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 第一章【小さな羽根】

 第一章【小さな羽根(リトルウィング)



 ――ジリリリリリ!

 脳を揺さぶる機械の怒鳴り声に眉間を寄せると、少女は身をくの字に捩らせた。

 まだ(ほの)かに薄暗(うすぐら)い早朝の目蓋(まぶた)は重い。柔らかな布団と外の肌寒さは、容赦なく二度寝の誘惑を掻き立てる。だがそこで『どうせ誰も来ないんだから、寝坊してもいいんじゃないー?』と言っていた某店長が脳裏を過ぎり、アレと同類にはなりたくない、その一心が言うことを聞かない身体を、寝台(ベッド)の上で反転させた。

 ジリリリリリリ、ムギュウ――チン。

 手を伸ばした先を叩くと、小気味の良い音を最後に不愉快(ふゆかい)な音が消えた――が、今朝は何かがおかしい。胸に当たる柔らかな違和感を、最初は(まくら)か何かだろうと寝ぼけた思考は考えた。その枕は温かかった。この寒い時期にはなんて有り難い。だが意識が徐々に覚醒していくに連れ、そんな物を買った憶えが無い事に気づき、自分が何を潰しているのか思い当たった。

 直後、掛け布団を蹴り上げて上体を起こすと、垂れ下がった金色の長髪が肩の上で舞い、空色の視線が傍らを見下ろす。

「……そうだった」

 その先で刻まれ続ける規則正しい寝息。思わず落とした声の下で、もぞりと動いた青髪の少年が身を縮こませる。剥がしてしまった布団を掛け直してやると、眠気を振り払うように寝台から降りたソフィアは身支度を始める。まずは洗面台に向かい洗顔と歯磨きを済ませると、普段着と化した制服に手早く着替え、空色の留紐を使って髪を括る。最後に鏡の前で、はい、ポーズ。よし、今日も大丈夫。眠気なんて残っていない。

 軽く気合いを入れると、居住階の居間を抜けて、下へ続く狭い階段を一段ずつ降りていく。

 窓を覆う金属板が降りた店内はとても薄暗く、手探りで壁際の照明を入れると、変わらぬ店内が、電気仕掛けの光に現れた。次に朝の冷気と入れ替わりで外に出ると窓の金属板を押し上げる。始めは重労働だったこの作業も、いつの間にかに習慣になって久しい。

「――っぷはぁ」

 一段落が付き、両手を大きく広げて背伸びをすると、頭の中が冴え渡る気がした。早朝の冷えた空気を肺に取り込む時ほど清々しい物は無く、吐息が白く凍る。

 遠くに見える大通りには、既に出歩く人々がちらほらと見えた。そしてそのさらに奥。都市中心部へ視線を向けた先、外周を神話の巨人にも匹敵する巨大な城壁に囲まれた太古の巨塔が聳え立つ。街の行政と軍事の一切が詰め込まれた巨塔の名は〝教典の塔(カノン)〟。グルッグが保有する遺跡であり、街の象徴だ。天に届くほどの塔は、この街ができる前から建っていた物らしいが、それ以上は一般市民であるソフィアが知る所では無い。そこで丁度やってきた新聞配達から朝刊を受け取ると、ソフィアは店内へ踵を返した。

 カウンタ席の上に新聞を放る。次は清掃とモップを握り、そこであの青髪の少年を思い出した。昨晩、食事後すぐに微睡み始めた少年は、着替えだけさせてすぐに眠らせた。気丈に振る舞っていたとは言え、やはり落ち着かせる時間が必要だ。次は入浴でもさせて身を綺麗(きれい)にさせてやりたい。ソフィアは二階へ戻って浴槽に湯を張った。それから再び下の階へ戻った彼女の鼻腔(びこう)を、珈琲(コーヒー)の薫りが通り過ぎる。

 自分で煎れた記憶は無い。しかもこの薫りは小さな羽根(リトルウィング)で扱う最高級品〝深緑海〟。階段を下りきった彼女に、卓席からテノールの声が掛けられる。

「やぁお早う。まだ店の掃除やってないみたいだねぇ」

 さっき届いたばかりの新聞を広げながら優雅な朝を満喫する黒縁眼鏡の男。幸か不幸かフライパンはソフィアの手が届く位置にある。当然の如く寝坊した上でこのような台詞を(のたま)うあの頭をかち割れたら、さぞ愉快(ゆかい)だろう。まだ膨らみきらぬ胸の奥底に沸き上がる感情の名は何なのか。もしかして恋――なわけは無く、それは明確な殺意だった。

 恋よりも先に殺意を覚えた胸の内を、十七歳の乙女としてはどうかと自分でも何度も思うが、まこと遺憾な事に、未だ自分の心を射止める白馬の王子は現れない。そして虚構たる王子よりも何よりも、今はこの殺意の衝動を堪えなければならなかった。何故ならば今、きゃつが手にしているのは珈琲。衝撃を与えたら中身が四散する未来は目に見えている。まだ店内の掃除は行っていないが、余計な手間は省きたい。

「おかわりヨロシ――ぐぇっ!」

 人生とはままならない。ハッと気がつけば既に盆型の鉄塊が風を切り裂き、黒い液体が宙を舞って周囲に飛散。同時に黒鉄を額にめり込ませた男が、仰け反るように床へ沈む。

「アイテテ、痛いヨー、店長にこんな仕打ちをするなんて、ヒドすぎないかい?」

「働きやがれ! この給料泥棒(ろくでなし)!」

「女の子が『やがれ』だなんて悲しいなー。それに(ぼか)ぁここの店長だよォ? 店長を働かせるつもりなのかいキミは。いや、店長である僕と身内で良かったね。じゃなきゃ、ほんっとクビにされてたかもよ? クビだよぉクビ~」

 少女は他に勤めた経験が無いが、俗に言う店長とは普通の従業員よりも忙しいと聞く。少なくともこの男よりは――いや、この男と比べるのは失礼と言うものだ。少なくとも、自分より働いているに違いない。知らずの内に握りしめていた拳は怒りで震えている。身内なんかじゃ無ければ、とっくの昔に別の仕事に就いていたと言わないでいられるのは、首皮一枚で繋がっている彼女の優しさだ。

「そう言えばさ――きな臭くなってきたね」

 話題を逸らしたグレンが新聞の記事を指さす。何が、とその記事欄を見ると、隣国デュランダで起きた内戦の話題が載っていた。内戦の地の名はドゥカチ。グルッグからは国境線が引かれた山脈を挟んだ、隣の都市だ。さすがに山脈を挟んだこっちにまで直接的な戦火の手は伸びてこないが、国境付近では亡命者や難民やらで国境騎士団が奔走していると聞く。

「全くもう、随分と近い場所でドンパチをやらかしてくれている。それにこいつのおかげで今年の観光客も我が家の収入も激減さ――それよりもソフィア」

 グレンは急に真顔を作り、さらに新聞の記事内を指さす。そこに何が書かれているのか思えば『貧弱な貴方もマッチョメン! ガルガルZ』なる怪しげなプロティンの広告欄だ。

 これをあたしに飲めと申すか。あいにくと筋肉に頼らずとも自分の胸はそう貧弱じゃない、と思いたい。そしてその広告欄の右上に、先程ぶちまけたコーヒーの一部が付着している事に気づいたのは、たっぷり十秒を凝視した後だった。

「コーヒーおかわりは?」

「自分でやれ!」

 再びフライパンが風を切り、コの字に折れた体が痙攣(けいれん)しながら床に伏せる。そんな男には一瞥もくれず、少女はまだ残っている開店準備の作業へ戻る。

 しかしどうせ今日も客は来ないと思うと、心労が倍に(ふく)れた気分だった。





『不思議だね。わたしは雨が嫌いなんだ。だけど今、お前に雨を見せようと、わたしはいまか、まだかと、雨を待ち望んでいる』

 体を預けた手すりの上から、遠くの山々に掛かる黒雲を見つめる白衣の女は呟く。

 灰色の空。湿った空気の匂い。施設の屋上に連れられてきた白い少年は、女の傍らで同じ空を見上げる。

『さっきまで風も穏やかで、お昼寝したくなる陽射しだったのにね。……ふふふ、もうすぐ、雨が降るんだ』

 少年が盗み見るように傍らを見上げると、そこにはどこか楽しげな女の横顔がある。

 女は自分に何かを教える時、大抵こんな顔をする。少年は知識として〝雨〟を知っていたが、まだ直に見たことが無い。見たいとも思った事が無い。少年にとって不思議なのは天から降り注ぐ〝雨〟では無く、傍らの彼女自身だ。

 視界の遥か先に見える黒雲が、こちらで雨を降らすまでおよそ九十分。それは意識裏から接続した気象情報で、この時代の予報技術は誤差数十秒にまで精度を高められている。

 女もそれが判っているはずなのに何故、こんな場所で時間を浪費するのか。彼女も自分も決して暇を持て余せる立場じゃ無い。実際に無意味な時間を過ごしている事が他の職人にばれたら、確実に注意を受けるはめになる。少年が他に憶えるべきことは山のようにあるのだ。それでも調整期限はまだ先だが、彼は一日でも早く動かなければならなかった。

『ボクが雨を見る必要はあるのか?』

 すると一瞬だけ彼女は驚いたように唇を開けて、その後に少年を見下ろして、口元だけで微笑を浮かべる。それは彼女が時折見せる、普段とは違う笑顔。笑っているのに、見ているこっちはどこか落ち着かなくなる、そんな微笑。どうしてこんな思考になるのだろう。

『はは。そうかもね、お前が見ても見なくても雨は降る。だけど雨はね、必要なものなんだよ。一度くらいは見ておいてもいいさ』

 女が再び雨雲を見据える。その顔からは既にもう、さっきまでの表情が消え失せている。

 何かを、言わなければいけないような気がした。

 だけどそれは何だろうと言葉を探しあぐねている内に、彼女は言った。

『何故なら、この世界は雨が巡って成り立つようにできているんだから』



 全ての準備を終えた小さな羽根(リトルウィング)は朝の六時に営業を開始する。

 空は快晴だった。だがそれを映したソフィアの瞳は無気力で曇り、外の陽気に逆らうかのような溜息が今日も吐き出される。正直に言えば八方塞がりだ。どうせ誰も来ないのならば店番よりも就職活動や二度寝をした方が有意義に思えてくる誘惑に抗いながら、少女は昨日と同様にカウンタ席から外を眺める。退屈だった。唯一の娯楽である新聞は開店前に読み終えた。

 あたしは青春の一頁で何をしているのだろう。

 十七歳の乙女にこんな日常が許されて良いはずがない。そう思った所で余計に虚しさが込み上がってくる。何も考えずに勉学に励んでいた十五歳までの日々が懐かしい。あの頃の学友達と、最近は会っていない。最後に会ったのは一ヶ月前に連絡をくれたテッサだったか。一番仲が良かったジェーンは教師を目指して奮闘しているが、そう言えば、いつも彼女の側にいた甘えん坊のイアン坊やは何をしているだろう。三つか四つ年下だったと思うが、まさかまだ彼女にひっついてはいまい。

 あの頃の友人達がそれぞれが自分の夢や生き甲斐に歩を進めているというのに、自分はひたすら砂を噛むような生活を送っている。しかもこの不景気ときた。夢と希望に無駄に満ち溢れていたあの頃は、こんな未来を思う瞬間なんて一度も無かったのに――二階で気配が動いたのは、疎外感(そがいかん)(ひた)る少女が本日二桁目の溜息を付いた時だった。階上の足音は、やがてトテトテと下りてくる。そして現れたのは宝石のような青色の髪。

「おはよう、ございます」

 その姿に、一瞬だけ口元が緩む。

 琥珀の瞳をまだ眠たそうに擦る少年が着るのは、ソフィアが幼い頃着ていた寝間着だが、問題なのは彼が桃色の衣に身を包んでいる事では無い。それを纏う彼の違和感のなさこそが問題だった。むしろ現役時の自分以上に似合っていると認めざるを得ず、本職(女の子)として負けてはいけない何かに負けた少女の内心は、昨日から複雑である。

「お腹空いてるでしょ? チョット待ってて。すぐに作るから」

 このままでは精神的な衛生面で大変よろしくない。思考を紛らわせるために厨房(キッチン)へ向かおうとして、何かを言いかけたタートの肩に背後から伸びた男の手が置かれる。

「ハッハハ。遠慮するなよ少年。君は昨日から我が家の一員になったんだ」

 飛び跳ねるように背後を見上げた少年の視線の先、口元をにやつかせた長身の男が、紙袋を小脇に抱えて立っていた。その後ろで思い出したかのように店の扉が鈴を鳴らして閉まる。

「店長、早かったですねぇ」

「ふっふふ、仕事の早さには自信があってねぇ。昔はいろんなトコから依頼(オファー)が来たモノさ。そして子供の仕事はちゃんと食べて大きくなること。そんなわけでソフィア、この子に朝ご飯よろしく。それと僕に珈琲」

「はいはい、もう準備してありますよ」

 そしてカウンタ席に出した朝食が次々と平らげてられていく光景を、ソフィアは圧倒されながら見守った。今朝はトーストにハムエッグ、それにサラダの盛りつけとスープを加えた軽いメニューだった。食卓に出した瞬間から次々と手が付けられ、あっと言う間に少年の胃袋へ収まってしまった。昨晩と変わらぬ食べっぷり。やはり食べ盛りだからだろうか。だがそんな少年の体つきは華奢そのものなのが不思議だった。

「ごちそうさまでした」

 食べ終えた食器を自分で片付け始めたタートの姿を見て少しだけ感心する。いつも食べた後の食器はほったらかしの店長は、と視線をずらすと、やつは窓際の卓席でお気に入りの本を広げながら優雅な朝を満喫していやがった。あとで殴っておこう。そして洗い場に食器を持ってきたタートに、そんなろくでなしを視線で指したソフィアはこっそりと囁く。

「あんな大人になっちゃ駄目だからね」

 すると、タートはどこか困ったように目を泳がせる。その姿は初々しさを伴って、愛らしい。

 あいつにもこのくらいの可愛げがあったらなぁ。そう想いを馳せるのは、今ここにはいない過去の少年。昨夜、いきなり家族が増えても冷静でいられたのは、迷子を保護したのはこれで二回目だったからだ。ソフィア自身もまだ子供だった五年前、今のタートと同じくらいの少年を一時的に保護したのだが、これがまたやさぐれていて、無愛想だった。

 年の離れた弟とは、こんな感じなのだろうか。タートを見ながら、前回は感じ得なかった感覚に、普通の家族を知らないソフィアは空想を働かせながら思う。

 この子はあたしが守ろう。そう改めて決意を固めた少女は、皿洗いに移ろうとしてスポンジを泡立てていると、足下の気配に気づいて視線を落とす。すると琥珀の瞳と目があった。

「どうしたの?」

「何か手伝う事はある?」

 その言葉を聞いた瞬間、ソフィアは少年に微笑むと、向こうで寛ぐ黒縁眼鏡の良い大人を睨んだ。『働かざる者食うべからず』確かに少年にも仕事を割り当てるべきだ。そして今何をやってもらいたいかを考えて、そこでソフィアは思い出した。

「そうだねぇー、あ、そだ。お風呂」

「お風呂――掃除をやればいいの?」

「ううん、違う。お風呂に入って来ちゃってよ。さっき沸かしておいたから」

「そうだそうだ、そのために僕ぁキミの服を買ってきたんだ。入るなら温かい内にってね」

 そう突然、グレンがこちらも見ずに口を挟んでくる。この男は(たま)にこうやって、聞いていないと思えばしっかりと会話を聞いているものだから、油断出来ない。

「ありがとう、じゃあ、入ってくるね」

 黒縁眼鏡の男の(おど)けた口調で緊張が解けたのか、少年の言葉から少しずつ堅さが抜けていた。

 パタパタと、スリッパ特有の足音を立てながら二階へ上がっていく少年の後ろ姿を見ながら、ソフィアは少しだけ安心する。今はまだ他人行儀を続けるだろうが、少しずつ慣れてくれれば良い。そして自分にも気合いを入れ直すと、あまり量の無い洗い物を片付けに入る。

「手伝おうか?」

 ソフィアは手にした皿を危うく落としかけた。

「い、一体どういう風の吹き回しですか!? 今日は雪が……いえ、太陽が落ちてくる!?」

「どうしたも何も、キ~ミが働けって言ったんだよ。それよりも太陽が落ちるって、んな大袈裟な」

「だって、だって、じゃぁ、お、お皿拭き、お願いできますか?」

「あー、はいはい、了解しましたよっと」

 やや裏返り気味になった声で指示を出すと、布巾(ふきん)を装備したグレンは(かご)に積まれた食器の水滴を拭い始め、音も立てずに棚の中へ戻されていく。ソフィアも慌てて残りを洗いに入るとそんな様子の眺めて、グレンが苦笑を漏らした。

「洗い終わるまで待ちますって。僕が逃げるとでも思いましたかァ? 失敬な従業員だなァ、僕は仮にも店長ですよぉ? アーッハッハ」

「なら普段、いつの間にか抜け出して図書館本屋を巡り回っているのはどこの何奴(どいつ)でございましょうか」

「なに、普段は君が全部やってくれるもんだしね。ほら、(ぼか)店長(トップ)じゃないですか? だから見聞やら知識やらを蓄えておこうと思ってねぇ。知識のある男はモテるって言うじゃないですかアッハッハ」 

 ソフィアは思わず力を込めそうになった手を慌てて制する。まさか、そんな下心のためにこちらはいつも一人で店番をさせられているのだろうか。

「へぇー、じゃ、これからも店員の模範となるべくお願いしますよ店長?」

「あ、それはホラ、模範は君一人で間に合ってるから、(ぼか)ァはやっぱり必要ナッシン――」

 ガス。鈍い音と同時に言葉が途切れる。ハッと気がつくと理性で抑えていたはずの裏拳がグレンの顔面にめり込んでいた。我ながら悲しくなるほど見事な一撃。くぐもった呻き声を響かせて、養父がその場に崩れ落ちる。

 これはちょっとやりすぎたかと、少女はグレンに手を伸ばし掛け――

「うぅぐぅ、痛いよ苦しいよぉ。ああ、神様、従業員が暴力的です。これは私に与えられた試練でしょうか? というかそんなんだから、年々嫁の貰い手が減り続け――」

 もう一発、殴っておいた。



「見つからんとは言わせない。一木一草(いちぼくいっそう)砂塵(さじん)を掻き分けてでも探し出せ。弱音を吐いても構わん。樹海の範囲は決まっているんだ。さあ、お国のために、キリキリ働きたまえ!」

 そう檄を飛ばしたのは熊の唸りにも聞き違える野太い声だった。

 グルッグ新市街の中央に位置する〝教典の塔(カノン)〟上層階の一室。街を一望できる執務室に報告を持ってきた部下を追い返したのは、この都市の最高権力者である白髪交じりの男だった。

 顔にも(しわ)が増え、肉体も全盛期のようには動かなくなってきたとは言え、巨漢と呼ぶに相応しい体躯は、今でも分厚い軍服越しでも解るほど筋骨逞(たくま)しく、数多の修羅場と煉獄(れんごく)(くぐ)り抜けてきたような形相(ぎょうそう)は弱音を吐く部下の心身を()きつけるには充分だった。

 男の名はジャミル。ナーガン国王よりグルッグの全てを任せられた都市長であり、街の行政の全てを取り仕切る彼は、現状の事態を(うれ)いていた。ジャミルは窓辺に歩み寄ると、そこから見える下界の新市街を見下ろす。

 グルッグと言う都市は、ナーガン王国西端に位置する遺跡〝教典の塔〟と、塔を円心とした半径二キロメートルの円周上に並ぶ、高さ六十メートルの巨大な城壁を利用として発展してきた街だ。遺跡の開け方を知らなかった大昔は城壁内へ入る事ができず、人々は外壁の円周に沿った街を発展させた。それが現在の旧市街であり、城壁内部に入れるようになってから発展し、今では街の中枢が納まる範囲が新市街と呼ばれている。しかし市街と名は付いているが、新市街に一般人が住む家屋は一棟も無く、巨壁に守られた広大な敷地を代わりに埋めているのは、行政と軍事関連の建物だ。居住する人間もまたその関係者に限られていた。

 今回の事件が起こったのは、その新市街の一角にある研究所の一つだ。そこで一日の休暇申請を出していた男女二名の学者達が遺体となって発見されたのが、昨晩である。死後からの経過は一日以内と推定され、双方共に、解剖学的な精度で急所に打ち込まれた銃弾が死因だった。拳銃自体は、女の方が護身用として持っていた物だったと判明しているが、問題は、誰がこれを撃ったかだ。

 そして何よりも――ジャミルの思考を遮るように、執務室の扉が再び開いた。

「閣下ー、お元気ですかー?」

「入室を許可した憶えは無い。そして俺が元気に見えるのか? ならば一度、腕の良い眼科医を紹介してやろう。今ならば耳鼻科医もセットでつけてやる」

「うわ、やさぐれてますね閣下。まあまあ、そんな連れないこと言っちゃ嫌ですよ。せっかく、僕が閣下の手助けをしに来たのに」

 上司の苛立つ背中にかけられた部下の声は、この場にそぐわないほど緊張感が無い。振り返った先で立っていたのは、軍服を着崩した若い男だ。年齢は二十代の半ば程度。軍帽の下に覗かせる茶髪はだらしなく垂れ下がり、上官に対する言葉遣いはやけに軽い。長身ではあるが、軍属にしては細い体つきは、似合わない軍服と、肩の階級章がなければ、とても軍人には見えない。ジャミルでさえ時々こんな男が本当に在籍しているのかを疑いたくなる。そしてその所属と階級を確認して頭を掻きむしりたくなる衝動に駆られるのだ。

 茶髪の男の名はネルグ=マトン。市に常駐している国境騎士団とは別に、グルッグが独自に持つ防衛戦力【鋼鉄兵団(メタルス)】の兵団長である。

「何の用だ?」

「あっはっは。そりゃ僕がこのタイミングで、ここに来る理由なんて一つしかない。〝鍵〟を無くされたんでしょ、閣下?」

 ジャミルは重々しく頷くしかなかった。実は今回の襲撃は公式的に無かった事にされている。事件を知るのも上層部の人間のみであり、ネルグが言った〝鍵〟の行方が解らなくなってしまった事が、二名の有能な研究者が失われた事よりも問題になっていた。

「ほう、お前達が働くだなんて、まるで世紀末」

「失礼な。(ぼか)ぁこれでも、自分の仕事に対しては真面目な、お仕事大好きっ子なんですよ? いやぁ、有能故に、昔は色んな所から仕事の依頼が来たモノです。あっはっは」

 ジャミルは何かを考え込むように黙り込む。確かに、この男の能力はグルッグが記録してきた史実が照明している。しかし証拠があってもなかなか信用できないのが、この男であり、ジャミルの目下の頭痛の悩みでもあった。だが確かに、今回の捜索は、この男が一番適任なのは間違いない。そもそも今回の〝鍵〟を復活させる話を十年前のジャミルに持ち出してきたのも彼なのだから。

「わかった。〝鍵〟の探索に関しては君に任せるとしよう。【鋼鉄兵団(メタルス)】の出撃を、都市長の権限を以てレベルⅢで許可。存分に俺の手足に加われ」

「了解しました。どうぞ我らにお任せ下さい――それにしても」

「何だ?」

「閣下って、都市長というよりも、山賊の親玉っぽいですよね」

「せっかくの支配者階級だ。楽しむ所は楽しむさ。それに俺達がこれからやろうとしている事は、まさにそれだろう?」

 軽口だったはずの言葉が返されると、ネルグは何を気に入ったのか、意味を込めた笑いを口に含む。それから優雅に一礼をして、すぐに部屋を後にする。

 ジャミルは、誰もいなくなった執務室の窓辺から空を見上げた。灰色が広がる雲の層。まだ昇ったばかりの太陽が雲を蹴散らすようにして光り輝く。そしてゆっくりと窓辺から遠ざかり、自分のデスクワーク用の椅子に座り込む。そして机に置かれた両の手が組まれた。

「命を守るために命を狩る。それこそが、俺達の仕事だ」

 独りごちた男の横顔から、険しさが抜け落ちることは無かった。



 少年との生活が始まって数日が経った。

 朝方から太陽が見え隠れを繰り返す空模様(そらもよう)は数日前までのソフィアの心を表すかのようだったが、昼に入ってから落ち着いたようだ。そしてお昼とは眠くなる時間帯でもある。『寝る子は育つ』との言葉がある通り、この時間帯に睡魔が襲ってくるのは体を成長させるためだ。なるほど、ならば自身のためにも、これから昼寝でもして時間を有意義に使用しよう――数日前までの状況が続いたならば、いくらソフィアと言えど実行に移していたかも知れない。しかし世の中は上手くいかない物であり、今となっては夢幻(むげん)と化したその提案を、ソフィアは無期限の保留にする。

「ウェイター君、タラコスパゲティをお願いね」

「はーい!」

 何故ならば〝小さな羽根(リトルウィング)〟の経営状態が軌道に戻ったからだ。そして現在、一番睡眠が必要だと思われる青髪の救世主は、愛想を振りまきながら働いていた。

 遡ること、四日前、『ちょっとこれを着て働いてみるかい?』と、タートの前にグレンが物置の奧から引っ張り出してきたのは、子供用の店員服と、留め紐の部分が鳥の翼をデザインされたエプロンだった。それを見たソフィアはまだ保管されていたのかと幼き日を思い出す。それは過去、一人で喫茶店を切り盛りするグレンを手伝おうと、近所のお姉さんに作ってもらった物だ。だから店員服は若干地味とは言え、女の子用。だが何度目を凝らしても、それを身に(まと)う少年の姿に違和感が無い。むしろ彼のためだけに作られたと言われても信じられる定着(フィット)感。

 ソフィアは本職(女の子)としてのプライドを今度こそ逃げようも無くズタズタに引き裂かれたが、店内をクルクルと動き回るタートの姿を見ている内に、もうどうでもよくなった。結論、若さには勝てないと、そうやって思考を強制凍結させた十七歳の秋。

 タートには最初は、少年に店前の掃除を頼んだだけだった。しかし店長(グレン)に何かを吹き込まれたらしく、道行く人々へあの愛くるしい笑顔で挨拶をし始めて暫く経つと、まず、一人の女性客がふらりと店内に入ってきた。それを境に〝小さな羽根(リトルウィング)〟は順調に客足を戻し、また鈴の音が新たな来客を告げる現在に至る。

「いやぁ、マスコットを据えるだけで、まさかこんなにお客様が来るとはねェ、ほーらやっぱりそのうちどうにかなるモノだ」

 客から代金の受け取りを済ませ、調理場に戻ってきたグレンの黒瞳は眼鏡の下でいつも以上に緩み、口元は笑みのまま固定されている。彼は注文を受けてきたのか、製氷器を起動させながら歌うように呟いた。

「ああそうだ、ポットに新しいお湯をよろしくー」

「もうやってますよ」

「おお、流石はこの道十年のベテラン! いやぁ、有能な店員がいるって良いねェ。はい、パフェ完成。じゃ、行ってくるねぇ」

 こんなによく働いている店長を見たのは何年ぶりか。ソフィアは注文が入ったスパゲティを茹でながら再び過去を思う。

 身寄りを戦争で亡くし、この男に引き取られた直後、まだタートよりも幼かった少女が見上げたグレンの第一印象は、『働き者』だった。だからこそ自分も手伝おうと思ったのだが、今の彼にあの頃の面影は何もない。しかし仕事の速さと正確さは相変わらずだ。今も、グレンはほとんど音を立てずにパフェを差し出す。

 ほんと、何でだろう――途端に覇気(はき)を失って、少女はお鍋の熱湯の中でまるで生き物のように蠢き始めた麺を見つめながら思う。ソフィアは仕事スキルをこの十年でかなり鍛えたはずだと強く自負している。にも関わらず、さっきから店長の仕事の速さ、正確さ、効率の良さの全てにおいて、自分は劣っているのだと思い知らされ続けていた。例えば彼に皿洗いをさせれば自分より早く終わらせるし、卓席から食器を下げさせれば、周囲の雰囲気を壊さぬよう、音も立てずに流し台にまで持ってくる。思えば彼が一人でこの店を切り盛りしていたあの頃から、彼はもの凄い効率で店内を動き回っていた。そして失敗、例えば皿を割るなどした所を見たことが無い。十年である。グレンも人間ならば、一度や二度、落として割るだろうが、その記憶は無い。

「お姉ちゃん、えっと……ハーブティーにアップルパイだって」

 足下から聞こえたソプラノの声で、ソフィアは我に返った。まあいくら考えた所で自分の実力が足りないだけのこと。店長の技術を(ねた)んでいてもしょうがないと思考を切り替える。

「……どうしたの?」

「ううん、なんでもないよ。ハーブにアップルパイだね」

 どうやら、少年の琥珀の瞳にはソフィアの姿は沈んで見えたらしい。心配そうに見上げてくる顔に微笑みかけて、ソフィアはこれ以上深く考えるのを止め、仕事に神経を戻すことにした。




 右手に走った痛覚に顔を顰めた白い少年は、赤い線が引かれた指を押さえながら加害者たる眼前の小動物を見下ろすと、縦長の瞳孔が彼を見返す。黒い縞模様の入った茶色の毛皮。ピンと張られた長い尻尾。警戒するように広げられた髭。それは紛れもなく、威嚇の姿勢である。

「ありゃ、嫌われちゃったのかな?」

「ボクは触れようとしただけだ」

「きっと、その触れようとしただけっていうのが、まずかったんだよ」

 苦笑する亜麻色髪の女が膝を折ってしゃがみ込むと、少年と同じようにその小動物へ手を差し伸べる。しかし彼女は自分の指先を、まずはその小動物――老猫の鼻の前に置く。すると老猫は彼女の指を嗅ぎ、それから興味を失ったかのようにそっぽを向いた。女はそれから猫の毛皮に触れ、その背中を()でる。

「マオマオは、あ、この子の名前なんだけどはさ、こうやってさわりますよってサインを示さないと、触らせてくれないんだ。わたしも何度ひっかかれたコトか」

 女は可笑しそうに笑う。

 しかし傷つけられてもなお、この小動物に触りたがった彼女の行動が理解できない。

「じゃ、もう一回やってみようか!」

 そう勧められ、少年は渋々と再び猫と向き直る。ゆっくりと、慎重に、少年は教わった手順を踏みながら指を近づける。猫は暫く、興味があるようにその指の移動を眺めていた。

 十センチ、五センチ、一センチ――

「――っ!」

「ありゃまー……もう一回だね」

 今度は左の指に引かれた赤い線。その後、猫がいなくなるまで挑戦を続けさせられたが、結局、毛皮に触れる許可は出なかった。女は、『これから徐々にさわらせてくれるようにがんばろう』と言ったが、それが命令で無い限り、白い少年はもう二度と触れたくないと思った。



「ふぁ…… 疲れた………」

 午後八時。清掃を終えたソフィアがカウンタに伏せると、店内に静寂が帰ってくる。このまま眠ってしまいたい。でも今日の生活はまだ続いており、明日の仕込みも残っている。せめて夕食を作る気力だけでも節約しようと、今日はグレンが買い出しに出た。

「店長……、早く返ってこないかなぁ」

 ぐぅ~。そう不意打ちの腹の音が聞こえたかと思うと、ソフィアは突っ伏していた顔をバネ仕掛けに持ち上げる。閉店後の店内には誰もいない。当然である。誰にも聞かれていないと安心しかけて、ソフィアは違和感に気付く。誰もいない―そう、本当に誰もいないのだ。

 タートはどこに行った!?

 ぐぅ~~~~!

 瞬後、彼女のそれを遙かに凌駕(りょうが)する空腹音が鳴り響き、ソフィアの百八十度後方の、卓席の長椅子の上で、少年は仰向けに横たわっていた。

「タート?」

 返事の代わりに返された、規則正しい寝息。熟睡する顔を覗き込むと、ソフィアの指先が幼い滑らかな頬に触れ、青髪を掬う。その色をなんと例えよう。ソフィアが見てきた狭い世界の中に同じ青は無かった。綺麗な、そして珍しい色。

 この子はどこから来たのか。この生活が始まってから、新聞記事の事件欄は入念に調べているが、タートと関わりそうな話は出ていない。また最近になって気づいたが、少年の顔立ちは、髪色以外は、グレンと似通っていた。もしかしたらこの子はグレンの隠し子か何かで、何かの事件に巻き込まれて実父であるグレンを頼ってきたのかも知れない。だからグレン自身も、この子を市警に通報しない事を決めたのか――そこまでを考えて、ソフィアはその先を考えることを止めた。別にグレンがどこで女を作っていようが、自分は何とも思わない。むしろ早いところ誰か良い人を捕まえて結婚して欲しいくらいだ。しかし分類状は自分も彼の娘であるせいか、隠し子となるとやはり心中は穏やかになれない。

「ただァいまー」

 すると疑惑の養父が帰ってきた。暗くなった外を遮るように足で扉を閉めると、両手に抱えた紙袋が、カウンタ席に積み上げられる。

「どーしたんだいソフィア? そんな気難しい顔をしてると、皺が増えるぞ?」

「いえ別にお帰りなさい店長っ! なんでもないです!」

「ふーん。なら、そうなんだろうね」

 自分で聞いておきながら、彼にしては珍しく大して興味なさげに返事を返すと、グレンは眠りこける少年の寝顔を覗き込む。

「店長?」

 しっ、と口元に人差し指を当てて静寂を促した彼は、タートの頬に両手を伸ばすと、唐突に左右から引っ張った。そして離すと、頬はゼリーか何かのような弾力で揺れる。

「店長……何やっているんですか?」

「ふむ、すごいプニプニ度だ」

「だから?」

「これはプリンにも匹敵するぞ」

「それで?」

「伸ばしてみたいっていうのが、人の性じゃないかぁアッハッハー」

「……ほや?」

 グレンの(やかま)しい笑い声で目を覚ましたのか、そこで琥珀の瞳がゆっくりと開かれた。起きたタートはまだ眠そうに目を擦りながら上体を起こし、欠伸と背伸びをする――そして何を勘違いしたのか、少年は自分を凝視する二人の視線に気づくと長椅子から飛び跳ねた。

「ごめんなさい、ボク、寝ちゃってた! まだお仕事があったんだね!」

「いやいや、これから晩ご飯さ。さあ、ソフィアもこっちのテーブル来ちゃって。僕ァ用意するから、タート君と一緒に座っててヨ」

「へ?」

 急に名前を呼ばれたソフィアは、間の抜けた声を返す。その間にも背後に回り込んできた店長に強引に奨められて、タートの真横に座らせられる。そこから先の半時間はあり得ない光景だった。火の上を踊るフライパン。香ばしい匂いが漂い、次々と皿の上に料理が載せられる。手を動かすのは、誰かのために料理を作る黒縁眼鏡の男だ。その光景を呆然と眺めていたソフィアの精神を、嵐の直撃にも似た衝撃が襲う。

「本当に、あなたは店長ですか、本当にあのグレン=バルファルさんですか? 何で急にそんな目覚めちゃったんですか?」

 するとチッチッチと人差し指を振り、もう片方の手ではフライパンの上の引いた肉を焼きながら、グレンは拗ねた子供のように口を尖らせた。

「ソフィア、君は本当に失敬な人間だなァ。見くびらないでくれたまえ。『あんな大人になっちゃ駄目だからね』、なんて言われたら、店長たる僕は黙っていられないじゃないか。あっはっはー」

 あの会話を聞いていたのかと、少女は慄然する。そして何か勝ち誇ったかのように鼻腔を膨らませるグレンに、遺憾ながらも何も言い返せなかった。



 鞘から解き放たれた神剣の閃光を、少年の藍の瞳は最後まで見つめていた。

 縦に三階層分を繋げた吹き抜けの白い円筒状の部屋の直径は、常時百名以上の通信員を配置するだけの広さがあり、円周を囲む白い壁の中央に設けられた台座の上層から、少年は全体の様子を一望していた。

 否、今や少年の体がどこにあろうと意味は無い。この空間が納められた巨塔の全てを、少年の意識は共有している。そして彼は今、正面中央に浮かぶ、巨大なモニタを眺めていた。

 そこに映し出されていたのは、広大な木々の中に空いた茶色の土場。その焼けこげた大地につい数十秒前まで緑に囲まれた要塞都市があったと、誰が信じるだろうか。台座の下層では白衣を纏う科学者の群れが何台もの電脳端末(コンピュータ)の前で同じ画面を凝視していた。そしてある者は唸り、ある者は恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべている。人々の面は様々だが、ただ一つの共通点として言えるのは、全員が、その横顔に何かしらの驚嘆を貼り付けていたことだ。

『ハヴォック、制御状況を報告しろ』

『――冷却行程終了。〝クラウソラス〟第二射用のエネルギを再充填中』

 玉座に納まる少年が淀みなく答えた先は真横だ。高僧を意味する深緑(しんりょく)法衣(ほうえ)(まと)った男が、ハヴォックと呼ばれた少年と同じ画面を見ながら口の端を吊り上げる。対して、純白の法衣を纏ったハヴォック自身は、淡々(たんたん)と自らの作業をこなしていた。

『よろしい。異端者に安息の地など無いことを、思い知らせるには良い機会だ。射爆の中心地を蛮都へ向けろ。悪魔の手先は徹底的に焼き払いたまえ。【セラフⅢ】ハヴォック』

『了解。《クラウソラス》、照射行程に移ります』

 少年が再び答え――そして〝歌〟は聞こえてきた。

 響くソプラノの声。それは二つに、四つに分かれ、歌声の分裂は倍々に広がる。それは呪歌だった。幾重(いくえ)に重なる歌声は、全てが異なる旋律(せんりつ)で構成された唱和であり、そして全ての歌声の主――ハヴォックは、たった一人でこの膨大(ぼうだい)な歌を紡ぎ上げていた。

『座標設定〝ミラーⅠ〟〝ミラーⅡ〟角度修正完了まで九秒。〝クラウソラス〟エネルギー供給率七二パーセント』

 無機質に告げられる進行過程ですら、少年のもう一つの歌。

 変幻自在に変わり続ける幾つもの旋律が、紡がれ、交わり、組み合わされていく。

 やめて!

 突然、少年の耳元で誰かが叫んだ。だが誰一人として、その声に耳を傾ける者はいない。その言葉を知る者はいない。そして少年にもまた、その声は聞こえていない。

『〝クラウソラス〟撃てます――猊下?』

 深緑の男は重々しく頷くと、邪悪な笑みを浮かべてただ一言だけ告げた。

『――抜刀せよ』

 少年が最後の一小節を唱えて破壊の呪歌が完成する。瞬間、画面に映し出されていた天空が目映い光に包まれ、そして――

「やめてエ!! ………あ?」

 視界が暗転する。

 無意識に伸ばされていた手が虚空(こくう)を掴み、見開かれた琥珀から(しずく)の一筋が流れた。心臓は今にも張り裂けんばかりに脈打ち、夜の空気が火照(ほて)った体を急速に冷却していく。白い世界が去り、視界には照明が落とされた濃紺の部屋が横たわる。〝小さな羽根(リトルウィング)〟二階の寝室。暗幕(カーテン)越しに窓辺から差し込むのは、表通りの電灯だ。少年――タートは、自身の存在を確認するように見下ろした五指の開閉(かいへい)を繰り返す。

 タートが、白い衣装を纏うもう一人の自分の夢を見るようになったのは、ここで暮らし始めるようになってからだ。最初の方は少年自身も疑問に思っていたが、普段、夢に出てくる亜麻色髪の女性――何故か、あの人が出てくると、心が落ち着いた。だが今回の夢に、彼女はいなかった。こんなのは初めてだった。

「うぅ、寒いよぅ」

 ふと、真横で誰かが呟き、ここが自分の寝台じゃない事を思い出す。

 隣を見やれば、寒そうに身動(みじろ)ぐ少女の姿。

「ごめんなさい」

「どうした、恐い夢でも見た?」

「……うん」

 頷くと、ソフィアはタートが蹴飛ばしてしまった掛け布団を手繰(たぐ)り寄せながら、少年を布団の中へ抱き寄せた。再び温もりの中に入り、少年は自分の体が冷え切っていた事を知る。だからだろうか――体の震えが、いつまでたっても止まらない。胸のどこかが騒ぐ。得体の知れない闇に落ちる感覚。振り解こうとすればするほど、闇は(から)みつく。

 苦しい。苦しい。苦しい苦しい――

「大丈夫だよ」

 墜ちかけた少年を、少女の声が掬い上げた。怖ず怖ずと目を開くと、柔らかな感触がタートを包み込む。僅かに胸の奥を過ぎった懐かしさは、誰のものだったのだろうか。

「落ち着いた?」

 タートは頷き、涙で濡れた両目を隠すように少女の胸へ顔を埋める。そこは温かくて柔らかくて良い匂いがした。瞬間、ソフィアが強ばったのを感じて顔を上げると、ソフィアはどこか怒っているような、仕方なさそうな。恥ずかしがっているような、なんとも複雑な表情を浮かべていた。

「おねえ、ちゃん?」

「まあ、いいや。うん、何でもない」

「どうしたの?」

「……前にちょっとね。胸貸したら酷い目にあったこと、思い出してね」

「ひどいめ?」

「言いたくない! おやすみ!」

 離れるべきだろうか。少年は少しだけ考えたのち、やはり目の前の温もりに頬を埋めた。

 心地よさの中に次第と込み上がる眠気に意識を委ね、琥珀の瞳は閉ざされた。



 月光が降り注ぐ真夜中の市街を、灼熱が咆えた。

 構えられた長銃。その上下二門の銃口から噴き出した火弾が人型の影を穿つと、砕け散った頭部が石畳に撒き散らされ、片側だけ残された硝子の瞳が転がった。

 倒れた体から噴き上がる循環液を踏みつけて、長銃を片手に掲げた灰色の男は悠然と立っていた。彼の周囲に散らばる残骸。それらはおおよそ人の形をとっていたが、殺戮の舞台にしては、決定的な色が欠けていた。即ち、体内を巡る血潮の緋色。肉の代わりに鉄が横たわり、流れ出した色は月に照らされて白銀に光っていた。そして灰色の男は手にした長銃を持ち上げると、その二連銃口を天へ向け発砲――そこで、モニタに映し出された映像が途切れた。

《監視カメラはここで破壊され、数分後に〝鍵〟の反応も消失。捜索は一時中断されました》

 淡々とした少女の声が告げると、下界の遙か天上〝教典の塔(カノン)〟上層に設けられた円卓に重苦しい空気が流れた。彼らが血眼になって探し続けていた〝鍵〟。その反応が夜な夜な微弱ながらも現れるようになって、捜索部隊が編成されたその日の深夜に起きた光景だった。

「バカな。治安維持レベルの武装とはいえ、機械人形部隊が二小隊だぞ。それがこうもあっさりと――」

「そう、我らが誇る鋼の人形が、まるで紙屑。残念ながら、それが事実だ」

 静かに、揺らめく青炎のような声で、円卓を招集したジャミルが言う。

 世界各地の遺跡から数多くの種類が発掘され、今もなお研究が続けられる等身大の人型兵器。それが機械人形(フォニー)である。現代の技術で復元された人形は、過去の栄華に比べればあまりにも拙く、張り巡らされた肌色も、近づけばすぐに人工と判断できる。だがその下で彼らを構成する鋼鉄の体は、刃物も弾丸も通さず、それは警備用の性能しか与えられていなかった人形といえど変わらない。人間が造り出した機械仕掛けの化け物。そんな彼らを数分で破壊し尽くした灰色の男は、一体何だというのだ。

「あっはっは、だから言ったじゃないですか、治安維持レベルじゃ無理だって」

 場の緊迫した空気にはあまりにもそぐわない笑声に、将校や行政官、数ある部署の長達が一斉に、黒衣の軍服を着崩した茶髪の男を睨み付ける。そして最後に、都市を預かる長として、ジャミルが机上に組んだ腕から持ち上げた視線を、茶髪の男へ投げかけた。

「そのとおりだ。これが〝鋼鉄兵団〟の精鋭に置き換えられたとして、大して変わるとは思えん――〝主天使〟の力を借りようと思う」

「市街で〝古代機〟を使うおつもりですか?」

 そう、ジャミルに食ってかかったのは、市警を預かる初老の男だった。大柄なジャミルに比べれば小柄な男だが、市民の安全を守る者として、その眼光の鋭さは決してジャミルにも劣らない。

「市長、何であれ、相手はたったの一人。わざわざ封印した古の狂気を解放するほどの事態とは思えません。何よりあの化け物どもは、そもそも今の人類が扱うには規格外です」

「あは、言ってくれるじゃないですか。ずいぶんとひどい扱いだ」

 深々と椅子に腰掛けた茶髪の男――〝鋼鉄兵団〟の兵団長ネルグ=マトンが、足を組み替えて視線を挙げる。双方から交わる剣呑な視線。市警の長が何かを言いかけた直前、「やめろ」とジャミルが静かに告げた。

「確かに、主天使は劇薬だ。だが今後〝鍵〟が反応を見せる度にあの男が現れるようでは話は進まん。そうこうする内に、西のデュランダや、北のアスカロに〝鍵〟とこの〝教典の塔〟の関係を知られてしまっては厄介だ。この際、少々の騒ぎは大目に見るべきだと俺は考える。主天使言えど、何も全く制御がきかぬわけでもない。そうだろう、ネルグ?」

「もっちろーん。やろうと思えば近所のお使いから、お隣さんちの子守までできますよ」

「……だ、そうだが、まだ何か異論がある者は?」

 そうジャミルに問われ、意見を返す者はおらず、市警の長も押し黙る。勿論ネルグの言を信じたわけではない。北に位置するアスカロ共和国とは、今となっては表立った戦争は無いが冷戦関係は未だ継続されている。また西のデュランダ連邦国は、国境を挟んだすぐ隣町で内乱が起きている最中で、押し寄せる難民に紛れてどんな輩が潜入してくるか解った物ではない。

「そうそう、皆さん、悪だくみに出し惜しみは駄目ですよ。東の国にも『安物買いの銭失い』と諺があるじゃないですか。パーッと行きましょうよ、パーッと!」

 パン、と一度正面で叩いた手を天井へ広げながらまるで子供のようにはしゃぐネルグを咎める者はいなかった。そもそも老練の士ばかりが集まるこの円卓に、彼のような若者が同席していること自体が、周りから見れば不自然なのだ。

《――団長。〝鋼鉄兵団〟より四小隊の稼働準備ができました。いつでも出撃できます》

 すると、円卓に最初の少女の声が落ち、ふざけていたネルグがピタリと止まって、ジャミルへ振り返る。

「まあ、いきなり主天使を使っても良いんですけどね。今度の獲物はとにかくでかいんで、使える手駒はじゃんじゃん使って行こうかと考えてます」

「〝承認〟前だと言うのに、準備がよろしいことだな、団長殿」

「えへへー、準備が良い部下を持って嬉しいでしょ? 僕はどちらかというと尽くされるよりも尽くすタイプなんですよ?」

「野郎に尽くされても虫酸(むしず)が走るだけだ」

 しかし渋い顔をしたジャミルの口の端はどこか吊り上がる。承認は既に取るまでもない。今度もまた円卓は静かだった。

「そんじゃ、僕は僕の仕事をするために、一度、自室に戻りますね。まあ大船に乗った気持ちで待っててくださいよ。あっはっは!」

 ネルグは短く一礼すると、黒衣の裾を翻し、円卓を後にした。



 ネルグが別階にある彼の執務室に足を踏み入れると、照明が自動的に灯り、中央に鎮座する台座に、彼は腰掛けた。

「よいしょっと。やっぱり自分の部屋が一番落ち着くや。ワーム、それで〝セラフⅢ〟の接続具合は、今んトコどうなってるの?」

 ネルグが何もない空間に尋ねると、そこに集った光線が人の形を織りなし、ネルグと同じ漆黒の軍服を纏った少女の姿が宙に現れると、裾を摘む仕草で一礼をする。

 年の頃は十代の前半くらいだろうか。流れる若草色の髪は頭の片側で留め、整ってはいるが幼い顔立ちと、まだ未熟な背丈と体つきは軍服に着られている。しかしガラス玉のような双眸と、抑揚が無い淡々とした硬質的な声は、明らかに普通の少女では無い。

《この一週間になってからようやく、接続率は約一九パーセントまで上昇しましたが、夜間以外に反応は見られません。〝クラウソラス〟の使用深度まで到達するには、あと半月はかかるかと思われます》

 ワームは前文明が残した情報のネットワーク〝電脳空間(サイバー)〟に対応した電子仕掛けの人形(プログラム体)だ。象に結ばれた少女の瞳はネルグに向けられてはいるが、彼女の実際の目は、部屋の天井隅に備え付けられた防犯カメラであり、彼女の本体は別の場所にある。

「うわ、まだまだ時間がかかるね。どうしよう、閣下に任せてくださいとか言っちゃったよ」

《ネルグ》

「ん、なんだい?」

 ネルグは自分を名で呼んだ少女に眉根を細めた。

《六〇二秒前の都市長もそうでしたが――楽しそうです》

 感情が希薄な彼女が感想を述べるだなんて珍しい。口の端を吊り上げたネルグは目を細め、立体映像に首肯する。

「ああ、戦争ごっこが嫌いな男の子なんていないのさ」

《私には理解し難いです》

「まあ、女の子はそうだろうね」

《人間の男性には、随分と野蛮なプログラムが施されているのですね》

「その通り、男の子はみーんなケダモノ。だから、特に君のような可愛い女の子は、夜道に気をつけなさい。組み敷かれて毒牙にかけられちゃうぞーなんて、アッハッハ」

《夜が男性を凶暴化させるのですか?》

「後はお酒かなー?」

 ネルグが笑い飛ばしながら言うと、光線の少女は無表情のまま、一歩だけ後退した。

「……どうしたんだい?」

《団長も、私を組み敷きたいと思うのですか?》

 思わず()せ込んだネルグ自身も、どこまでが本気で、どこからが冗談なのかはよく解らないと評される事はあるが、この少女もまたさらに、どこまでが本気なのか解らない。

「僕は少女趣味(ロリコン)じゃ無いからなー。せめてあともう十年、いや、五年成長していたら……」

《…………》

 大体からして電子世界の彼女をどうやって組み敷くと言うのか。そんなどこか間の抜けている部下の様子が可笑しくて、ネルグは再び笑い出す。そしてふと思い出したように付け加えた。

「あ、そうそう。旧市街に派遣する四小隊だけど、くれぐれも静かに行動させてくれ。僕らの上司は、隠し事が好きな人だからねぇ。北よりも西よりも、我らが王都にこの塔の本当に意味を知られたくないからね」

《了解》

 電子の少女が答えると、光が霧散して姿が消える。そしてネルグは一息付いた後、台座にかけられていたバイザーを装着すると、足を組んだ姿勢で深々と腰掛ける。

「人生は、何が起こるかわからない。あんな遺物(エンシェント)にこんな所で出会うとは。全く、長生きはするものだね」

 そう、まだ若く見える茶髪の男はクツクツと込み上がる笑い声を押し殺そうとしながら、バイザーの中に映し出された遙か下界に見える旧市街を眺める。

「やぁ、そうだよねぇ――ルシフェル」



 午前九時。少年との生活が始まってから十日が経過した喫茶店〝小さな羽根(リトルウィング)〟は、穏やかな朝を迎えていた。店内を見渡せば、レポートに追われた学生がコーヒーを机に置いて広げた用紙に向き合い、最近姿を見せずに心配していた常連の老人はトーストを囓りながら新聞を読みふけていた。他にも卓席を囲みながら何事かを打ち合わせている男達や、お茶を飲みながら雑談に没頭する主婦達など、ここには人々の日常があった。そんな時間を提供する側のソフィアは、今日も淡々と業務をこなしていた。愛想を振りまく役が決まっていると、元看板娘は気楽なものである。仕事を取られただけとも言うが、気にしてはいけない。

「サンドイッチセットとミルクティーひとつ」

「かしこまりましたー」

 時々入る注文をこんな感じで応じながら、他の雑務をこなしていく。そうでなければ、とても店員二名プラス一名の零細企業(れいさいきぎょう)はやっていけない。さくりさくりと進む秒針。それは至って平穏な日常が続く日常。一秒一秒、年を取り、緩やかに歩む人生。繰り返される朝と夜の日常こそが、何事にも得難い幸福なのだ。

「コーヒーおかわり」

「はい、ただいま伺います」

「店員さ~ん、アップルパイひとつお願い♪」

「はい、少々……ん?」

 ああ、幸せの日々――お昼時に差し掛かった所で、ソフィアはその注文の声に違和感を憶えて視線を上げる。するとそれは何の見間違いか。奧の卓席を店員服の黒縁眼鏡の男が陣取り、片手に文芸書。もう片方の手に持った紅茶のカップを、口付けているところだった。

「あの、店長さんは、今日はお客さん?」

 足下に戻ってきたタートの困惑したソプラノが、注文に応じるかどうかを光の速さで否と決した少女に問いかける。

「あいつはー、気にしなくていいわね。うん。空耳ね、そうじゃなければ幻聴よ。あら、どうしましょう。右手が包丁を掴もうとしている。おほほほ、あたしはこれで何を切り裂こうとしているのかしら?」

「お、お姉ちゃんちゃん……何だか怖いよ」

「アレ、店員さん? 僕のオーダーは無視ですかそうですか?」

「店長、なんでテメェはそこで、優雅な朝のティータイムを送っていやがるのですか?」

 ついに『あいつ』が『テメェ』呼ばわりになった男に対する殺意を抑えながら、ソフィアは、僅かに残った理性を総動員しても引きつる営業スマイルを浮かべる。

「ふっふっふ、僕のような紳士が朝を優雅に過ごすのは当然のことじゃないか。というわけで従業員Aである君は、早く僕にアポーパイを持ってきなさいそうしなさい」

 ブチリと、少女を支えていた最後の何かが、そこで切れた。後に、傍らで事態を傍観するしかできなかった少年は、『オネェちゃんの後ろに、炎が見えたの……』と語る。

「……かしこまりました。少々お待ち下さい」

 感情が欠落したような不自然に低い声。(うつむ)いた彼女の口元は小さく笑っているだけなのに、何故か邪悪に(ゆが)んで見えた。絶対零度(ぜったいれいど)を宿した静かな、座った瞳。それは絶対に降ろしてはいけない何かが降臨(こうりん)した瞬間だった。

「うんうん、わかってくれて(ぼか)ァ嬉しいよ」

 男が向こうで何かを言っているが、もはや少女の耳には何も聞こえていない。ソフィアは無言のまま下ごしらえをしていたアップルパイを取り出し、後は焼くだけのそれをオーブンに入れる直前、生地の上に景気よく、フランクフルト用のマスタードをぶちまけた。そして間髪入れずにタバスコが瓶単位で注ぎ込まれ、躊躇なく唐辛子の粉末を振りまいて、隠し味だと謂わんばかりに山椒(さんしょう)がまぶす。そのまま魔改造が施されていくアップルパイは、もはやデザートでは無かった。殺傷力を込められたそれは、もはや兵器と呼ぶのが相応しい。

「あ、あの、オネェちゃん。食べ物を粗末にしちゃ……」

「――なにかな?」

 その一連を横から見ていた唯一の目撃者であるタートは恐る恐る尋ねかけると、真冬の湖のように静かで冷たい微笑が返されて、言葉を続けられなくなる。

 嵐の前の静けさを彷彿させる瞳が、不自然に嗤っていた。少年は何も言えずに、ただかぶりを振る。周囲の客の誰もが、その得体の知れない、凶悪を内包したオーラを感じ取り、そこに誕生を果たした鬼を見守っていた。その様子に気づくことなく、黒縁眼鏡の男は鼻歌交じりに今日の新聞を読みふけっている。

 それから数分後、約一名の身に起こった阿鼻叫喚の地獄絵図の出来事は、後日【審判の日(ジャッジメント)】として、後世に語り継がれていくことになった。



 昨夜から降り続いていた雨が上がった早朝は、空気が湿っていた。雲一つ無い抜ける晴天に朝日が昇ると、ハヴォックは違和感に気付いた。台所に置かれた猫の餌箱から餌が減っていない。そしていつもなら飼い主に顔を見せに来る老猫の姿が見えなかった。

 あれ以来、猫に触れる訓練をするのが日課だったハヴォックは、意識を家のセキュリティ・システムと同調し、庭先から少し離れた草むらの中で静かに眠るその姿を発見した。

 ハヴォックが庭先に出ると、猫はまだそこにいた。しかし様子がおかしい。普段は近づいただけで逃げていく老猫が、今日は木石みたく動かない。試しに両手で抱き上げてみると、猫は少年を引っ掻こうともせず、先日までの抵抗が嘘のように素直だった。だが始めて抱き上げた猫の体は、聞いていたのよりもだいぶ冷たく、固く、どこか軽かった。そして後からやってきた女に眠っている猫を見つけたと報告すると、女は膝を折って猫を凝視する。

『そっか、終わっちゃったんだ』

『何が終わったの?』

 尋ね返すと女は笑った。彼女は何かを尋ねる度に、必ず微笑みを返してくれる。だけど今日のそれは、少年が嫌だと感じる、あの笑みだった。

『この子の命がね、繰り返された朝と夜の果てに辿り着いたんだよ』

『どういう意味?』

『もう、マオマオはここにいないんだ』

 即座に走査(スキャン)。自分が抱くこの猫の個体識別情報は対象の猫と完全に一致している。少年は彼女の言葉を理解しかね、走査結果を告げようした。だが先に女が言葉を繋げた。

『マオマオはね、眠ってるんじゃないんだ――死んじゃったんだよ』

 彼女は自分の顔を片手で覆うと俯く。そこで見えた口元は、何故かまだ歪んでいた。その仕草にどんな意味があるのか、少年は知らない。知ることも許されない。

『つまりマオマオは、壊れたの? それをシェリーは直せないの?』

 少年がシェリーと呼んだ女の表情が一瞬だけ強ばった。少年に取っての〝死〟とは、そう言う物だ。シェリーは顔を持ち上げると、少年の琥珀と視線を合わせ、かぶりを振る。

『〝壊れる〟と〝死ぬ〟は、違う。壊れた物は直せるけど。死んだものは、もう誰にも、どうしようもないんだ』

 言い聞かせるような言葉が、そこで一度切られた。その時、彼女の瞳が覗いていた物は何だったのか。シェリーの全てを知らない以上、ついに少年は彼女の視線の先を知ることが無かった。そして少年が抱き続ける老猫の(むくろ)を、そっと撫でる。

『わたしに直せるのはまがい(フォニー)の命だけ。わたしにもね本物の命は、造り出せなかったんだよ。マオマオはさ、わたしの、最後の家族、だったんだけどな』

 そこでシェリーの言葉が崩れ始めると、彼女は少年を抱き締め、顔を埋めた。少年は知らなかった。ただ硬くなった猫の骸を抱きながら、立ち尽くすしかできなかった。



「うきゃあああああああ!!」

 ソプラノの絶叫が小綺麗(こぎれい)に整えられた店内に木霊したのは、青髪の少年が入り口を潜った直後だった。床に尻餅を付き、怯えた琥珀の瞳が頭上を仰いだ。何事かと店内にいた全ての人間が振り返ったが、店の恒例行事だと知ると、皆、すぐに興味を失って元に戻る。

 恐がりとは思っていたが、まさかこれほどだったとは。少年の後ろで〝彼〟との初対面を期待していたソフィアは密かに反省した。

 今日は〝小さな羽根(リトルウィング)〟に訪れた久々の定休日で、ソフィアは日常生活品の買い足しに行くついでに、タートを連れて商店街まで繰り出してきた。昼頃から始まった買い物自体は順調に進み、両手に買い物袋を提げながら、散策のつもりでタートを連れ回した。彼は今までどんな暮らしをしていたのか、街で見る物全てが新鮮らしく、途中に寄った公園の売店で売られていたソフトクリームを二人で食べたり、都市の公共図書館の案内すると、彼の表情は面白いほどコロコロ変わった。そして夕方近くになってから、最後に寄ったのが、このお菓子屋だった。ここ〝テスラルキッチン〟の創設者は、グレンの旧友であり、現在の経営者はソフィアの兄と姉みたいな人達だ。

 近くまで寄ったので挨拶がてら、何か適当に甘い物を買ってから帰ろうと思ったのだが、そこでソフィアの悪戯心(いたずらごころ)(くすぶ)られた。ケーキやパイなど、この店のお菓子は近所の子供達からも人気が高いが、その前に、ここでとある洗礼式を受けることになっている。場合によっては大人ですら怯む、ある種の名物。

《大丈夫か?》

 それが〝彼〟だ。重金属に物を喋らせたような機械音声が落ち、決してお菓子屋さんに似合うはずのない緋色の単眼がタートを見下ろす。天井に届かんばかりの黒い巨躯。戦車の如き重厚な装甲。四本指のマニュピレータが突き出されると、タートは泣きそうになりながら、ただ震えていた。おそらく〝彼〟本人は優しく差し伸べただけのつもりだったのだろう。

《外傷は無い》

 黒鉄の巨人は、勝手に少年の外傷を調べると、それだけを告げて差し伸べた手を戻す。直後に、単眼が明滅したのは、表情を持たない鋼鉄の彼が微笑みかけようとしたからだったのかも知れない。

「やっほーボルボゴ、元気にしてた?」

《機体の稼働率はこの半年、常に正常状態だ》

 ソフィアに名を呼ばれた黒い巨人が、緋い単眼を旋回させて少女を見下ろす。彼――ボルボゴはこの店の従業員だった。



 込み上がる笑いを必死に(こら)えるのは紺色の髪の男だった。彼は足が不自由なのか、銀色の車椅子に腰を下ろしており、その傍らには長い栗鼠色髪を束ねた女が、苦笑いを浮かべて男の隣に腰掛けていた。経営者であるテスラル家の住居空間に使っている二階の客間。男の方はラグラル=テスラル。菓子職人であり、二代目の店長だ。隣の女性はラグラルの妻たるチェルルだ。二人とも、ソフィアが幼少の頃からの知り合いであり、よく可愛がってもらった。

「また犠牲者が出ちゃったね」

「だけどボルボゴはあれが素だからしょうがないよ。何たって戦闘型重装機兵だし」

 テーブルを挟んで彼らの向かい側に座る青髪の少年は、顔を赤らめ俯く。

 あの黒鉄の巨人は、遺跡から発掘・復元をなされた〝機兵〟と呼ばれる人型戦闘兵器である。その姿は無骨な印象を受ける亜人間型であり、小型で細身の機械人形(フォニー)とは対称的に大型で重装甲な物がほとんどだ。治安維持などよりも戦場で使用される事を前提とされ、敵に与える心理的影響まで含まれて設計された戦車のような外見は、とても女の子が憧れるお菓子屋さんで店番をやるような機体では無い。大昔の機体たるボルボゴは、兵器としての現役はとっくに引退しているが、子供がボルボゴを見て腰を抜かすのは、当然と言えば当然である。しかしそんな旧型機兵を店員として扱うラグラルの横顔は涼しげな物だ。

「ソフィちゃんが遊びに来るなんて久しぶり! グレンさんは相変わらず?」

「そう! 聞いてくださいよチェル姉さん! あのサボリ魔、またお客さんの中に混じって悠々(ゆうゆう)と紅茶飲んでたんですよ! 信じられますか!?」

「……やっぱり苦労してるのかー」

「ところで、そちらの少年が、噂の〝小さな羽根(リトルウィング)〟のマスコット君ですか?」

「え、あ、はい! そうです」

 丁寧(ていねい)な口調で喋るラグラルの問いかけに、ソフィアはやや狼狽(うろた)えた。顔立ちが似ているので、一応、尋ねてくる客にはグレンの遠い親戚ということで誤魔化しているが、バルファル家とつきあいの長いテスラル家にこの嘘は通じない。

(……さて、どう説明するべきか)

 しかしラグラルもチェルルも、少年との関係については尋ねてこなかった。

「タート君は、うちの子供達と同じくらいの年齢ですね。あいにくと、今日は友達の家へお泊まりで留守にしていますが、今度会った時に、うちの子達と仲良くしてくれると嬉しいです」

 ラグラルの穏やかな草原色の瞳が、長椅子の上にチョコンと座る少年に向けられる。男の外見は学生と見間違えられるほど若々しいが、彼はこう見えても既に二児の父親であり、今年で三十路に入った。ちなみにチェルルは彼よりも一つ年上だが、彼女もまた、若々しい外見を保ち続けている。加えて小柄な彼女は、そのまま少女と言っても通るのではないだろうか?

「……うわ、あたしの周りって、化け物だらけだわ」

「え、なに? 聞こえなかったわ」

「い、いえ、なんでもないです!」

 思っただけのつもりで口に出ていたらしい。いつまでも外見に変化が見られない家族の事も思い浮かべて思わず呟いてしまったのを、少女は慌てて誤魔化した。その時、ラグラルの手元、車椅子のサイドボードに備え付けられた小型端末に電源が入り、それまで沈黙を守っていたスピーカーに雑音が混じる。

《ラグラル、お前に客だ》

「またですか……営業妨害だよなぁ、まったく。しょうがないです。別のお部屋に通してください。すぐに行きますので」

 従業員の報告を聞いた主は苦虫を噛みつぶした表情で悪態を付くと、渋々と指示を飛ばす。ボルボゴの重低音が短く頷き雑音は消えた。元々長居をするつもりがなかったソフィアはそこでテスラル家から帰路につく。冬が近づく夕方は、闇が空を覆うに連れて急速に冷え込んでいく。それはこの都市も例外では無い。

 身を切る寒さを訪れるのはまだ先。だが吐息を白く曇らせるには充分だ。

「あー、もうすぐ本格的に寒くなるねー」

 見上げた空、軒並(のきな)みの隙間から見える天空は、その色を緋から紺色に変えつつ、(ちりば)められた星々が青白く光る。そしてお土産に貰ったクッキーの袋を片手に提げた少年の手を引きながら、ソフィアの思考は既に明日の予定を組み立てている。

「さてタート、今日の晩ご飯と、明日の朝ご飯はどうしようか」

「ぼくは、コロッケが食べたい!」

「オーケー、材料はあるから大丈夫だよ」

 少年も、だいぶうち解けてきたのか、最近では晩ご飯をリクエストするようにまでなってきた。最初のよそよそしい雰囲気はもうほとんど無い。あとは主食をパンにするか米にするか――そんな事を考えながら歩いていた少女の歩調が、何の前触れもなく止まった。少年の手を握っていた左手から、力が無くなる。

「……オネェちゃん?」

 不審に気づいたタートがソフィアを見上げると、少年はすぐ異変に気づく。見開かれた空色の瞳が凝視する先、別の路地から姿を現した二つの人影。だがその印象と気配は人のそれと明らかに違う。氷を彷彿させる冷たい視線。左右完全対称の顔。規則正し過ぎる歩調が、都市の中央部、〝教典の(カノン)〟を目指して奏でられていく。ソフィアは、その人影が見えなくなるまで、立ち尽くした。見えなくなったところで、少女は痙攣するように震える左腕を押さえながら、その場に座り込む。そこにいたのは、どこまでも無力な少女の姿だった。

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