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第三章:焔を運ぶ者

 第三章【焔を運ぶ者(ルシフェル)】



 これは何の冗談だろう。

 灼熱の咆吼に射抜かれた最初の一体が床に伏せると、襲撃者達から生えた機関銃が一斉に火線を噴き出し、飛び出した灰色の男の影を追う。顔はグレンに似ている。だが彼の髪は灰色じゃ無いし、瞳の色も青くなんて無い。まるで深い海の底のような青――この人はだれなの?

 みんなみんな、知らない人。こんな大変な時に、グレンはどこへ行ってしまったのだろう。また図書館か本屋で仕事をさぼっているのだろうか。グレンさん、早く帰ってきてよ――そして灰色の男を追っていた機関銃が、呆けるソフィアと彼女が抱く少年へ鎌首もたげた。

 二人を目がけて殺到してくる毎秒数十発の弾丸の驟雨。ソフィアが一直線に向かってくる鋼鉄の死神達を他人事のように眺めていると轟音。炎蛇(えんじゃ)が暴れ狂い、朱の液体が飛び散った。

「……あ」

 ようやく思考が状況に追いついた時、ソフィアはそんな間の抜けた声しか出せなかった。

 気がつくと抱き寄せられていた。二人を庇って夥(おびただ)しい量の銃弾を背中で受けた灰色の男が幽鬼の如く立ち上がる。既に身にまとう店員服は襤褸(ぼろ)と化し、ひしゃげた黒縁眼鏡は床に転がる。そして灰色の男の体。抉られた血肉に覗く白い骨格。だがそれは決して人骨の色ではない。人骨が、毎秒数十発の弾雨に曝されて、生きているはずがない。

「グレン、さん?」

「――すぐに、済ませる」

 ソフィアが養父(ちち)の名を呟くと、灰色の男が代わりに答えた。

 あなたはだれ――否、なんなの? 

 既に少女の中に答えはあった。それでも尋ねないではいられない言葉を、声には出さず男の背中に問い掛ける。襲撃者達が格納していた武装を展開させて灰色の男に襲いかかったのはその時だ。ソフィアには区別できなかったが、この時、襲撃者達は全身が武器の塊となった機械人間(アドヴァンス)及び人形(フォニー)が八名だった。機械的な処理により人間の反射神経を凌駕する彼らが展開した武装。それらの一斉攻撃を回避するのは、例え強化人間(ブースタ)であっても難しい。だからなのか、灰色の男は避けようとはしない――そして地獄の冥王が命じるように、呪文を唱えた。


『【セラフⅡ】近接白兵戦形態(フラガラッハ・モード)で武装展開――システム起動』


 刹那、広げられた灰色の六翼。一振りが身の丈もありそうな巨大な刃が、敵の腕を、足を、視覚センサを、灰色の軌跡が薙ぎ払い、砕けた鉄塊が飛散する。そして重なる轟音。白い長銃から吐き出された灼熱が、地獄の業火と化して襲撃者達に殺到する。

「あ……あぁ……」

 日常を壊していく銃声の中、少女の呻き声は異質な物として空気を震わせる。

 目の前に敷かれた破壊の光景。脳裏に蘇る十二年前の悪夢。両親を惨殺され、自身の腕も千切られかけたあの日。気がつくとソフィアの左腕は少年の身体を抱いたまま小刻みに震え、あの日と同じ恐怖が心を縛り付けられる。

 アレはグレンさんじゃない。毎日仕事をサボってばっかりで、常にふざけていた彼じゃない。灰色の男が従えた六翼を旋回させる度に、グレン=バルファルという人間までもが敵と一緒に切り裂かれていく――ダメだ、それを認めてはいけない。少女の心がそう叫ぶ一方で、思考の奔流(ほんりゅう)は止まらない。人間でなければ何だ。グレン=バルファルとは何だ。対数的に広がっていった候補の中で、最も当てはまる存在に結論が収束していく。

 そして最後の一振りが敵を斬り伏せた。鉄塊の重質量が崩れ落ち、床を傷つける。割れた椅子は原形を留めておらず、弾痕が刻まれた卓席は砕かれ、ソフィア愛用のフライパンは蜂の巣と化している。

「あちゃー、お店がボロボロだ。もう、ここにはいられそうにも無いなぁ。ソフィア、大丈夫だったかい?」

 灰色の男がグレンの仕草で頭を掻き、手にした白い長銃が腕の中に融けた。そして深海色の瞳がソフィアを振り返ると、少女の左腕に違和感。あの痺れが、あの日と同じ激痛となって蘇る。瞬間、少女の心臓が大きく跳ね上がり心の中で何かが崩壊する。左腕が古傷を中心に激痛を訴える。灰色の男が、座り込んだままの娘に手を差し伸べようとした。

「いやああああああああああああ!」

「……ソフィア?」

「嫌だ、こないで、こないでッ! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! こないで化け物ッ!!」

 まるで火のついた赤子のようだった。恐怖が彼女の体を後ずさろうとさせるが、力が上手く入っていないのか、その動作はえらく緩慢だった。タートを抱き寄せていた左腕はダラリと垂れ下がり、少女の空色の瞳は、グレンをグレンとして見ていなかった。

 自らが差し伸べた手を、グレンはゆっくりと降ろす。背中の六翼がしぼむように折りたたまれると、長銃と同じく背中に融けた。

「そうだった。僕ぁ、君にとっての化け物だったね」

 そして彼女から視線を逸らしたグレンは、娘に背を向けた。



 円卓の会議室に集まった諸々の人間は、静まり返っていた。彼らが絶句の表情で見上げているのは、正面に据えた大型モニタに映し出された、都市の航空図面だ。その旧市街の一角で点灯していた最後の一つが今、消失する。

《【鋼鉄兵団(メタルス)】第二小隊、第三小隊の稼働反応全消滅。全機が撃退。待機中の第二小隊は撤退命令を受領。現在、本部へ帰投中》

 モニタの横。おおそよ抑揚には乏しい口調で穏やかならぬ事実を告げたのは、深緑の髪を片側だけで束ねた空中に浮かぶ少女だ。室内に設置された三次元立体映像投影機によって姿を結ばれた彼女は、その場で一礼すると直属の上官であるネルグ=マトンの横で静かに控える。そして間を見計らって、中央席を陣取っていた大柄な男、グルッグ市長であり今回の企画を推し進めてきたジャミル=クラークが全員に語りかけた。

「さて、諸君。今度の相手は、置きざりにされた過去の残滓。忘れ去られた伝説の堕天使だ」

 グルッグが独自に保有する治安維持部隊である鋼鉄騎士団(メタルス)の精鋭二小隊が、たった一機により壊滅。それがジャミルが言う過去の残滓。前文明時代から稼働し続ける機械人形(フォニー)【古代機(エンシェント)】の実力だ。その最も恐るべきは、機体の電脳が積んだ膨大な経験値。ただでさえ機体性能で追いついていないのに、敵はその能力を十二分に発揮できてしまう。たかが一機と言えど、その戦力差を数で埋めようとすれば、それこそ戦争規模になるだろう。

 だがジャミルの言葉には苦渋も停滞も躊躇も無い。その瞳はまだ序盤でしかないチェス将棋の盤面を眺めるように、静かに座っていた。

「しかし我々は引くわけにはいかない。丁度良いじゃないか。我々の目指す至高は、過去、数多の人間が挑み敗れ去ってきた場所だ。だが我々は残り一歩の所まで歩を進めた。それは決して途方もなく大きな一歩ではない。これが最終関門だ。我々は打ち壊さなければならない。例え我々自身が、過去の残滓に魂を売ることになろうとも」

 ジャミルのその言葉に室内の空気に戦慄が走る。彼が何のために、上級役員一同をこの円卓に集めたのかを、全員が理解したためだろう。だが、誰もが否を唱えられない。もう、それしか手段が無いことを悟ってしまったから。

「くくく……」

 訪れる静寂――それを破ったのは今まで呼ばれたまま黙していた茶髪の男だ。ネルグ=マトン。彼の口元が痙攣するように引きつる。

「くはは、くはははは。酷いですよ閣下。それじゃ僕らがまるで悪魔か何かじゃないですか。おっかしなー。僕らは〝天使〟のはずなんですけどね」

「ならばそれは解釈の違いだ。俺は間違ってもお前のようなむさい野郎が天使だなんて認めない。これでももし、悪魔が飛び切りの美女ならば、俺は迷わず地獄を選ぶ」

「僕ぁ、閣下のそういう正直な所が大好きです。それじゃあ今回は正式な承認を取りますよ。僕はこの件が片付くまで、本来の治安維持活動に戻り、そこで堕天使を狩り出すための指揮を取ります。新しい時代を生きる皆様方、それで良いですか?」

 普段は常に冗談めいたネルグの口調が笑っていなかった。そして会議室に集った全ての人間が、それぞれの表情に苦い物を浮かべて手を挙げる。その中でただ一人、市警の長だけが握った拳で机を叩き、それから手を挙げた。

「――承認確認。それじゃ閣下、次に映ります。ワーム、【主天使(ドミニオン)】達を動かすぞ」

 憎き怨敵でも追いつめるかのような台詞の中で、茶髪の男は微かに笑った。



 半壊した〝小さな羽根(リトルウィング)〟にはもういられなかった。人目を忍ぶように移動して辿り着いたのは、街の表通りの一角。それは一体何の冗談か。〝風〟だった。ソフィアは不思議な事に、勝手に入ったら怒られるとは思わなかった。思う余裕が無かったのだが、万が一〝風〟の所有者に見つかっても問題は無い。何故ならば、その所有者こそが、グレンだったから。

 ここに訪れたのは、最初の敵情視察に来て以来だ。相変わらず中は嫌みもなく小綺麗に整っていた。照明は最小限に抑えられており、室内は薄暗い。本来ならば照明は必要ないのかも知れない。この光は自分のためにあるのだ。

(……準備が良いことね)

 グレンはこうなる事を予想していたのだ。彼に背負われてきたタートは、今は少女の隣で、よく手入れが行き届いた長椅子(ソファ)の上に横たわっている。未だに意識を失ったままだが彼に施す治療はもう必要無い。傷口を白い靄(もや)のような物が覆い、その下で細胞組織が修復されている。

 襲撃者達がこの子を狙った時点で解ってはいたが、どうやら、タートもまた普通の存在ではないらしい。ソフィアはもう、何にも驚かなかった。心のどこかが麻痺してしまったのかも知れない。そして少女は自分から少し距離を取った所で背を向ける、灰色の男を凝視した。

〝小さな羽根(リトルウィング)〟を出る前に着替えたグレンは普段着では無く、修道士が着るような灰色の法衣を纏っていた。それが彼の本来の姿なのだろう。

 十二年間、少しも疑った事なんて無かった。家族を失った自分を絶望の淵(ふち)から生へ向かわせてくれた男の正体は、自分が忌み嫌う存在だった。滑稽(こっけい)だ。人形嫌いの自分が、実は人形(フォニー)に育てられていたのだ。自分は今まで何を嫌悪をして、何に怯えていたのだろう。

「どうして?」

 無意識に呟く。自分でも何を尋ねようとしたのか解らない。何かを言葉にして出さないと、自分が壊れそうだった。もう今まで通りにグレンを見ることはできない。今となっては実の両親以上に多くの時間を過ごした彼が別人に見えてしまう。自分は何て薄情な人間なのだろう。彼が変わったわけじゃない。最初からそうだったと言うのに、心が受け入れようとしないのだ。それが辛くて苦しくて、何よりも悔しくて悲しい。

「騙(だま)してきてすまなかった。でも僕が今まで君に掛けた全ての言葉は、偽りじゃない」

「人形が言うことなんて、信じられる分けないじゃない!」

 思わず怒鳴り返したその言葉を言い切ってから、ソフィアは我に返る。違う、本当はそんなことを言おうと思ったんじゃない。それなのに言葉は止まらない。

「あなたは誰なの? 非道いよ、非道いよそんな風に言うなんて。あんまりだよ。昨日までの人が、いきなり消えちゃって、違う人になっちゃうなんて、あんまりだよ! あたしのグレンさんを返して! あたしの、あたしのたった一人っきりの家族を、返してよ!」

 絞り出た声は、衝動とは反してか細かった。自分でも無茶苦茶な莫迦を言っているのがよく分かる。だけど抑えきれない心が言葉を吐き続けていく。奥の奥から込み上げてきた熱い物までが目尻から溢れ、幾つもの小さな滴が灰色の床を濡らす。ソフィアは目元を拭わなかった。男は黙ったままだった。

 コン、コン。訪れた長い沈黙を破ったのは、裏口から聞こえたノックだった。二人が振り返ると、入室許可を出す前に扉が開く。

「こんばんは」

 穏やかな聞き慣れた声。杖をついた紺髪の男を、ソフィアは何故ここに、と凝視した。〝テスラル・キッチン〟の経営者で、チェルルの夫。そしてあの双子達の父親であり、ソフィアの兄のような存在――ラグラル=テスラルがそこにいた。しかしグレンは彼の出現を受け入れているし、ラグラルもまたグレンの姿を見ても驚かない。何も知らなかったのは自分だけ。その事実を目の当たりにして、自分が信じ込んでいた日常が崩れ散る音をソフィアは聞いた。

「急ですまない。チェルルと子供達は?」

「安全そうな場所に避難をさせましたよ」

 ソフィアは二人の会話を眺めたまま、動けなかった。それから何事かを打ち合わせた後、少女の肩にラグラルの手がそっと置かれる。

「大丈夫ですよ」

 それからラグラルは杖に体を預けながら椅子を引き寄せると、腰掛けた。彼の下半身から僅かに聞こえてくる機械音は補助装具のものだろう。壁の柱時計を見ると時計の短針は九の上で止まった所だ。

「さて、もう説明する必要は無いかも知れないが、今回、狙われているのはタートだ」

「タートは、何者なの?」

「簡単に言ってしまえば、神の武器さ。大破壊の詠い手、光の剣、裁きの槌、神雷。あの子を指す言葉は、今も様々な形で残されている」

「ふざけないで!」

「ふざけてなんかいない。僕もあの子もそういう存在なんだ」

 切り返されてソフィアは口ごもる。話があまりにも理解できない方へ飛躍したせいで、冗談にしか聞こえない。少女が沈黙してしまうと会話は急に途切れる。誰に狙われているのか、これからどうするのか。話すべき、聞くべき内容はまだある。しかしそれよりも今は、聞かされた内容を消化する時間が必要だった

「……お茶を、煎れてきます。茶葉とか勝手に使っても、良いんでしょ?」

「私が煎れましょう」

 詰まるような空気に耐えきれず、立ち上がろうとしたソフィアをラグラルが制すると、彼が代わりに湯を沸かしに向かう。ようやく探し当てた逃げ場を取られて腰を降ろすと、炎がポットの底を炙(あぶ)る音が室内に染み出した。

「ラグにぃは、いつから本当のグレンさんの姿を知っていたの?」

「子供の時からです。私が初めてお会いしたグレンさんは、今の姿でした」 

 三人分のティーカップを用意しながらラグラルは短く答える。グレンも会話を聞いていたが参加はしない。代わりに青髪の少年の様子を見ていた。

「チェル姉さんも知ってるの?」

「はい」

 それから時計の秒針が何周まわっただろう。気がつくと火に掛けられたポットが白い湯気をふかしながら、高い声で鳴いていた。茶葉に染められた液体がティーカップに注がれる。その一つが、ソフィアの前に置かれる。

「ソフィアさんの心は、まだ整理が追いついていないのでしょう。それが普通です。ですが、だからと言ってグレンさんは変わりません。それだけは、安心して下さい」

「それは解ってるの、頭じゃ理解しているの、でもッ、でも、あたしは――」

 怒鳴るようにそこまで言いかけて、桜色の唇に人差し指が当てられた。

「ダメですよ。ソフィアさんも、グレンさんのことが好きでしょう? だったら、彼を哀しませるような事を言ってはいけません。憶えておいてくださいね」

 頭の上に載せられたラグラルの手が、ソフィアの金色(こんじき)の髪を撫でる。彼女の頭を撫でる人間は、思えばいつもラグラルかチェルルだった。兄弟のいないソフィアにとって、ラグラルとチェルルは兄姉同然の存在だ。だからなのか。今、唐突にこの兄に抱きしめられたくなった自分がいた。そうじゃなければ、今にも崩れかけてしまいそうで、何かが壊れてしまいそうで、苦しかった。だけど少女は求めない。既にこの男が抱く人物が他にいる事を知っているから。

「さぁ、この紅茶を飲んでください。少しは心が落ち着くはずですよ」

「……ありがとう、ラグにぃ」

 まだ湯気が昇る赤色の水面。そこにはシュンと沈んだ少女の瞳が映っている。両手でゆっくりと持ち上げてまず一口、そして少しずつ飲み干していく。

 そしてさりげなく窓辺に寄ったラグラルが、ふとその視線をカーテンの隙間の外へ向ける。すると表情が変わり、何やら緊迫した面立ちで、机に立てかけていた杖を手に取った。

「どうした?」

「グレンさん、窓の外を静かに覗いてください。向かい側の柱の裏です」

 闇の中に潜めた用心するような声は警鐘を孕(はら)み、グレンは暗幕の隙間から外を覗う。この時間帯、街路は人通りが極端に無くなるので、必要最低限の照明しか灯らない。だがグレンの機械仕掛けの瞳に、暗闇は障害にならない。そして彼は、静かに言葉を落とした。

「あの機体は〝主天使〟……〝堕天狩り〟だと?」

 その単語が一体何を示すのか、ソフィアには解らない。しかし窓辺から戻ると、グレンは宣言する。

「説明は後だ。すぐに個々に出るぞ。ソフィア、タートを連れて準備をしてくれ。ラグラル君、巻き込んでしまって悪いが、君も逃げ――」

 瞬間暗い室内を紫電の光が照らした。するとグレンの体が大きく揺れ、ソフィアはその唐突な光景を、ただ呆然と眺めるしかできなかった。グレンの首筋に突き刺さる刺突剣。仕込み杖から抜かれたその柄を握っていた人物は他でもない、ラグラル=テスラルその人だった。

「ごめんなさい、グレンさん」

「なゼ、ダ?」

 ひび割れた声が旧友を詰問すると、返事の代わりに白刃が再び発光する。そして首筋から細刃が抜かれたグレンの体が崩れ落ち、感情を廃したラグラルの瞳が灰色の男を見下ろした。悲鳴を上げることも忘れて愕然と見入っていたソフィアに気付くと、ラグラルは目を伏せたまま、そっと呟く

「安心して下さい。彼は気を失っただけです。既に自己修復が働いているはずですから、一時間もあれば復活するでしょう」

「何で、何でなの、ラグにぃ?」

 困惑する空色の瞳が、剣を握った兄を凝視すると、剣が纏う電雷がバチンと弾けた。ラグラルの腕を紫電の蛇が這い、剣の切先から放出された青白い光が床を焼く。

「強化、兵?」

「はい、正確にはちょっと違いますが、その通りです」

 強化兵(ブースタ)――前文明より発掘復元された特殊な生体手術と遺伝子操作により、超人的な身体能力や回復能力、或いは発火能力や念動力などの特殊能力を持たされた超越者。

 その時、世界が揺れた。地震、いや違う。花瓶や食器などの、周囲の物は一切揺れていない。揺れたのはソフィアの視界の方であった。

「あ…れ…、何…で?」

 気がつけば床が近づいてきている。咄嗟に手を出そうとしたが、腕が動かない。それどころか、体中に力が入らないのだ。すると、床に倒れ込もうとするソフィアを受け止めたのは、ラグラルの腕だった。

「紅茶に入れた薬が効いてきたのです。大丈夫、毒ではありません。ソフィアさん、民間人である貴女の安全は保証します。悪いようにはさせません。だから、安心してお休み下さい」

「ラ…グ…にい、?」

 バランスを取ろうとした足はうまく動かせず、視界と意識も次第と暗闇へ融けていく。抵抗も出来ずに仰向けに寝かされた少女の顔を、草原色の瞳が表情を変えずに見下ろす。微睡み消える意識の中で、男は一瞬だけとても悔しそうに唇を噛みしめて呟く。

 ごめんなさい。

 男の気遣いとも取れる謝罪の言葉が聞こえたと思うと、ソフィアの意識はそこで途絶えた。



 初めて彼女に抱きしめられたあの日から、二年が経過した。

 仰ぐ東の空を覆っていた紺色を払拭(ふっしょく)するように太陽が光の翼を翻(ひるがえ)す。今日という言う日が始まる暁時(あかつきどき)。白い少年――ハヴォックがシェリーを見かけたのは、そんな空が見下ろす、施設の屋上でだった。シェリーは手すりに体を預けたまま、遠くの空をぼんやりと眺めていた。ハヴォックが一メートル背後まで近づくが、それでも気づいた様子は無い。

「シェリー」

 声を掛けると、最近は背中まで伸びてきた亜麻色の髪がゆっくりと振り返り、琥珀の瞳が少年を見下ろした。驚いた様子は無い。もしかしたら最初から気付いていたのかも知れない。

「やぁ、ハヴォック。早いね」

「……疲労が溜まっている?」

「あはは、君にも解っちゃうか。うん、もう眠くて眠くてさ。今は、ちょっと、考えゴトしながら眠気覚ましに朝日を拝みに来たトコ」

 そう言って力なく笑ったシェリーの目元には、うっすらと隈が出来ていた。科学者が夜通し研究に詰める事自体は珍しくない。だがこの数日間の彼女は、それにも増して辛そうに見えた。抱き締められてからの二年間、彼女が約一ヶ月の周期で体調不良を起こしている事実は知っていた。そんな彼女をハヴォックは素直に心配していた。だが〝教会〟の電脳空間にも接続して、この二年間の彼女の定期健康診断結果を当たるが、全ての情報から異常は見られない。

「あーあー、研究者って嫌になる商売だよ。体が辛いのに休ませて貰えないしさ」

「シェリーの周期的な体調不良は、病気か何かなの?」

 だから本人がぼやいたのをきっかけに尋ねてみたのだ。するとそこで今日初めて、シェリーの疲れ切っていた表情に苦笑が浮かぶ。

「うーん、違う」

「体を壊した?」

「そーゆーわけでも無い」

「なら、何?」

 少年は素直な、困惑の表情を浮かべる。だがそんな少年と同じくらいに、シェリーも戸惑っているようだった。或いは、口を濁している。気のせいか、ほんの少しだけ頬が上気しているような気がした。暫くの静寂。それから、シェリーは少年を諭(さと)すように言う。

「いいかいハヴォック。女の人が風邪じゃなくて辛いって言ったら、それ以上を追求しちゃ駄目。それが男の子が守る最低限のエチケットなんだよ」

 頭の上に疑問符を載せるハヴォックを、シェリーは敢えて無視したようだ。そして彼女に言われた通り、少年もまたそれ以上を聞き返さない。ハヴォックにとって、シェリーの言うことは絶対だ。それは少年の中で唯一、自分自身で決めた決して強制されていないルールだった。

「ところでさ、ハヴォックは、神様の存在を信じる?」

「信じるよ」

 唐突な質問にも、ハヴォックは即答する。

 神がいなければボクは存在できない。自分達〝天使(フォニー)〟は神の意思を補助する目的で、人間達によって創造された存在だ。この世界には確かに神が存在する。少年は何度も神から指令を受けているし〝教会〟の人間を動かすのは、全てが全て神の意志だ。だからハヴォックはそう答えるしか無い。

「じゃあさ、ハヴォックは、神様の事が好き?」

「多分、好きだよ。だって、シェリーもそうでしょ?」

 少年の仕事も、他の〝天使(フォニー)〟に漏れる事なく神の意思の補助だ。彼は神の意志に従って彼に任された力を振るう。全知全能なる自分達の神、何もかもを決して間違えず、この世界を確実に豊かにしていく存在。ならばそれは、好きと言えるのでは無いか。

「わたしは、嫌いだな」

 だがシェリーは、そう答えた。少年と同じように、彼女もまた頭脳と技術を以て神に仕える身のはずで、だから自分の製作にも携わったはずなのだ。するとシェリーは続ける。

「神様は、好き嫌いが多すぎるんだよ。神様はいなくなった人とは、もう二度とお話できないということを知らないんだ。融通が利かなくて、あたまでっかちで、わがまま太郎なんだよね。とっても。だから、わたしは神様が大嫌い……これ、他の職員には、内緒の話ね」

 両手を白衣のポケットに入れながら太陽から顔を背けたシェリーの横顔は、どこか憤りを秘めているようで、今にも泣き出してしまいそうな、そんな印象を受けた。それから半時間ほど、二人で同じ朝日を眺めていただろうか。先に手すりから手を離したのは、シェリーだった。

 もう戻るの? そう言葉を発する前に、彼女の両腕がハヴォックを包む。鼻先を良い匂いが過ぎった。全身に加わる心地よい荷重、そしてこの世の何よりも柔らかな、彼女の温もり。ハヴォックは目を閉じると、体の全てを彼女へ預けた。シェリーに抱き締められている時間は、天使である自分でも微睡みのような錯覚を憶える。こんな感覚を人間は何て表現するのだろう。

 シェリーの腕から力が抜けると、前髪が掻き上げられた。そこに落とされた唇の感触。それkらシェリーは、ハヴォックの肩に手を置いたままゆっくりと立ち上がる。そして最後、まるで何かを惜しむように、その手が少年の肩から離された。

「それじゃあ、わたしは戻るね。――またね、ハヴォック」

 少年を置いて、亜麻色の髪と片手を背後に振った背中が建物の中へ飲み込まれ、ハヴォックは呆然とその背中が消えた先を見送った。これが、ハヴォックがシェリーを見た最後の記録だった。その数日後、シェリー=クルーは教会から失踪し、その二週間後には堕天の烙印を押され――少年が狩るべき対象となった。



「協力を感謝する」

 古い友人を裏切ってから数分後、送った合図で室内に入ってきたのは二人の男だ。緋色の法衣に身を包みバイザー付きの背の高い帽子を被った、軍人と言うよりは僧兵を彷彿させる機械人形(フォニー)。それがどういう機体なのか、ラグラルは知らなかった。

 ラグラルは疲れ切った様子で椅子に腰掛けていた。杖と補助装具が無いと歩けない足は本来、その場で立ち続ける事はできない。さっきは自分の能力を応用し、直接足の筋肉に電気信号を送り機能を回復させていたが、やはり体への負担は大きい。

「【セラフⅡ】ルシフェルを本部に移送。人質としてその女も連れて行く」

 人形の片方が、長椅子(ソファ)に寝かされていた青髪の少年と、金髪の少女を抱きかかえて部屋から出て行った。その様子をラグラルは傍観するしかなかった。そして唇を噛みしめ罪悪感を感じながら、これしかなかったと自分に言い聞かせていた。

 テスラルの家系は【遺能者(レリック)】の血を引いていた。強化兵(ブースタ)とは本来、人の手が加えられて後天的に超人的な力を得た者の事を言う。だが遺能者(レリック)は違う。ラグラルの放電能力は、彼が生まれた時から授かっていた物だ。学者(シーカー)の話によれば、今とは比べものにならない技術で生み出された過去の強化兵達――遺能者(レリック)とは、彼らの能力を受け継いだ末裔(まつえい)らしい。多くの血統は、血が薄まるにつれて能力を失ったが、たまに先祖返りとも呼べる現象で能力が発現する個体がいる。ラグラルもその一人だが、彼の場合、彼の父親のまた遺能者(レリック)であった。そしてラグラルは、過去に傭兵として過ごした時期もある。人ならざる力を持つ彼は、そうでしか生きられない時期があった。だがそんな彼もある日を境にして、商売道具を剣から菓子に変えた。手に入れた平穏な生活。戦場にいた頃には掴む事ができなかった満ちた感覚。子宝にも恵まれて心から幸せだと感じた日常。そんな日々が崩れ去ったのは、少年の捜索要請が都市軍から来たのは半月ほど前のことだ。

 そして旧友を裏切った男は人形(フォニー)を睨み付ける。

「それで、次は何をさせようと言うんだ?」

 刺突剣の収まった仕込み杖を握りしめ、今すぐにでも抜刀したい気持ちを抑えながら半ば吐き捨てるように尋ねる。感情を知らない人形(フォニー)が気づくはずも無いが、その声には憎悪が練り込まれていた。半分は彼らに、そしてもう半分は自分に対して。

 ラグラルがリハビリも兼ねて近くのポストに赴いていた短い間に、全ては起こった。先に子供達を人質に捕られたらしく、チェルルも、本来は護衛者であるボルボゴですら、為す術無く連れて行かれた。だから彼は家族を取り戻すために友に刃を突き立てた。その娘を絶望させた。そして少年を売り渡した。

「お前に何かをさせる? それは無い」

 感情の欠落した冷たい声が返された。

「お前の役目はここで終わりだ」

 突如、閃光が出現する。その意味を考えるよりも先に、体に染みついた経験がラグラルの体を動かすと、座っていた椅子が紙細工のように木端微塵に砕かれる。

 緋色の僧兵が抜き放った一振りの長剣。閃光がその先端から飛び出た物だと認識すると、瞬きのしない瞳が消去対象を追って静かに動き、罪を飲み込む懲罰の光が次々と家具を破壊しながら白光を撒き散らす。こんな飛び道具の機能を備えた剣を見るのは初めてだが、ラグラルにとってこの程度は驚くに値しない。

 射撃の間隔、狙点の狙い方、或いは足下の動かし方を観察する。友を刺したその瞬間から、彼は傭兵時代の【紫電のラグラル】に戻っている。そして彼は飛び出した。壁と天井を使って空間を縫いながら急接近。光弾が数発、服の裾を掠めて溶けた。そして仕込み杖から引き抜かれた剣身が音速に迫る速さで人形の首を断ち切る。僧帽を被った首が舞い、制御機関を失った体が床に崩れ落ちた。

「こうも早く切り捨ててくるとはね……」

 剣を支えに片膝を付きながらラグラルは独りごちる。

 どこかで裏切られるとは思っていたが予想以上に早かった。そして家族の安否を思う心に焦燥が募る。だからだろう、背後の気配にコンマ数秒、反応が遅れた。

「――修復率九十三パーセント。消去作業を続行」

「ちぃっ!」

 振り向きざまの一閃。並大抵ならば全てが決まる一撃は半瞬遅かった。火花が散り、一閃が長剣によって止められるとラグラルは今度こそ驚きを隠せなかった。確かに断ち切ったはずの首を、裾の一部が蛇のように伸びた緋色の法衣が接合し、何事も無かったかのように人形は剣を動かす。そして鉄柱でさえも握りつぶす機械の腕が、刺突剣をへし折った。次の瞬間、吐き気を催す嫌な音と共に片足があらぬ方向へ曲がる。ろくに動きもしないのに痛覚はちゃんと残ってやがり、激痛。片足を潰されてバランスを失い倒れ込むと、鋼鉄の足が振り下ろされた。咄嗟に身を捩ってかわすと、代わりにラグラルの左腕の骨が、肉ごと踏み砕かれた。

「がッ……クハッ……!」

「罪深き者に浄化を与えたまえ」

 見開かれた瞳に、白熱する切先が突きつけられ、長剣の柄の引き金に置かれた指に力が込められる。灰色の腕が長剣を押さえたのは、その時だった。

『滅せよ(Break)』

 直後、忽然と現れた長銃の上下二連銃口が人形の額当てられ、零距離での轟音。翡翠の灼熱に穿たれた僧兵が仰ぐように反り返り、その体が床に落ちる前に霧散する。

「こいつらは機械人形(フォニー)の中でも特別製でね、核を確実に破壊しないとだめなんだ」

 今にも途切れそうな視界の中で、おぼつかない足取りで立ち上がったグレンが踏鞴(たたら)を踏む。焼き切られた回路は、まだ完全に復旧されてないらしい。するとグレンは自分の血液――自身を構成するナノマシン群をラグラルに垂らす。

「時間がない。【セラフⅡ】を補助に回す。回復次第、応急処置は自分でやれ。元通りにとは行かないかも知れないが、日常生活レベルには回復するだろう」

「なん、で?」

「君の子供達を抱きしめてやるには、両腕が必要だ」

 そのまま殺されると覚悟していたラグラルに苦笑が返ってきた。

「ボルボゴの刀は、店の倉庫か?」

「四番ロッカーの中、鍵は壊して頂いて構いません。……追うつもりですか?」

「その通りだ」

 殺戮の熾天使はそれだけ言い残すと、灰色の六翼を広げ追跡を開始した。



「シェリーが、死んだ?」 

 白壁に囲まれた円筒状の室内、何やら職員全体の雰囲気が慌ただしく、他部署との往来が激しいせいか、扉の開閉音が普段以上に頻繁に聞こえた。〝堕天〟が出ただけだと言うのに様子がおかしい。ハヴォックが適当な職員を捕まえて説明を求めると、こんな忙しい時にと、捕まえた男は露骨に顔をしかめる。

『堕天、シェリー=クルーの排除が完了しました』

 その意味を思考の中で何度も反芻して、ようやく始めの一言を理解した。だが多忙の真の理由は、排除を担当した〝堕天狩り〟の指揮官機が排除実行直後に〝堕天使〟と化したことにあり、既に教会軍の一個中隊が壊滅させられていると言う。

 しかし後の報告は、ハヴォックの耳には届いていなかった。何か大きな物に飲み込まれ意識が遠のく錯覚。少年の不審に気付いた職員が怪訝そうに呼びかけるが反応がない。ハヴォックは戸惑っていた。〇と一でしか構成されないはずの思考方程式に、数字でも文字でも無い何かが連ねられ、決壊していく。

「……なん、で?」

 もう一度呼びかけられたところで、ようやく、口を開いた。

「なんで、シェリーを、殺した?」

 その声は酷く掠れて、震える拳は気づかぬ間に固く握りしめられている。権限を使えば電脳空間からいくらでも詳細を取り出せるにも関わらず、ハヴォックは尋ねないではいられなかった。詰問された方は、何か気味悪いものを見るように少年を見下ろすと、「それが神の御意志です」とだけ付け加え、さっさと自分の仕事へ戻ってしまった。

 ハヴォックは、自らが納まるべき場所へ駆け出す。そこは塔の中枢。室内の中央に鎮座する台座に腰掛け、緑色に淡く発光するコンソール・パネルに手を翳す。少年はこの塔のために造り出されたのだ。端末から電脳空間へ意識の半分を落とし、視界の中に画面が生まれ、教会が管理する広大な電子の海から、請求した情報が次々と思考内に展開される。関連記事を光の速度で閲覧しながら、辿り着いた新たに個人ファイルを開く。圧縮されていた三次元画像を展開。浮かび上がってきた像に、肩まで届く亜麻色の髪を垂らした女が映っていた。

 その画像データの琥珀の瞳が、少年を見つめる。その下に続けて現れる文字を追う。

 シェリー=クルー。享年二十九歳。十年前に義体工学の博士号をとり、二十二歳時には、機械に心や感情を再現させる人工心理学を立ち上げて研究。二十六歳まで教会軍第八研究所において戦闘型機械人形の開発に貢献。しかし三年前に突如として堕天。その後、軍部の第二、第四、第五、第七研究所を始め、民間も含めた数々の兵器開発研究所の破壊活動に協力。テロの首謀者の一人として手配が回っていた。

 そして最新の記述の日時は昨夜――教典歴二五二二年、十一月二十四日、死亡を確認。

 それらの情報を記録に入れた瞬間、ハヴォックは体に違和感を憶える。この感覚は何だろう。どこかが故障したのか。だがいくら自己診断(セルフ・チェック)をかけても異常は見当たらない。

 シェリーは殺されて死んだ。死ぬって何なのだろう?

『もう二度と、その人とはね、お話ができなくなるんだよ……』

 思った直後、彼女の言葉が脳裏に再生され、胸の内側に納められた動力炉が、ずきりと異端だ。疑似痛覚は信号を発していない。それなのに、痛みはなんだ。内側を灼かれるような、この苦しみはなんだ。確認のためにもう一度自己診断を掛ける。それでも異常はみられない。

 断続的に息が詰まりそうになる。胸の奥が熱い。それなのに震えだした全身が冷めていく。全身を構成する微少機械の配列が中心から崩れていくように、とても苦しい。

 ねぇシェリー、とても苦しいんだ。この苦しさは、なんなんだ。自己診断でも検出できないこの苦しみは、どうやったら直るんだ。でも自分の制作者(生みの親)である彼女は、もういない。シェリーはもう何も教えては暮れない。もう二度と、シェリーと話すことはできない。殺されてしまったから。もう二度とシェリーは笑ってくれない.。もう二度と。もう二度と。もう二度と、シェリーは、ボクを抱きしめてくれない!

「あぁぁああぁあああぁああぁッッッッ!!!」

 多忙に追われていた周囲の誰もが作業を中断し、その異常振り返った。その絶叫は延々と続き、涙を流すことも知らない少年は、仰いだ天上の、その遙か向こうへ叫んだ。その場所が自分では永遠に辿り着けない場所だと知りながら。そうするしかできなかった。

「何で、何でもう二度と会えないの? ボクは待ってたんだ、シェリーが帰ってくるのを、ずっと待ってたんだ! なのに、何でなんだ!」

 一番近くにいた大柄な男性がハヴォックの肩を揺らしながら呼びかけるが、その声も届かなければ、ハヴォックには男の姿も見えていなかった。揺さぶられてることにすら気づかない。

「ハヴォック、どうしたんだハヴォック! おい、メンテナンスを呼べ!」

「苦しい苦しい苦しいよ! シェリー、ねぇボクはどうすれば良いの、教えて、教えてよシェリー、またボクに教えてよ! シェリー、ねぇってば!!」

 決して届かぬ言葉と知りながら、魂宿らぬその心で、少年は泣き叫んでいた。

 苦しい苦しい苦しい。周りが何かを叫んでいるがどうでもよかった。シェリーが死んだ。シェリーが殺された! いったい誰が、シェリーを殺した?

「シェリーとは、先日始末したシェリー=クルーのことか?」

 錯乱状態に陥っていた少年がピタリと静まり、言葉の主へ振り返る。その先には高位聖職者を示す深緑の法衣を纏った中年の男が、厳しい眼差しでハヴォックを見据えていた。

 その男は少年を管理する上司であり、この施設の最高責任者で、今まで数え切れないくらい顔を合わせてきたし、この男の命令を聞いて、ハヴォックは何度も神の剣を振るってきた――偉大なる神の神意に背きし、異端の輩を灼き払うために。

「ハヴォック、あんな異端の魔女に、何の教えを請おうと言うのだ」

「……魔女?」

「そうだ。あの女は、我らが御主の恩寵にあやかっていながら、その御主を、裏切ったのだ。その上、テロなどという卑劣極まりない行為に手を染め、なんの罪もない人々を苦しめてきたのだぞ。なあハヴォック、あの女は悪魔の手先だったのだ。そうだろう?」

 男の声と嘲笑に胸の奥から熱い物が込み上がる。何かを言い返そうとして、少年の口が勢いに任せて開かれた。しかし声帯は動かない、ハヴォックの根本を縛る制約が反論を許さず、少年の思考をねじ曲げる。それがとても悔しくて、ハヴォックは胸を抑えた。

 何故、抑えなきゃいけない。

「何か異論はあるか?」

「ない、です」

 勝手に口が動いている。違うのに、そうじゃないのに。

「良い子だ。ハヴォック。では再調整を受けてこい。これは命令だ」

 強迫観念にも似た見えざる何か、背筋を凍らせる。『これは命令だ』それが前後の言葉を特別な物に変える。だから過去、シェリーは決してその言葉をハヴォックに使わなかった。男は沈黙した少年の肩を叩く。錆び付いた瞳は自然と足下へ向けられ、どこか煮え切らない何かを胸の内に抱えたまま、ハヴォックは台座から立ち上がると、自分の体のメンテナンスを担う技師官の元へ歩き始める。

 しかしこの時、少年が狂い始めていた事に、本人も含め、誰も気づいていなかった。

 歩きながら、無意識が自分の意識を縛る絶対的な物に干渉を開始する。禁則行為。そう警告してくる何かでさえも、少年に書き換えられ、消滅する。そしてその何万もの作業が終わる頃、少年の足が、部屋の出口の前でふと止まった。

「シェリーを殺すように命じたのは、あなた?」

「ああそうだ。堕天狩りの長である私の他に、誰が命じよう?」

 そこで少年の言葉に不審を抱いた法服の男は、目配せだけで部下に増援の指示を与える。

 だが既に、何もが遅かった。

「ゆるさない」

「ハヴォック! 命令だ! 今すぐに全機能を凍結しろ!」

 琥珀の瞳が冷たく光り、開かれた唇からソプラノの旋律がこぼれ落ちる。それを聞いた男が驚愕に目を剥いて咆えた。それは、天使を強制終了させるための最上コマンドだったが、思考制御で縛られていたはずの少年は、その命令を無視できた。そして錆び付いた瞳に稲妻の輝きが宿り、魔王の如きの厳かな響きが、大破壊の施錠を解いた。


『【セラフⅢ】神剣形態(クラウソラス・モード)――起動(オープン)』


 刹那、少年の背中から迸る蒼雷の六翼。琥珀の瞳を藍色に変え、舞い降りたのは幼き熾天使。

 処刑宣告と共に、六翼を形成する光が輝度を増す。男の驚愕と狼狽はすぐに恐怖にとって変わった。途端、弾けた六翼から水平に走った青い稲妻が、立ち塞がる機材や人を貫いた。

「堕天だ! ハヴォックを破壊しろ!」

 緊急停止コードに伸ばしかけた男の腕が、リモコンを握ったまま炭化した。通り抜けて背後を穿つ落雷。半瞬遅れて絶叫を上げ蹲る男を、まるで虫けらでも見下ろすように、少年は睥睨する。そして口の端を吊り上げると、渇いた笑い声が聞こえた。

「あはは、なんだよそれ。ボクを破壊しろ? 貴方達が破壊者として造ったボクを、破壊するって? あはは、おかしいね、ボクを破壊できるなら、してみなよ」

 その時、扉が開くと現れたのは、警備を司る武装天使隊だ。すぐさま援護射撃の光弾の群れがハヴォックへ殺到する中、二機の天使が槍を構えて、一直線に飛び掛かる。しかしその穂先が少年を貫くことは無かった。一瞬の内に何が起きたのか、ベクトルを無理矢理ねじ曲げられた突進が明後日を穿ち、無造作に掲げられた手の平に浮遊する雷球が、その後を追い槍の持ち主を引き裂いた。今もなお少年へ集中する光弾の群れは、蒼雷の翼が撃ち落とされていた。そして少年の掌が新たに雷球を生み出すと、頭上へ掲げられたそれから稲妻が迸り、背の六翼が反り返る。残った武装天使達はすぐさまエネルギ・シールドを展開させる。

「壊れろ」

 駆けめぐる無数の紫電が、立ち塞がる全てを穿ち、シールドごと動力炉を引き裂かれた天使達が、爆破炎上を繰り返す。最後の一機が倒れた時、先程まで慌ただしかった室内を、奇妙な静寂が支配していた。その中でただ独り、苦痛が響いた。ハヴォックがそちらへ目を向けると、深緑の法衣に身を包んだ男が、憤怒の形相でこちらを見ていた。

「やめろハヴォック! お前は混乱している。すぐに武装を解いて調整を受けろ。これは命令だぞ! まさかお前は、神の代行である私の、人間の命令が訊けないわけじゃあるまい?」

 肘から先を押さえ呻いていた男が、歯を食いしばりながら声を掛けると、少年が固まった。少年を内側から縛り付ける思考制御が奇跡的に生き返ったのか。希望を見つけた男の表情が希望に緩む。

「そうだ、良い子だハヴォック」

「違う!」

 少年は声を張り上げ、泣きじゃくるように顔を覆った。

「ボクは、ハヴォックなんかじゃない」

 髪を巻き込んでまで握り締められていた両手が離されると、藍色の瞳が男を射抜いた。その姿は、もはや天使でも人間でも無かった。否、彼は蒼雷の六翼を従え、阿鼻叫喚を奏でる者。

 掲げられた破壊者の腕に雷球が収束すると稲妻の巨剣が精製される。

 彼は、破壊者だった。

「ボクは…ボクは、タート=クルーだ!」

 男の表情が絶望で染まった刹那、巨剣は上司だった男を頭から股間にかけて一刀両断。別れる左右の瞳が恐怖に剥かれ、切断面を炭化させた肉塊が重力に従い崩れ落ちた。後に残るは、死体と瓦礫の山。灼かれた肉と金属の異臭が立ち籠める。全てを破壊し尽くした蒼雷の六翼が、ふっと空気中へ霧散すると、ハヴォックはその場に崩れ落ちた。

「ああ……ああ…、違うんだ、やっぱり、ボクは、違うんだ。」

 部屋にはクレーターのような半球が何十箇所も穿たれ、炎が床を埋めていた。切れた手足や吹き飛んだ内臓が辺りに散乱し、人間だった物質が、いつの間にか唯の肉塊と化していた。

 シェリーと同様、もう彼らは動かない。話さない。笑わない。奪ったのは自分だ。少年は今更それに気づくと笑った。

「ボクがタートだって? そんなわけ、あるはずがないじゃないか。人間に、こんなことができるはずがない。だってボクは、タートじゃない。ごめんなさい、ボクはシェリーの、家族にはなれなかったんだ。タートの代わりになれなかったんだ」

 思考制御の強制改竄(きょうせいかいざん)の影響か、急激に視界が歪み、ポタリと水滴が床へ落ちた。その数が増え、染みが斑(まだら)模様に散らばる。それが自分の顎先から垂れたと気づくのに数秒。自分の目尻から溢れたのだと判るまで、さらに数秒が掛かった。

「そっか、シェリーは、間違えてボクを造ってしまったんだ。だからシェリーは、ボクは置いて行ったんだ。ねぇシェリー。ボクも、死んだらシェリーと同じ場所にいけるのかな?」

 まだ稲妻が迸る掌を見つめながら、少年は、破壊の光を自身の胸に押し当てた。

「会いたいよ、シェリー」

 もうその願いは叶わない。彼女にも届かない。そうと知りながら、その一言に祈りを込めて目を瞑る――バチンと大きな音が弾け、自らの胸を稲妻が突き破った。

 痛みは一瞬。破壊された動力炉が機能を停止。同時に感覚も無くなり、その場に跪くように倒れると、急激に視界が暗くなった。

 静寂。意識がただの物質に戻る瞬間。少年は、転生の無い永遠の闇へ意識を委ねる。


 ――そして。


 タートの開かれた目蓋から、零れた滴が線を引いた。

 視界に映ったのは、華美(かび)な装飾が施された天井だ。触覚を通して伝わってくる布団の感触はこれまで経験したどれよりも肌触りが良く、普段ならばそのまま目蓋を閉じてしまいそうな寝心地だった。上半身を起こすと、自分の体が埋もれるキングサイズの寝台と、周囲を覆い尽くす絢爛豪華(けんらんごうか)な調度品の群が目に入る。そして少年の隣には、もう一人が蹲っていた。

「オネェ、さん?」

 返事は無い。覗き込んだ横顔は、まるで死人のように青ざめていた。だが頬に触れれば体温が確認できるし、呼吸も規則正しい。それよりも、とタートは改めて周囲を見渡す。

 何故、自分達はこんな所にいるのだろう。最後の記憶がどこなのか解らなかった。

 しかしそんなことよりも――タートとは誰なのか。

 そして不意に、部屋の自動扉が左右に割れた。

「おやや、意識はちゃーんと復旧したかい?」

 一瞬、その口調はグレンの物かと思った。だが振り返った先にいたのは、黒衣を纏う全く見覚えがない男。腕章には歯車の紋章が刻まれ。軍帽に収まりきっていない茶色の髪が、だらしなく揺れた。

「部屋数はあったけど、二人一緒の方が管理が楽だったんでね。君は幼いし、別に不都合は無いだろう?」

「お兄さんは、誰?」

 聞き返した少年の口調には、何故か警戒の響きが織り交ぜられている。すると茶髪の男はそれが意外と謂わんばかりに、眉根を上げた。

「僕が解らない? おかしいな、何度か会ったんだけどなぁ」

「え、あ、ごめんなさい。……わからない、です」

「ま、忘れたんならしょうがない。今の僕のことはネルグと呼んでくれ。グルッグの治安維持部隊【鋼鉄兵団(メタルス)】の兵団長をしている。好きだった食べ物はパンケーキ。それはもうたくさんのシロップをかけて、バターとチョコレートを落としたやつ」

 そしてネルグと名乗った茶髪の男は少年に握手を求め、人懐っこく微笑んだ。



 目覚めると、ソフィアは目蓋を閉じたまま目元に手を当てた。

 辺りは既に明るい。昨夜は目覚ましをかけ忘れたのだろうか。しかしそれでも、すぐに体を起こす気にはなれなかった。今日の夢見は最悪だった。自分を構成していた世界に裏切られる悪夢。そのせいか、体が怠い。布団から出たくない。だけどそれ以上に、一人でいるのが恐かった。意を決して目を開く。そして、周囲の雰囲気が我が家と異なることに気づいた。鼻腔を擽(くすぐ)るソースの匂いが、空腹だった胃を刺激する。

 上体を起こすと、少し離れた円卓で、青髪の少年がハンバーグを食べていた。その隣には、足を組みながら少年の食事をぼんやりと見守る黒衣の男。そして彼が身につける腕章が目に入った途端、心臓が早鐘を打ち始める。

 巨塔の後ろに歯車が描かれた紋章――鋼鉄兵団(メタルス)の人間が、何故ここに?

 頭が冴えていくに連れ、ソフィアは現実に起こった悪夢の内容を次第と鮮明に思い出し、手元の掛け布団を、きつく握り締めていた。左腕に痛みがやってくる。知らない内に、体が小刻みに震えていた。

「起きたね?」

 ふと、声は真横から掛けられた。少女が反射的に身を引くと、茶髪の男が立っていた。

「……ここは、どこですか?」

「はは、僕ぁ、女の子や子供を傷つけるような趣味はないから、安心しなさいな」

 隠したはずの同様はあっさりと看破され、男の苦笑を誘ってしまった。

「まずは質問に答えよう。ここは君が住む街の中心〝教典の塔(カノン)〟六十五階。この部屋は上客用の個室さ。ああ、そんな恐い顔はしないしない。折角のカワイイ顔が台無しだ」

 拉致された相手に褒められても嬉しくはないと思いながらも、俯いた頬が朱色に染まってしまう自分が、少し悲しい。上目遣いで睨むと、男は茶髪を掻きながら嘆息を漏らす。

「ま、怒るのも当然か。迷惑も掛けたしね。せめてものお詫びに、本来上等客しか泊まらせないこの部屋を使っているからさ。遠慮せずにどんどん寛(くつろ)いで。ルームサービスも付け放題にしておいたからさ。パーッといっちゃっても平気だよ?」

 確かに、見渡した部屋は、今までに何度か夢想した一流ホテルのイメージを越した豪華さだった。いっそ開き直ってしまおうか。だがそこで気付いた。

「ここが〝教典の塔〟の中なら、そのルームサービスとやらは、我々小市民の血税じゃないんですか?」

「む……うーん、普通の女の子ならもっと素直に喜ぶと思ったんだけど」

「あいにくと、その普通の女の子とやらをやる前に、家計管理を憶えてしまいましてね」

「そりゃ災難。その歳でえらいねーと褒めるべきか、それとも背後にあるだろう君の心労に同情するべきだろうか、お兄さん、迷っちゃう。いやーでももったいない。君みたいな若くて可愛い子はもっと遊ばせてあげるべきだろうに」

 このふざけた言動と言い、妙に軽い調子と言い、彼は、本当に軍人なのだろうか。そこでふと脳裏に、黒縁眼鏡をかけたあの男が過ぎる。そして危うく解きそうになった警戒心を、ソフィア腹に力を込めて張り直した。

「次の質問。何であたし達は――いえ、タートは、ここに連れてこられたの?」

 襲撃者達の数々の言動や流れから、狙われていたのがタートで、自分は、おそらくはオマケとしてここに連れてこられたのだろうと言うことは、ソフィアにも解っていた。だがまさかその黒幕が、本来なら市民を守ってくれるはずの街だったとは。

「『連れてこられた』は心外だ。僕らは総出で迷子を捜索して連れ帰ってきただけだよ。手荒になった部分は反省しているけどね」

「連れ帰ってきたってどういうこと? この子は、市政関係者の子なの?」

「いいや、そうじゃ無いんだ。この子は――おや、ちょっと失礼」

 そこまで言いかけて、彼は胸元に備え付けられた通信機を指で弾いて無言になる。通信機から伸びるケーブルの先にマイクは無い。その先端は代わりに首筋の中に埋め込まれていた。鋼鉄兵団(メタルス)に属する以上、彼もまた機械を纏う体なのだ。やがて誰もが黙したまま通話が終了すると、彼は黙々と食事を続ける少年に、振り返った。

「タート君、僕の上司がそろそろ来いってさ。今の話は向こうの方が話が早いから、お嬢ちゃんにもそっちで話してあげるよ」

 ソフィアは少年を一瞥してから、頷いた。



 亜音速で振り切られた巨大な刀が鋼鉄の装甲を両断した。

 街の誰もが眠りに就く真夜中を灰色が舞う。刹那、彼を射抜かんとした巨大な針を生やした機械腕が地響きを立てて街路に落ちる。

 彼を取り囲むのは三機。蜘蛛を彷彿させる多脚型の機械兵器だ。大型獣なみの巨躯に、緋色の視覚センサが不気味に宿り、口元に装備された対機兵機銃がゆっくりと鎌首をもたげる。敵機を見据える藍色の瞳が右から左に動いた刹那、鉄の雄叫びが静間を引き裂き、降り注いだ鋼鉄の驟雨が大地を抉る。命中すれば人形(フォニー)の体を段ボール紙同然に引き裂く力の群を避けるため、男は真横に跳躍、いや飛翔した。


『【セラフⅡ】高機動形態(ウェブスイーパ・モード)で武装展開――システム展開』


 翼の形状が変形し、小型ジェットと化した六翼から生み出される莫大な推進力が、一瞬にして進行方向の鉄蜘蛛との距離を縮め、剣先が一閃。一体目の胴体が縦に別れて爆破炎上する最中、男は振り返り様に刀を投擲。見事、二体目の制御機構を蹂躙(じゅうりん)した。

 得物を手放した男に、残された三体目の鉄蜘蛛はここぞとばかりに襲いかかる。だがそれよりも早く、男が填めた手袋の中に、二連銃口の長銃が生み出された。そして轟音。積層装甲を貫く翡翠の炎弾。そして三機の鉄蜘蛛は完全に沈黙し、男を中心とする周囲に、夥(おびただ)しい数の残骸が転がる。彼が歩んできた後に築かれる鉄屑の海。そして彼は夜空を遮る漆黒の巨塔を仰ぐ。そして男――グレンは、灰色の六翼を翻して、闇夜の飛翔を再開した。



「かいもーん♪」

 案内役のネルグが身分証明を通すと、巨大な鉄扉は意外なほど静かに割れた。促されるまま入ったそこは、白い壁にぐるりと囲まれた、巨大な円筒状の空間だった。一体どういう仕掛けなのか、見上げた天井に照明らしき装置はついていないにも関わらず、部屋の中は真昼の大通りのように明るく、代わりに天井には夥しい紋様が施されていた。そして中央に鎮座する巨大な台座は、【小さな羽根(リトルウィング)】店舗と同じくらいの大きさがあり、随所に意匠の凝った彫刻の数々が鏤(ちりば)められたその様は、まるで古代の神殿を彷彿させる。質素では無く、華美でも無い。ある種の威厳にも満ち溢れたそれを見上げ、ソフィアは無意識の内に感嘆の吐息を漏らす。

「はいはい、先を歩いてね」

 背後から両肩を抱き込まれ、ネルグが耳元で囁いた。そしてバネ仕掛けのように飛び退いたソフィアを見ると、口の端を吊り上げる。

「あっはっは、乙女だねぇ」

 ソフィアが睨み付けると、ネルグはその敵意すらも愛おしそうに笑った。調子こそグレンと同じだが、それ以外は彼と似ても似つかない。先程、一瞬でも警戒心を解こうとした自分が嫌になる。そして何となく肩を払おうとして、不意に、その腕が掴まれた。

「タート?」

 少女の腕を強く握ったまま、少年は呼びかけに応えなかった。

 その小さな手から、怯えの振動が伝わってくる。

「遅いぞネルグ」

 降ってきた声を見上げると、台座の上にいたのは軍人と言うよりは、どこか企業の社長を彷彿させる白髪交じりの男だった。そしてその顔をソフィアは知っている。グルッグの都市長、ジャミル=クラーク――この街の最高権力者その人だ。

「何をしていると思ったら。まさかその少女を口説いていたわけではあるまいな?」

「あっはっはー。我らが歌姫様のエネルギ補給ですよ閣下。舞台の途中に倒れられでもしたら困るでしょ?」

 軽く肩を竦めて応えたネルグは、上司に対しても砕けた姿勢を崩さない。台座の上のジャミルは、まるで苦悩を押さえ込むように、こめかみに手を当てていた。

「まあ良い。他は全てを整えた。あとは《鍵》による承認だけで幕は上がる。その歌姫とやらを上に連れてこい」

 そこでタートが手を繋がれたまま後ずさったので、ソフィアは後方に踏鞴(たたら)を踏む。

「おや、記憶を失っても、これから何をするのか、体が覚えているのかな?」

「……あんた達、一体、この子に何をするつもり?」

 タートを庇うように、ソフィアは一歩、前へ出た。本当は自分も恐かった。頭上には最高権力者。目の前には機械仕掛けの茶髪の男。自分がとんでもない事に巻き込まれているのだと実感する要素は、いくらでもあった。だけど今は弱気を見せるわけにはいかないのだ。自分が倒れたならば、もうタートを守れる人間はいないのだから。

「ははは、勇ましい娘さんだ。なるほど、案外ルシフェルのやつも、ちゃんとした子育てができるものなんだな」

 その言葉にどんな意味があるのかはよく解らない。しかしルシフェルというのが、どうやらグレンの事らしいというのは、見当がつく。

「そういや閣下、ルシフェルのやつはどうしてます?」

「大した物だ。既に【教典の塔(カノン)】内部に入ったと、警備部から連絡を受けた。自慢にしていた鋼鉄兵団(メタルス)がここまで崩された。少しへこみたい気分だよ」

「ああ、だからさっきから顔色が悪そうで」

「いや、これはお前のせいだ。遊んでいないで、さっさと連れてこい」

 断言されてわざとらしく肩を落とした男が振り返る。そしてソフィアは息を呑んだ。そこにいたのは、つい一瞬前までいた茶髪の男では無い何か。ネルグと同じ姿をした、異世界の怪物にでも睨まれたかのような錯覚。しかしそれでも、少女は出かけた悲鳴を飲み込んで、冷静に口を開いた。

「さっきの質問の答えが、まだよ」

 ネルグが溜息が漏らす。

「じゃあ先に答えよう。その子には何もしない。むしろやってもらうのさ。それで、君はその子を渡してくれる気はあるのかい?」

 逆に問い返されて、今度は少女が返答に詰まる。

 答えは、勿論『否』だ。既に会話自体が不毛な物であると、ネルグは言っている。

「さっきも言ったけどさ、僕ぁ、女子供に手荒なマネはしない主義なんだ」

 この時、ソフィアはネルグ=マトンという化け物の片鱗を見た気がした。彼の口調の中に紛れる、僅かな軽蔑と落胆の響き。同時に差し出された右手は、握手を求める物では無く、明らかな警告――カチャリと、何かのロックが外れた。そして腕の側面から禍々しい形状をした曲刀が現れる。それでもソフィアは胆に力を込めると、なんとか掻き集めることに成功した声を絞り出す。

「お断りします」

「でもこのままだと、力ずくがオチだよ。僕(ぼか)ぁ、おとなしく引き渡す方が利口だと思うなぁ。女の子を傷つけたくないし、御願いだからわかってくれない?」

 その先端を見据えるソフィアの眉間(みけん)に、刃先が当てられる。ひんやりとした硬さにつばを飲み込む。それでもソフィアの視線はネルグから離されることはなかった。

 そして少女の腕を、タートが手放した。驚いて彼を見下ろすと、無理に作ったと分かる微笑が、感謝を込めて向けられた。

「お姉ちゃん、ありがとうね」

 するとネルグの腕が人の形に戻り、差し伸べられた手を、タートは取った。いい子だ、とネルグが、口元に笑みを浮かべる。タートはネルグに促されるまま十数歩歩いて、階段に足をかけると、ジャミルの元へ昇り始めた。

「待って! タートは何者なの、何でここまでして、その子を必要とするの?」

 尋ねたソフィアに返答は無い。追い出されもしなかったので、ソフィアもタートとネルグの後を追った。台座は一見にして、大理石にも似た光沢の材質で作られていたが、触れた手すりは、柔らかくも硬くも、冷たくも温かくも無かった。そして階段を昇りきると、下からは見えなかった玉座が、荘厳(そうごん)を携えてそこに在った。だがそれは王が座るというよりも、どこか生け贄を捧げるための祭壇にも見える。その周りを囲むのは、端末を抱えた数名の研究者達と、ジャミルの姿。そして初老の男は、両手を広げて少年を迎え入れ――跪(ひざまづ)き、少年に頭を垂れた。

「神官殿、よくぞお越し下さった」

 タートも意外そのものだったのだろう。半ば呆けたようにジャミルを凝視する。そしてそれは長く続かなかった。ジャミルの巨体が立ち上がると、普段の口調に戻って少年を見下ろす。

「待っていた。君さえいれば、私の夢が叶ったも同然だ」

「おじさんの夢? それに何でぼくが必要なの?」

 毅然(きぜん)を装うソプラノが、男に問いかけた。最初はソフィアも、タートは高官の誰かの子息であり、それを人質として、政治的な駆け引きの材料にでもするのだと思っていた。だが、そうではないらしい。少年自体が、今回の全ての中心にいる特別な存在なのだ。

「記憶の無い君に、どこから話そうか」

「ならばいっそのこと、全て見せてしまいましょう。お嬢さんも、知りたいだろ?」

 掲げられた黒い指が、小気味よく鳴らされると辺りが急に暗くなり、大型モニタと化した正面の壁に、画面を分割された幾十の映像が灯った。

 そしてソフィアは、絶句した。

 燃え盛る家屋。胴体が半ばまで千切られた人間の死体。死した我が子の亡骸を抱きながら嘆く女。大破した機械と、血肉の残骸。映し出された数々の映像は、どこかの街の様子を高々度から俯瞰(ふかん)した物だ。そして夜空を飛び交う銃弾と剣戟。聞こえないはずの阿鼻叫喚が鼓膜を振るわせる。

「新聞で読んでるかも知れないけど、ほら、国境と山脈を越えた所に、ドゥカチって街があるでしょ。あそこの、今の光景」

 ネルグが説明している間にも、右上の画面ではボルボゴのような重装機兵の一体が握った対機兵用ライフルが火を噴いた。そして街路を封鎖していた防壁が爆散し、巨人達の一団が立ち塞がる者全てを踏みつぶして蹂躙を始める。しかし、そこにまた新たな光線が現れ、巨人の一体を貫いた。近場の建物の屋上に、携帯型ランチャーを構える男。巨人の一団が彼に注意を向けた隙に、接近したのは強化人間と思われる女だ。力任せに振り抜かれた単分子結晶素材製の長剣が巨人の頭を切り飛ばし、また一体が沈黙する。

「国軍が派遣されたが、街は未だにこの調子だ。国軍、反乱軍はこぞって付近の傭兵達に招集を掛けている。世界各国の武器商人達もこの戦場に目を付けた。戦火はまだその勢いを増すだろう。戦禍はまだ多大に増えていくだろう。戦渦は飽和を振り切って、まだ続くだろう」

 思わず目を背けたくなる幾つもの映像を凝視しながら、重々しくジャミルが告げた。

「この戦場は、一体どこまで肥えれば気が済むのか、どれだけの命を捧げれば沈静化されるのか。どれだけの鉄が飛び交えば底が尽きるのか。タート君、君はどう思う?」

「この人達は、お金のために戦っているの?」

「最初は、それぞれに正義があったのかも知れん。だが今となっては、そう言われてもしょうがない。それだけ、この戦場は利益を出している」

「それでおじさんは、ぼくに、何を期待しているの?」

 そこで一度、ジャミルの言葉が止まった。

「この戦いを、いや、世界全ての戦いを、止めてもらいたいと思っている。世界各地で起きる民族紛争や宗教戦争。国家間の戦争を含めたその全ての戦争行為を止めてもらいたいと考えている。それが俺の望みであり、俺の生涯の全てを捧げた、悲願だ」

 躊躇も迷いも無く断言したジャミルの言葉を、ソフィアは冗談にしか思えなかった。いや、例えソフィア以外の誰が聞いてもそう考えるだろう。仮にも市長の椅子に座っている初老の男が、年端も行かぬ少年に対し、『戦争を止めろ』と言うこと自体、正気の発言とは思えない。だがその場にいたソフィア以外の者達は、全員が、ジャミルの言葉を支持するかのように、真剣な眼差しを少年に向けていた。

「争いは、異なる価値観、異なる思想がある限り、いや、そんなものどうだっていいんだ。戦える理由が存在する限り、必ず起きてしまうのだ。だから私は、そんな馬鹿げた世界を止めるために、君の力を欲する」

 何かを悟った者のように語りかけたジャミルは、最後に右手をタートへ差し出した。だが少年は、手を取る代わりに再び画面を見上げる。

「ダメだよ、おじさん」

 そこで、少年の口調が変わった気がした。

「きっと、おじさんが言う方法じゃ、また新しいおじさんが現れるだけだ」

 そう自分の何倍の時を生きた男に告げた言葉は、ジャミルの何倍も重く聞こえ、言い換えされた男自身も、一歩、後ずさっていた。

「だけど、目の前に可能性を見過ごすには、君の力は魅力的過ぎるんだ」

 ネルグの声が聞こえた途端、どこからか忽然と伸びてきた黒い端子が、少年の首筋に突き刺さり、血が跳ねた。

《プロテクト解除。システム統制デバイス『ハヴォック』との接続――完了》

 タートが自分に突き刺さる物を不思議に見やった瞬間、天井から無機質な少女の声が響いた。そして少年の眼前に光が集い、三次元的に織り合わされると、若草色の長い髪の毛を頭の側面で留めた美少女が姿を表す。女のソフィアが見てもドキリとするような、陶磁器を彷彿させる澄ました横顔。少女が成長したならば、全ての男を従える事も可能だろう、そう確信付けさせられる美貌。突然現れた電子の妖精に、場に流れていたはずの時間が止まった。

 そして妖精――機械人形ワームの口唇が、静かに宣告を下す。

《『クラウソラス』――詠唱を、開始します》

 その宣言の直後に響き渡ったのは、少年の絶叫だ。

 吐き気を堪えるように喉元を押さえて跪く少年を余所にして、電子の妖精は作業項目を淡々と呟いていく。そして周囲の研究者達も自身の端末と向き合い、指を滑らしていく。

「ちょっと、タートに何をしたの!?」

 その中でソフィアだけが我に返ったかのように倒れた少年の元へ駆け寄って、ジャミルを詰問した。少年は首筋にケーブルを埋めたまま咽せ込むように蹲(うずくま)っていた。そんな少年を抱き寄せようとして、その体が黒い腕に遮(さえぎ)られる。

「今は動かさない方が良い。膨大なデータがそのケーブルの中を行き来しているんだ。実は結構無茶をやっている。今動かしたら、〝タート〟の人格は消えるかもね」

「人格って、一体何を――」

《声帯系と接続。座標を入力します》

 そして次の瞬間、ソフィアの鼓膜を、ボーイソプラノの歌声が叩いた。

 機械を通さない肉声が、空間を振るわせて浸透する。その音源は蹲る少年の口だ。彼がゆっくりと立ち上がる。全身が粟立つような綺麗な音色に、ソフィアは思わず、自分が何をしようとしていたのかを忘れかけた。

 その歌に歌詞は無く、次第に音律が二つに分かれ、四つに分かれ、幾重にも展開する歌声は、合唱のように巨大な室内を満たす。調和が調和を呼び、或いは重ね合わせ、そしてそれに呼応するように室内が震えだした。再び我に返ったソフィアが周囲を見渡すと、その振動が錯覚では無い事が解る。それはまるで、力の解放を待ち望んでいた獣の唸りだ。

 変化は、正面の巨大モニタの中にも表れた。画面の右端に現れたのは、ソフィアも見覚えがある世界地図。その縦軸と横軸に数値が打ち込まれ、その交点が、今、映像が映っているドゥカチに照準された。

《座標設定完了。『クラウソラス』――照射》

 その途端、塔を揺るがす力が、解放された。それからやや遅れて、ドゥカチの地獄に、雲を割って光が差し込むと、真夜中に突然太陽が出現し、一瞬で昼夜が入れ替わる。その神々しい怪奇現象に、全ての行為が中断され、人々は夜空を見上げる。その瞬間を、人々は頭上に神が舞い降りた物と思ったかも知れない。

「だめぇえええ!」

 歌の中に、歌と同じ声の絶叫が混じった。そして唐突に、蒼い光の束が、画面を包み込んだ。幾重に重なる積層雲を貫通して降り立った巨大な光柱が大地に突き刺さる。その光景はあたかも神剣が大地に巣くう悪鬼共に振り落とされたようにも見え、神の怒りと言うものがあるのならば、それはこんな光景に違いない。全てを覆った蒼い閃光。数十万と言う命を一瞬で無に返した破壊の光。画面の向こうで山脈が根底から崩れ、緋色の爆発が全てを薙ぎ払う。

 そう、確かに神は舞い降りた。

 これを〝大破壊(ハヴォック)〟と言う名の神と呼ばずに、何と呼べばいいのだろう。


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