿。栗鼠色の髪の下から草原の瞳を覗かせ、二人は、ソフィアの姿を見つけると走り寄ってきた。

「あらいらっしゃい。ジュースでも飲む? あたしの愚痴(ぐち)に付き合ってくれるなら、奢ってあげるわ」

「いいの?」

「やった!」

 まだ同じ背丈の二人が歓声を上げ、カウンタ席によじ登る。そんな二人に苦笑しながらも適当なグラスにオレンジの果汁を注ぐ。

「誰か来たの?」

 そこで初めて、その二人と、キッチンの裏で台ふきんを手にしていたタートは視線を合わせた。瞬間、面識の無い双方の頭上に、『誰だろう?』と疑問符が浮かぶ。停滞する子供達の思考と脳裏。ここで互いの紹介を自分が入れるべきか。ソフィアが口を開きかけようとした時、三度目の呼び鈴が鳴いた。

「ソーフィーアーちゃん、やっほ!」

 妙に軽い響きを含んだ声。

「チェル姉さん! いらっしゃい。どうしたんですか?」

 束ねた栗鼠色の髪を後頭部で揺らし、両手で鞄を持った愛らしい小柄の身体は一見にして、ソフィアと同年代の少女にも見える。しかし決して十代には持ち得ないしっかりと根を張った枝葉の印象があった。チェルル=テスラル。〝テスラル・キッチン〟経営者であり、幼少の頃からソフィアを可愛がってくれた〝姉〟とも言える人で、ソフィアの憧れの女性だ。そして先にカウンタ席に座っている双子の兄妹達の母親でもある。

「んー、ラグラルが今日グレンさんと飲みに行くっていうから、あたしは子供達連れてソフィちゃんとご飯食べよーかなってね。もう晩ご飯作っちゃってる?」

「まだですけど……って、あの男、ラグにぃと飲みに行ってるんですか!」

 付き合いが長いチェルルはそれだけで全てを察し、憐憫の眼差しを〝妹〟へ向ける。

「ほら、材料持ってきたから。今日は、あたしが美味しい物食べさせてあげるから、元気だして?」

「ううう、姉さぁああん」

「おお、よしよし」

 瞳に涙を滲ませてソフィアは自分よりも背の低い姉に抱きつくと、チェルルは宥めるように少女の金髪を撫でた。この姉は昔からこうやって、ソフィアを慰める役なのだ。そしてそんな女二人の横で、子供達は未だ見つめ合ったまま、固まっていた。



 これは困ったと、タートは思った。

「もう、あの男、今週皆勤賞ですよ! ええ、それはもう無断外出記録で!」

「あらあら、昔は一人で切り盛りしてたのにねー」

「そうなんですよ! それで今日は飲み会とか、あの男、帰ってきたら八つ裂きにしてくれる! 夕飯抜きだなんてぬるい! ええい、次はアップルパイに何を練り込んでやろうかしら!」

「ソフィちゃん、あんまり食べ物を粗末にしちゃだめよ。やるならそうね――とりあえず両手足を縛って、『教典の塔』の最上階から逆さ吊りブラブラの刑とか」

「ね、姉さんが言うと、ちょっとなんかこう、洒落に聞こえないんですけど……」

「あら、手加減が必要な相手じゃないでしょー?」

 象牙色(アイボリー)のテーブルクロスが敷かれた四人掛けの卓席に、蜜柑果汁(オレンジジュース)が注がれた三つのグラスが三角形を敷いて並ぶ。その各グラスの手前、机を挟み込むようにして一対の長椅子に座る少年少女が計三人が、まるで通夜の会場のように黙りこくっていた。

 タートが盗み見るようにして台所を(うかが)う。鼻腔(びこう)(くすぐ)る良い匂いが漂い、見れば調理器具を忙しなく動かしながらも雑談に花を咲かせる女二人の楽しそうな雰囲気が、向こう側にはあった。そしてタートは再び眼前の少年少女に視線を戻し、思うのだ――これは困った。

「そう言えば、ラグにぃって、一人で大丈夫なんですか?」

「ええ、補助装具さえあれば全く歩けないわけじゃないし、近くの馴染みの店で飲むとかも言ってたしー」

 簡単な自己紹介の後、子供同士の方が話が合うだろうから料理ができるまで一緒にいなさいと同じ席に座らされた。そこまでは良かったのだと思う。しかしそれが悪かったのかも知れない。着席して、そろそろ十分は経過したが、まだこの二人とタートの間には一言も会話が成り立っていない。それどころか出された果汁(ジュース)にすら口付けていなかった。動いたら駄目。まるでそう誰かに命じられたみたいに、三人は異様な空気を(かたく)なに守り続けていた。

「ああ、あたしも早くソフィちゃんと飲みに行きたいわー」

「チェル姉さん……その外見でその台詞は似合わないというか、何というか……」

「あらそう? うふふ、ソフィちゃんもあと三年。お酒を飲めるようになるのが先か、お母さんになるのが先か」

「ちょっ、チェルねぇ! あ、相手もいないのに何を!」

「えっ、そっちの方が意外ー。ソフィアちゃんカワイーのに。何でこんな子を、世の男の子は放っておくかなー。っていうかリュート君はどうなったのよ、あの子は間違いなく格好良くなってると思うんだけど?」

「べ、べつにあんなの好みじゃないし、そもそも年下なんてまっぴらだし。大体からして、何であんな男のくせに泣き虫で情けないやつなんか」

「またまた、一緒に夜の寝台を共にした仲だったじゃない」

「それ子供の頃の話だからっ、文字通りの意味でしかないから!」

「あとお風呂一緒に入ろうって誘ってたのもソフィちゃんだし、ソフィちゃんって大胆よね」

「あれは、だって始めは女の子だと思って、うわああん、チェルねえがいじめるよぉ!」

 会話の内容はともかく、調理場の雰囲気が羨ましい。女二人は子供達の冷戦に全く気づいていない。そして時折、双子から向けられる敵意の視線。それが何よりも恐い。内心では既にタートの瞳は潤んでいた。双子とは今日が初対面。当然の如く憎悪を買った憶えは無い。何かをしてしまったのならば素直に謝ろう。でも自分は何をしてしまったのだろう。

「……ねぇ」

 堂々巡りする思考を、何の前触れもなく兄の方、ユンパが口を開いて遮った。タートの背筋がビクリと跳ね上がって、そのまま秒針が一周する。だが次に重い口の中から出てきたのは、意外なほど細い声だった。

「「キミは、〝ぼるぼご〟が嫌い?」」

 思考を共有でもしているのか、兄妹の声が重なった。予想だにしていなかった事を尋ねられ、タートの思考も停滞(フリーズ)する。

「あのね、ぼるぼごは、怖くないよ。とっても優しいの!」

 妹のソルルが訴えるかのように身を乗り出す。そこでタートは緋色の単眼を()めた黒い巨影を思い出す。〝テスラル・キッチン〟で働いていた旧型機兵。確かあの鋼鉄の巨人が、そんな名前で呼ばれていたはずだ。

「あの、そのね、あれはね」

「今朝、お父さんに聞いたの、だから今日は、こっちでぼるぼごのお話はしちゃだめだって言われたの。でも、でも、それじゃ、ぼるぼごがカワイソウだよ」

「ぼくがケガしたとき、治してくれたもん」

「怖い夢見て眠れないと、あたしが眠れるまで、ずっと一緒にいてくれたよ」

「コップ落として割っちゃった時も、怒らないで《お前が怪我をしなくて良かった》って言ってくれたよ!」

「お父さんに怒られて悲しくなった時も、ずっとそばにいてくれたもん」

「お父さんもお母さんもお出かけしちゃった時でも、ちゃんとゴハン作ってくれるもん」

「ホントだよ! ぼるぼごが作ってくれるゴハン、とってもオイシイんだよ!」

 塞き止めていた物が決壊したかのように二人の言葉は止まらない。目尻に込み上がった大粒が頬を伝い、卓上にぼろぼろと(まだら)を描く。二人はそれを何度も上着の袖で拭いながら、タートに訴えかけていた。

「はいはい、どうしたのかな二人とも?」

 タートーがますます言葉に詰まっていると、泣きじゃくる二人の肩を、後ろから白い腕が抱き込んだ。双子が涙を溜めた瞳で後ろを見上げると、ソフィアが身をかがめるようにして、微笑んでいた。

「ぼるぼごは優しいよね?」

「ぼるぼごは怖くないよね?」

「あなた達、ボルボゴの話をしてたんだ」

 さらに後ろから声を掛けてきたのは、双子達の母親だ。そして泣きじゃくりながら言葉にならない言葉で何かを訴え続ける二人の頭を撫でながら、双子が何かを言う度に頷く。

 まだしゃくり上げる幼い二人を見守るその様子が、年の離れた姉のように映って見えたのはチェルルの外見がとても若々しく見えるからだろう。彼女は自分と同じ色の髪を優しく撫でてやりながら、子供達が泣きやんだのを確認すると、タートを見下ろしてニッコリと微笑む。その瞬間、少年の心臓はドキリと飛び跳ねた。

「そーゆーわけでタート君。今度うちに来た時は、驚かないであげてネ」

 タートは自然と頷く。

 そして頬にうっすらと涙の線の跡を浮かべる双子の兄妹に向き直った。

「ねぇ二人とも、ボルボゴさんについて、もっとお話しをして」

「……いいの?」

 顔を見合わせてから念を押すように尋ねてきた双子に、少年は頷く。

 その瞬間、双子の顔が明るくなった。



 子供達が無邪気に会話する様子を見てひとまず安心した保護者二人は、再び調理場に戻って作業を再開させた。そしてつい十数秒前とは百八十度変わって元気になった息子と娘を見ながら、チェルルがしみじみと呟く。

「あの子達、本当にボルボゴが好きだから、タート君が怖がってしまったのがショックだったのかなー」

「でも、ボルボゴって元々は――」

「そ、戦闘型。だから怖がってくれるのが当たり前。ほんとに、子供って不思議」

 ジャガイモの皮を剥きながらチェルルは苦笑する。彼女が母親になってから八年と少々。その横顔はだいぶ変わったとソフィアは思う。チェルルは今年で三十一歳。しかし何も知らない人が見れば、きっと自分達二人は同い年の友達同士か何かにしか見えないだろう。重ねて言うが、チェルルの容姿(ようし)はそれほどまでに若々しい。だがそれでもソフィアとチェルルには埋められない差がある。母親になるとは、それだけすごい事なのだろう。いつか自分が母になった時、あたしはこの人のようになれるだろうか。さっき茶化された事を少し思い出しながら、彼女に憧れるソフィアは、つい思ってしまう。

「チェル姉さんがボルボゴを初めて見たのも、子供の頃なんですよね。姉さんは、怖くはなかったんですか?」

「あたしは……ねぇ、ソフィアちゃん、絶対に笑ったりしない?」

「し、しませんよ。って、何かあったんです?」

「本当に?」

 何故か念を押すチェルルに、ソフィアは千切れんばかりに首を振る。するとようやく、チェルルは少し言い難そうに、そしてどこか頬を朱に染めて告白した。

「あたし、彼をライバル視してたのよ」

「ら、ライバル?」

 あの鉄人がライバル――そう言えば幼い頃、(がら)の悪い大人から颯爽と助けて貰ったことがある。その時の光景を見て、ソフィアは修羅だとか羅刹だという言葉の意味を知った。だからさっきの『逆さ吊りブラブラの刑』も冗談に聞こえなかったわけだが。どうやらあの強さには、戦闘兵器をライバル視していた過去が関わっていたらしい。

「そう、ライバル。ほら、ラグも、小さい頃からボルボゴが好きでとても懐いていたから。だから彼をライバル視してたのかも………キャ! 言っちゃった!」

 だが事実は予想の斜め四十五度上を突いた変化球だった。顔を赤らめて頬を抑えるその仕草は、とても三十一歳とは思えない。思わず手作業を止めると、微笑ましい想像、別名妄想が脳裏を駆ける。例えばあの鋼鉄の巨人が、三つ編みのカツラを被って赤いスカートをつけて女装したイメージ。あるいは姑姿のボルボゴがチェルルをいびる場面――は、無理があるので途中から想像できなくなった。

「あ、そう言えばお二人とも幼なじみでしたね!」

 ソフィアは邪念を振り切るように話題を変えると、チェルルも否定せずに頷く。

「うん。家が近かったし(おや)同士も懇意だったから物心ついた頃には一緒にいてね。そう言えば、ラグんちには、家出した時なんかにもよくお世話なったわー」

「そんなちっちゃい頃から未来の旦那の所に押しかけるとか……それラグにぃに()いたいがために、家出を繰り返していた、とかだったりするんでしょ?」

「実はそうだけど何か?」

 今度は直球。少女が相手を茶化すつもりで火に火薬を振りまいたのだと気づいた時にはもう遅い。チェルルの全身から溢れんばかりの幸せの波動を受け、ソフィアは孤独(ひとり身)の重圧に押しつぶされる寸前だった。

「もう冬ですよねー」

「うん、そうだけど――それがどったの?」

「別に大したコトじゃないんですけどー、今日は気温が高いな、と」

「そうー?」

 この人といれば冬は暖房器具無しでも難なく越せそうだと、ソフィアは本気で思ったが口にはしなかった。それから料理ができあがり、突発的な夕食会は楽しく過ぎて、今日と言う日も無事に終わった――約一名。夜遅くに上機嫌で帰宅した黒縁眼鏡の男を除いて。彼の身に降りかかった災難を、今更説明するまでもない。ただ翌朝、早起きした少年が店内に転がるフライパンを不思議そうに眺めるだけだった。



 格子線で構築された空間を、膨大な〇と一の羅列が泳ぐ。

 久遠に続く静寂に、古代の(しらべ)を紡ぐ彼がいた。

 見渡す限りのネオン・グリッド。彼が紡いだ言葉は新たな流れを作り、彼の手に収束していく。最も、それは比喩的(ひゆてき)な表現に過ぎないのかも知れない。実際、この電脳が支配する世界では、形という概念に意味は無い。使うべき人間が、都合の良いように作り上げた虚空の狭間(コンピュータ・グラフィックス)。そこにあるのは主観の集合体でしか無い。だから彼が紡ぐ呪文は誰の耳にも聞こえず、誰の目にも見えない。作り上げていく彼だけが、その存在を知れば良い。

 それから唐突に、永遠にも思えた呪歌が途絶えた。電子の海に漂っていた彼は意識を現実世界へ浮上させる。暗転。五体に神経が行き渡る錯覚の後、目元を覆っていたバイザーを押し上げると、普段の執務室の空間が目の前にある。両手の指を開閉させて、手足の動作を確かめる。異常なし。すると彼――ネルグ=マトンは、昼寝から目覚めたみたいに背を伸ばす。

「さーて、下準備もできましたかね」

《お目覚めですか、ネルグ?》

「別に眠ってたわけじゃないんだけどね」

 ネルグの横に、黒衣を纏った少女の姿が現れる。頭の片側で束ねられた若草色の髪が、電子の風に吹かれて揺れた。ネルグはゆっくりと頭を傾けた。首筋に挿した情報端子を引き抜き、不適な笑みを浮かべる。

「んー、順調、快調、絶好調。宿題(プログラム)は完成した。長く続いた夜なべ生活も、今日ようやくで終わりだ。ワーム。【主天使(ドミニオン)】は出せるかな?」

《はい、いつでも。指定された全十二機の調整は完了しています。しかし良いのですか? 先日〝鋼鉄兵団〟からも四小隊を派遣したばかりですが》

「いいんだ。どうせ今の人形がいくら束になった所で本当は変わらない。正確な位置を割り出すまでの、ただの時間稼ぎだよ。本命の【主天使】達を今から潰させるわけにもいかない。まあ軍人なら、捨て駒にされることも覚悟の上さ」

 少女の幻影が優雅に一礼すると、彼女の真横に新たな画面が展開され、流れる若草の髪がふわりと舞う。その姿は電子仕掛けの妖精か、或いは少女の姿を象った死神の姿だったのかも知れない。

「さあ、時に残された亡霊同士。僕らは僕らの仕事をしよう――堕天使狩りの、始まりだ」

 ネルグはそれだけを呟くと、手元の端末から記憶媒体(メモリ・カード)を抜き取った。



「反応は、ここを中心に四区画以内です」

「まだ範囲が広いな。もっと絞れなかったのか?」

「しょうがない、非効率的だが、手当たり次第に探すしかなさそうだ」

 身の半分以上を喰われた月が、暗灰色の夜空から真夜中のグルック旧市街を照らす。一般市民ならば夢を貪る時刻。暗い夜道に三つの影。三人は、闇に融けるような黒い外套に身を包み、腕章には塔を囲む歯車の意匠――【鋼鉄兵団(メタルス)】の紋章が刻まれていた。

「やれやれ、面倒な仕事だな」

 外套と同色のベレー帽を被った男がぼやきながら視線を動かす。彼らは暗闇を見るのに照明を必要としない。機械仕掛けの瞳に内蔵された赤外線探査装置が、暗い夜道をまるで真昼のような明るさに映し出す。そして小隊長のアンダーソン少尉が足を止めた。

「ブレイン、追加装備起動。ラリー。例の灰色の男を警戒しろ」

「了解」

「命令受領。追加索敵装置を展開」

 機械人形 〝ブレイン〟。任務遂行中の情報提供、索敵支援を目的として開発された人形だ。上官の命令を受けて装置が起動。左腕に装備された銀色の扇が開き、円盾のように展開されたアンテナが周囲に向けられる。

「それにしても、我々が四小隊も稼働ですか。まったく、お上も(ねずみ)一匹捕まえるだけに大袈裟だな」

 全身を機械の体へ置き換えた機械人間一人の戦闘能力は、肉体に補助的なメカニズムを組み込み、身体の部分的に機械化した機械強化兵(サイボーグ)のそれとは比較にならない。言うなれば彼ら一人一人の存在は怪物だ。その化け物が四小隊、計十二名も投入されている。

「曹長、己の機体性能を過信するな」

 その時、索敵行動を続けていたブレインが人形独特の平坦な抑揚で告げた。だが、ラリーと言う男は、機械人形が発したその言葉が感に障ったらしい。振り向いた勢いで人形が着込む黒衣の胸ぐらを掴み上げると、装備を含め二百キロを軽く越す質量が持ち上がる。

「おい人形、人間様に意見するのか?」

「事実を述べたまでだ。貴官は度々自己を過大評価している節がある。〝遺物(レリック)〟相手の任務において、対象の情報が未知数である以上、軽率な概念は書き換えるべきだ」

「なんだとっ」

「付け加えるならば。貴官のこの行為に、戦術的優位性は無い」

 瞬間、強ばったラリーの表情は驚愕に書き換えられた。いつの間にかブレインの指先から垂れたケーブルが生き物のように蠢き、曹長の首筋、外部接続用のジャック・ポッドに繋げられた。そして痛覚を遮断されたはずの機械の身体を、のたうち回る激痛が襲う。

「がぁああああああああ!! 人形ぉ、ちくしょうめ!」

 機械人形の身体を持ち上げていた腕から力が抜け、ブレインは何事も無かったかのように、地面へ降りた。その間にも人形は疑似信号を操り、曹長の唯一残る有機物部品である脳へ直接、〝痛み〟を送り込む。

「自己防衛タスクを実行……完了」

 くの字に倒れた機械人間の体が、地面に伏せた。指から伸ばしたケーブルを内蔵されたモータで巻き取りながら人形が呟く。直後、人形の横顔を、鋼鉄が掠めた。軌道から割り出された射出場所は、そこで伏した男の指先――人差し指が縦に真っ二つに分かれ、その奥から伸びた黒い銃口。人形の機械仕掛けの眼が、地面に伏す男に再び向けられる。

「その辺で止めておけ二人とも」 

 低い威厳ある怒声が放たれた。互いにさらなる武装を展開させようとしていた二人が、バネ仕掛けに武具を納める。

「……隊長」

「攻撃中止命令受領」 

「曹長。お前は確かに我々の性能を評価しすぎだ。いいか、俺達だって元は人間で、完璧では無い。最強でも無い。それを肝に銘じておけ」

「は、はい!」 

「ブレイン。先ほど要求した作業の続行を」

「すでに起動中――」

 人形が構え直したパナボラアンテナを灼熱の火弾が襲ったのと、三人の体内通信に警報が鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。

《本部より緊急。H6エリア付近を担当していた第三小隊が壊滅、第二種警戒体勢にて、各員不審者の索敵に当たり、これを撃破せよ》

 砕かれたアンテナの破片が飛び散り、三人が一斉に振り返ったその視界の中に、灰色の人影が映る。厚手のチュニックを羽織った姿は、まるでどこかの修道僧だ。フードのせいで顔は見えないが、歩き方た体格からして、そんなに年を食ってはいないだろう。そして灰色の男が片手に握る白い長銃の二連銃口が、ゆっくりと持ち上げられた。

「ブレイン、やつの武装を調べろ! それと人間か、それとも人形かを報告しろ」

「体温検査の結果、人間と判断。武装はあの長銃以外にない」

「撃破する、陣形を取れ」

 アンダーソン少尉の決断は迅速だった。咄嗟に三人が散開すると、少尉が引き抜いた二挺拳銃から吐き出された鋼鉄が、男をすり抜けて背後の壁を穿つ。速い。ブレインは人間だと判断したが、おそらくは生体強化によって超人的な能力を持った強化兵だろう。だがどうせ最初の一撃は囮だ。小隊は三角形を敷くように男を囲んだ。しなやかさでは劣るが、運動性能ならばこちらも条件は同じ。ならばあとは個人対、訓練された集団との戦闘になる。

 体内通信による意識の共有化と、機械的補助による精度と反応速度を得た機械人間の戦いに、未だアナログに頼る強化兵が成せることなど何もない。掲げられた曹長の五指銃が灰色の男を照準する。しかし実際は、咆えた長銃が五指銃を食い千切る方が早かった。曹長自身がそれを視認したコンマ数秒後、遅れて展開されたアンダーソンとブレインの武装が起動した。巨大な曲刀に変形した少尉の左腕が空気を割り、高周波刀の一撃が振り切られると、男は紙一重の位置からその軌道を読み、一歩後退。

 しかしこれも囮だ。本命は後ろで控えていたブレインが引き抜いた戦闘拳銃の一撃。銃爪が引かれ、次の瞬間には男の頭部が血煙に変わる――はずだった。銃弾は翻された灰色の裾に遮られ、その奧から魔法のように現れた長銃が火を噴いた。直後、放たれた火弾の豪雨が、まるで紙細工のように機械人形を引き裂いて、循環液が銀月の下に迸る。しかしただの人間ならばともかく、機械人間たる残りの二人に思考停滞の文字はない。残った腕で軍刀を抜刀した曹長の切っ先が男に迫り、強化カーボンブレードの刃先が、首筋に目がけて振り落とされた。

 だがそれよりも早く、灰色の男が呟いていた呪文が完成した。


『【セラフⅡ】近接白兵戦形態(フラガラッハ・モード)で武装展開――システム起動』


 次の瞬間、軍刀を受け止めたのは、男の背中から生えた三対の翼だった。正確には翼の形を摸した巨剣。刹那、翼剣は曹長の腹部を貫き、鉄が焼ける異臭が広がった

 これは一体何の冗談だろうか。翼剣の表面温度を捕捉したセンサが、太陽にも匹敵する数値を弾き出す。だが一瞬で切断、いや溶断された曹長の体をみれば、その数値が故障だろうが正常だろうが関係はない。

 灰色の男の顔を覆ったフードが外れ、銀月の中に殺戮者の素顔が浮かぶ。一体彼を、誰が人間などと言ったのだろう、。左右対称に整いすぎた顔立ちは彫刻的な美。彼は紛れもなく人工だ。灼熱の六翼を広げたその姿はまるで、神話に登場する天使の姿そのもの。無言の表情で狼狽える機械人間を見つめていたのは、双眸に填め込まれた、深い青の瞳だった。

「これは、何の悪夢だ」

 だが脳に機械的なプロテクトを掛けられているこの男が最後に夢を見たのは、まだ生身の時だ。思考をまとめようにも、適切な言葉が見当たらなかった。少尉は何かに取り憑かれたようにゆっくりと左腕の刃を構え、全身全霊を以て灰色の熾天使に斬りかかる。

 そして高周波の刃が大気を振るわせると、灼熱の六翼が羽ばたいた。

 夜空に舞う機械人間の手足。少尉が意識できたのはそこまでだった。



『君は、シェリーの狂気に過ぎない』

 茶髪の男は、ハヴォックを見下ろしながらそう告げた。その瞳に宿る憤怒。そしてそれだけでは言い表せない激しい何か。纏う緋色の(ころも)は、浄化を司る狩人の証。堕天を狩る者。彼が手にした聖剣の一振り。それは制限を解除されながら、少年の首筋に突きつけられている。

 剣身が纏う淡い発光は、あと一言、聖句を唱えただけでハヴォックを破壊する。それを少年は充分に理解していた。しかし幼い彼は眉尻一つ動かさずに、男を見上げ返した。

『君は影だ。シェリーが造りだした、タートの幻影。ハヴォック、君は君でしかない。それなのに君は、タートの真似をする。君はタートじゃないというのに!』

『言っている意味が解らない』

『ならば教えてやる。お前はなり損なった代替え品。タート=クルーの形だけを彫った、できそこないの模造品(フォニー)だ!』

 男は吐き捨てるように言う。そして握られた聖剣に力が込められた。


『【セラフⅠ】近接白兵戦形態(フラガラッハ・モード)で武装展開――システム起動』


 その剣が、異なる神剣に弾き飛ばされたのは、男が最後の聖句を唱えようとしたまさに刹那だった。男が少年から距離を取ると、その場所に六振りの白い翼刀が殺到し、地面に突き刺さる。そして引き抜かれたそれは少年を守るように鎌首をもたげた。

『――引け、【聖騎士(パラディン)】グレン=イドロ』

 時すらも凍らせる絶対零度が、少年の背後に響く。新たに現れたのは深海色の双眸を填め込んだ、白髪の男だ。少年と同じ白い法服を纏い、板を継ぎ合わせたような無骨なシルエットを持つ六振りの翼刀は、彼の背中から生えていた。その片手には、茶髪の男の剣を弾いたと思われる片刃の白い長剣。そして剣を握らないもう片方の腕が、グレンと呼ばれた茶髪の男に向けられた。その五指の先端から覗かせる五つの風穴。圧搾空気銃の銃口。

『セラフⅠ、お前はⅢを――弟を庇うのか?』

『私は【監視者(ウォッチャー)】だ。イドロ、堕天以外の〝天使(フォニー)〟を破壊する事は、教会法第三項目第四十七条の三に基づき懲罰対象だ。法を(たが)えれば【聖騎士(パラディン)】の称号剥奪だけでは済まされない』

『そんなのは承知の上! 称号がなんだ、このままだとシェリーは本当に狂ってしまう! 今ならばまだ――』

『シェリー=クルーはセラフⅢの破壊も、そしてお前の称号剥奪も望んでいない』

 その一言に男は顔を上げ、憎ましげに白い男を睨んだ。彼が少年を破壊するには、まずこの白い男を倒さなくてはならない。男自身も無事では済まないだろうが、彼にそれは可能だった。しかし茶髪の男は、唇を噛みしめて剣を鞘に収める。そして緋色の外套を翻した。

『あの人は、優しすぎる。だから例え過ちだと知っても、彼女は自分の悪夢を消し去れない。いつか、このままだといつか、シェリーは死ぬことになる。セラフⅠ、いやヨースト、お前はそれで良いのか?』

 白い男は何も答えない。そして茶髪の男は聖都が抱く闇夜に消えていった。



 それは夢からの目覚め方にも似ていた。

 今日も一日が過ぎ去っていく。平凡にして平穏。この街に住む者全てが甘受できる当たり前の毎日。少女を囲んでいた世界が音を立てて崩れた今日という日も、特別でも何でもない日常だった。夕日が山脈の彼方へ沈みかける黄昏(たそがれ)時。紫色の空を見上げながら、少女は眠ってしまった少年を背負って帰路についていた。一日の仕事が終わった後の夜ご飯の買い出し。そこで惣菜屋に顔を出した時、偶然、友人のジェーンに会った。その横にはまさかのイアン坊やもいたのだが、そっちは初めて出会うタートを警戒するようにして、終始自分よりも幼い少年を凝視していた。話を聞けば、未だにイアン坊やはこの調子だと言うのだ。なるほど、それで騎士気取りでジェーンに近づく者を警戒しているのかも知れないが、タートを警戒するようでは、先の苦難は目を瞑っていても解る気がした。そして互いの近況報告など、少し立ち話をしている間に、気がつけばタートは、店前の長椅子の上で寝息を立てていた。その横でイアン坊やも結局は一緒に寝ていたのが傑作だった。そしてそのまま背負ってきて、今に至る。

 タートはよく眠る子だった。最初は仕事の疲れかと思っていたが、そうではないらしい。休日の日でも、気がつけば少年は眠っている時間が多かった。そして食欲も相変わらずで、最近では、料理を作るソフィアは量を増やしているくらいだ。今日の晩ご飯は、彼が好きなコロッケ。少年を背負いながら手提げた鞄の中にも、ポテトサラダが詰まっている。

 ふと、背中の少年が動いた。

「おや、起きたかな?」

「……ぼく、寝ちゃったんだ」

 まだいくらか眠そうな返事が聞こえると、ソフィアはそっと屈み込む。いくら少年が見かけよりもさらに軽いと言っても、ただの十七歳の少女がこの年齢の男の子を担いで歩くのが辛い事に変わりはない。少年は素直に降りると、自分の足で立ち上がる。

「ありがとう、オネェさん」

「どういたしまして……あら?」

 降ろした少年の顔を見下ろすと、その両側の頬に一筋ずつの線が延びていた。目元にはまだ水滴が付いている。ソフィアが指で拭ってやると、少年自身もようやく自分が涙を流していたことに気づいたらしい。

「何か怖い夢でも見ていたの?」

 タートはかぶりを振る。しかし振った後で、その表情がやけに曇る。

「どんな夢を見てたの?」

「ねえオネェさん、オネェさんの夢に、知らない人が何回も出てくることってある?」

 不安を織り交ぜた琥珀の瞳が少女の空色の瞳を覗き込む。

「知らない人って?」

「うん、会ったこともない人。だけどね、みんなはぼくを知っているんだ。何回か、同じ人が夢に出てきた。あれは、誰なんだろう。今はね、知らない男の人に剣を向けられて、また知らない人に助けられたの」

「……はぁ?」

 本当に、一体どんな夢だったのか。ソフィアは少年が話す夢の内容を聞きながら、小さな手を引いて歩く。剣を持った人間なんて物騒な話だ。もっとも、銃という武器が普及してきた現在、剣や槍などといった近接武器を使う人間は少ない。それこそ、この国では機械人形(フォニー)か、生体手術によって身体能力を高められた強化兵(ブースタ)くらいだろう。どちらとも、普通に生活を送る人間には縁がない人種だ。

 そこでふと――この子が普通の人間じゃなかったならばと、脳裏を過ぎり、すぐに笑い飛ばした。たかだかの夢。児童書か何かの影響である可能性もある。それに彼女が気になっていたのは、夢の内容では無く、それを語る少年が酷く沈んで見えた事だった。普通の悪夢を見たの時は、現実世界に戻ってきたら人は胸を撫で下ろすものだ。しかし今の彼はそうではない。どことなく、自分のように精神的外傷(トラウマ)を引き起こした記憶を思い出した後に似ている。そんな痛ましい少年の姿を見るに耐えられなくなったソフィアは、話題を変えた。

「さ、お腹空いたね。今日はコロッケだし、早くお家に帰ってご飯にしよう」

 そのまま近道になる路地に入る。そこは普通の路地に比べると、道幅は細く、馬車などの車両は入れない歩行者専用の道だった。現在は人の気配も少ない。照明は半ば入った所に一つだけ電灯があるだけで視界は薄暗く、お化けや幽霊の類が出没するとしたら、これほど適した場所も少ないだろう。ソフィアがこの道を選んだのは、単純に近道になるからだ。それ普段から歩き慣れている。恐いと言うのならば、たまに見る悪夢の方がよっぽど恐ろしい。

 ――そして世界は崩壊した。

「ねぇ、オネェちゃん、あの人、どうしたんだろう?」

 手を引いた先で、突然タートが立ち止まり、この道を唯一照らす件の電灯を指さした。

「……あの人?」

「ほら、電柱の前から歩いてくる人」

 少女は目を凝らしてその周囲を見やるが、それらしき人影は全く見えない。視力はむしろ良い方なのだが、影も形も何もない。もしや自分には見えない何かをこの子は見ているのではと、少しだけ背筋が粟立った。

「ね、ねぇ、本当にいるの? もしかして……その、お、お化けだったり?」

「ほえ? ほら、あの黒い服を着た男の人。あの人、さっきからぼくたちを見て――」

 そこで少年の声が途切れた。そのまま繋いでいた手が突然後方へ引っ張られ、ソフィアは石畳に尻餅を付く。だが抗議の声は上がらなかった。その瞬後、目の前の足下が爆ぜて四散したからだ。

「な、何が!」

 少女は反射的に顔を庇った手を下げて眼前を見据えた。そして何もない空間から、質量が地面を蹴る音。カルト研究者がその場に居合わせれば、それはまさに、怪奇現象だと声を張り上げて主張するに違いない。

「――警告」

 しかしその幽霊が開いた口から紡がれたのは、限りなく人工を彷彿させる抑揚だった。そして湾曲した空間の中から、黒衣を纏った男が現れる。

「同行者は両手を上げ、その少年から離れろ。抵抗は推奨できない」

 有無を言わせぬ平坦な声。整った顔立ちは完全な左右対称でそこにあり、ソフィアを見下ろす硝子(がらす)双眸(そうぼう)が、彼が人間で無いことを如実に語っている。機械人形(フォニー)――彼女が目の前の男をそう認識した瞬間、左腕に激痛が走る。そして人形は無言のまま、いつの間にか引き抜いた戦闘拳銃を少女の(ひたい)に照準した。より分かり易い警告を提示。しかし少女は固まったまま、ただ目の前の人形を見上げるだけしかできなかった。

 両手を挙げろと言われても、それはソフィアにとっては無茶な話だ。相手が人間ならば、まだ警告に従えただろう。だが動かなくなった左腕は元より、彼女の心は蘇る恐怖の記憶に(すく)んでいた。勿論そんな事情を知らない機械人形(フォニー)にとって、沈黙は敵対行動を認識する材料にしかならない。人形が判断を下したのは、目の前の女が五秒経っても指示に従わなかったその時だ。

「オネェさんっ!」

 突然少女の視界が揺れ、自分が押し倒されたと認識したのは、反射的に突き出した腕が地面に付いてからだった。火薬の炸裂音。すぐ真上を通過する鉛弾の衝撃に鼓膜が痺れる。

 ――殺される。

 脳裏で鮮明に展開される父母の記憶。人形が握った拳銃の銃口がやけにゆっくりと自分に向けられつつあるのを見ながら、ソフィアは直後に訪れる自分の未来を悟った。しかし同時に、止まっていた思考が高速回転で動き始める。そして思う。ここで自分が殺されたら、次に殺されるのはタートだ。すると少女のどこかでスイッチが入る音がした。そこから先は、全てが咄嗟の行動である。肉薄する銃口。地面を叩くように手を付くと、その体勢から爪先が跳ね上がり、描いた軌跡(きせき)が人形が握っていた拳銃を弾き飛ばした。その続けざまに大きく踏み込んで、抱き込むように全体重を人形の片足だけに載せる。普通の体当たりならば、ゆうに少女の三倍以上はある質量はぐらつきもしなかっただろう。しかし片足一点にのみ集中した捨て身の一撃は、人形の重心を崩す事に成功した。人形もまた二本の足で立っている以上、その片方を失えば加わった力の方向、即ち背後に倒れ込むしか無い。

「逃げなさい!」

 無駄な足掻きだと、背後に叫びながらも彼女の冷静な部分が告げる。生身の人間が機械人形(フォニー)と戦って勝てる要素など皆無。しかしそれでも、相手の飛び道具を奪った以上、少年が逃げる時間くらいは、何とか稼げるかも知れない。

「きゃうっ」

 だが突如、少女の視界の中で天地が入れ替わる。それから背中に受けた強烈な衝撃。機械任せの力で振り払われた自分の身体が、近くの壁に叩きつけられた。

 肺から空気を搾り取られ、酸素を求めて口が喘ぐ。喉の奥から異物が込み上がる錯覚。手放し掛けた意識を必死に繋ぎ止めたその時、彼女の目の前で、人形の腕が奇怪な音を立てて変形する。現れたのは銃身が生えた腕――その銃口が向けられているのは、少年を逃がしたはずの方向だ。そして射線の先を見やり、少女は絶句する。

 タートがまだそこにいた。それどころか、先程自分が弾き落とした人形の戦闘拳銃を拾って構えている。自分の事は棚に上げて考えるまでも無く無謀な行為だ――直後、火薬の炸裂音を伴って人形から放たれた弾頭が、ミリ単位の誤差で少年の心臓を穿ち、緋色の花弁が(ほとばし)る。

 タートが吐血したのを見ると、ソフィアが悲鳴を上げた。

 脳裏を過ぎる日々の記憶。家族になりかけていた存在が、また失われた。また奪われたのだ。だから次の銃声を捕らえた自分の聴覚を、彼女は疑った。

 轟音に続く金属の破砕音。噴き出す血潮(ちしお)を抑えようともせず、戦闘拳銃の引き金を引いた射線の先で、人形の身体が仰け反る。そして咆吼(ほうこう)。反動で跳ね上がるはずの腕は空気に接着されたかのように固定され、少年の琥珀の瞳は照準を定めていた。

 本来ならば、タートが手にした戦闘拳銃に装填されていた対人用通常弾薬で、人形の鋼鉄製の体を貫く事は不可能だった。しかし少年が放った脆弱な弾丸は、確かに貫いた。構造上、最も装甲が薄くなる視覚センサ――人形の両眼だ。

 ドン、ドン、ドン。

 寸分狂い無く同じ場所目がけて幾度も弾丸が撃ち込まれる。その間にも少年の足下には緋色が広がるが、本人はまるで死とは無関係の存在のように銃爪を引き続けていた。

 地面に伏した人形と入れ替わりにソフィアが立ち上がる。呼吸器系統の乱れは若干残っていたが、万全の回復を待てる余裕は無い。すぐさまタートへ駆け寄り、弾倉が空になっても引き金を絞り続ける少年を抱き上げた。その体はとても軽く、(おびただ)しい出血と鉄錆の臭いがソフィアの着衣を(しゅ)に染める。本来ならば、動かしてはいけないのだろう。だが人形は機能を停止させたわけじゃない。ここにいれば殺されてしまう。ソフィアが走り出すと、少年の手から鉄塊が落ちる。少年の呼吸の有無を調べるのが恐かった。だから代わりに走る足に力を込める。直後、轟音が破裂して少女の足下を鉛弾が穿つが振り返らない。一刻も早く少年を病院へ。だがその前にグレンが応急処置をできるはず。この道を抜ければ〝小さな羽根(リトルウィング)〟まではもう少しだ。

 ソフィアは走る。その腕に消えかけている命を抱いて。

 そして息が切れるのも心臓が悲鳴をあげるのにも構わず、扉を蹴破る勢いで〝小さな羽根(リトルウィング)〟に転がり込むと、中で二人の帰りを待っていたグレンの表情が刹那に切り替わった。

「襲われた! 人形、タートが撃たれて!」

「そこへ寝かせろ!」

 何があったかを聞くよりも早く、グレンの指示が飛ぶ。言われたとおり、手近な卓席の上に少年の体を横たわらせると、彼がすぐに朱に染まりきった少年の着衣を切り裂く。少女が見たとおり、やはり心臓の上に緋色の穴が空いていた。確認した途端に、少女を繋ぎ止めていた理性が崩れかける。やはりもう、タートは――。

「まだ崩れていない!」

 ソフィアは我に返った。崩れていないとはどういう事か。それは少年が死んでいないという事なのか――疑問を口に仕掛けた時、店の玄関が四散した。掃除したばかりの床に破片が撒き散らされ、床に叩きつけられた鈴がガランゴロンと悲鳴を上げる。

「その場を動くな」

 規則正しい歩調が軍靴を鳴らし、黒衣を纏う男が硝子の双眸を向けて言った。その片腕から剣を生やした人外の姿。似たような者達が次々と入ってくる――機械人形。

「その少年を引渡せ」

 迷う暇は与えられていない事を説明する必要は無かった。だがそれでもグレンは目の前の人外を見据えると、黒縁眼鏡を押し上げて、奇妙なほど静かな声音で尋ねた。

「この子を傷つけたのは、君たちか?」

 途端、無造作に振り抜かれた黒い腕がグレンの長身を薙ぐと、叩きつけられた先の棚から積み上げられていた食器が落ちて、グレンの体に降り注ぐ。瀬戸物が割れる耳障りな音の後、動かなくなったグレンの下から緋色の液体が染み出した。

「グレンさん!」

「最終確認だ。引き渡す意思があるならば、可及的速やかに宣言せよ」

 片腕から生えた剣の切っ先が、意識がない少年を守ろうとするソフィアの眉間を捉えた。

 絶対零度の声音で事務的に聞いてきた機械に、ソフィアは答えの代わりに人形を睨み付けると、タートをきつく抱きしめる。

「――消去する」

 だが機械人形(フォニー)は剣を振り上げた直後、轟音が人形の剣の腕を食い千切った。

 宙を舞った切っ先が床に突き刺さり、振り返った人形の頭部を灼熱の火弾が穿つ。ソフィアは、何が起きたのかを咄嗟に理解できなかった。制御機関を失った体が床に沈み込んでからようやく我に返り、そして我が目を疑った。

 食器棚から起きあがる人影。己の血溜まりを踏みつけて立ち上がった男は、ソフィアがよく見知ったはずの男だ。だが彼が手にしていたのは、どこから取り出したのか、上下で二門の銃口を備えた白い長銃――ゆっくりと持ち上がった瞳が、割れたレンズ越しに襲撃者達を見据える。そして、男の黒瞳が静かに閉じられた。その目蓋が次に開かれた時、割れた眼鏡の奥で深海のような青色が揺らぎ、その黒髪が燃え尽きたような灰色に染まる。

 そして処刑の鐘でも鳴らすかのように――長銃の引鉄が弾かれた。

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